5
「エレナはどうやらレヴィローズへ向かっているみたいね」
エレナが攫われて三日。
ジュリアが地図を前に言えば、ユーリはぴくりと耳を動かした。
「レヴィローズ? 遥か南の国だぞ? どうしてそんなところに……」
「知らないけど。あたしの鳩が教えてくれてたわって、どこに行くの?」
「決まっている! レヴィローズだ!」
そのまま狼の姿で駆け出していこうとしたユーリを、ライザックが慌てて止めた。
マルクスがユーリが出られないようにダイニングの扉をぱたりと閉じる。
「まあまあ待ちなって。行くにしたって準備が必要だろ?」
「エレナは男と二人っきりなんだぞ!」
「正確には御者がいるから三人ね」
「男と一緒なのは変わらないじゃないかっ」
ユーリは地団太を踏むように前足でだんだんと床を叩いた。
ライザックがなだめるようにユーリの背中を叩く。
「エレナちゃんはかわいいから心配なのはわかるけど、ジュリアさんが大丈夫だって言ってるんだから、な?」
「攫われた時点で大丈夫じゃないっ」
「あーうん、そうだな、俺が悪かった。とにかく、追いかけるのにはここにいる誰も異論はないんだから、準備くらいはしたっていいだろ? まさかお前、その姿で走っていくつもりだったわけじゃないだろう? どれだけ距離があるかわかってるよな」
「この姿なら走れる!」
「……あー、うん、エレナちゃん絡むと、お前途端に馬鹿になるな」
ライザックははーっと息を吐き出した。
その間にも、マルクスはミレットたちに指示を出して、旅支度を整えさせている。
ジュリアは地図を睨みながら、細い指を顎にあてた。
「……レヴィローズね。なんだか、嫌な予感がするわ」
馬車が南に進むにつれて、当然ではあるが暖かくなっていった。
サンドラードが買い与えたワンピースを着たエレナは、流れていく窓外の景色を眺めながら、あとどのくらいでレヴィローズに到着するのだろうかと思った。
かれこれ、二か月近くは馬車に揺られている。
この二か月の間でサンドラードと、御者台に座るヒューバートという青年とはだいぶ打ち解けたが、かといって、彼らがレヴィローズへ向かう目的を教えてくれるわけでもなかった。
ヒューバートは、御者として御者台に座って入るが、サンドラードの護衛でもあるらしい。護衛がつくくらいだし、サンドラードの少々尊大な態度から見ても、彼はある程度の身分のある男性だと推測できるが、残念ながら彼自身のことを訊ねても答えてはくれなかった。
「疲れたか? 近くに川があるから休憩しよう」
サンドラードはエレナの体調には敏感で、少しでも無理をしていると判断すると、必ず休憩を取ってくれる。
サンドラードは女性を手荒に扱うような男性ではない。エレナはそう感じるのだが、そうであればどうして無理やりエレナを攫うようなことをする必要があったのか、甚だ疑問であった。
(聖女って言っていたけど、その伝説の聖なる力が必要になるくらい困ったことが起こっているのかしら?)
しかし残念ながら、エレナにはその「聖なる力」は存在しない。絶対解呪の力でさえ安定しないし、正直、エレナもどうやってその力を使っているのかはわかっていないのである。
ユーリとキスをするときは、ただ恥ずかしくてドキドキしているだけで、特別何かを考えているわけでも、力を使おうとしているわけでもないのだ。
サンドラードにもやんわりと、彼が思っているようなたいそうな力は持っていないと伝えたのだが、聞き入れてはくれなかった。
サンドラードが川の近くに馬車を止め、エレナは馬車から降りることを許された。二か月弱の移動の間、エレナが大人しくしていたからか、逃亡の恐れはないとみなされているようで、それほど監視は厳しくない。
遠くへ行かなければ川の近くで休んでいいと言われたので、エレナは川岸まで下りて、大きな岩に座ると、靴を脱いで足先を川面につけた。この辺りは暖かいとはいえ、川の水は冷たくて一瞬びくりと震えたが、慣れてくるとその冷たさが気持ちいい。馬車に揺られ続けて疲れていたので、エレナは体が冷えない程度の間、そうしていることにした。
サンドラードによれば、もう少し行くと温泉が湧いている町に出るらしい。移動中、いくつか温泉の湧いている町を通って、そのたびに疲れを癒すように言われたが、どうやら彼はわざと温泉のあるルートを選んでいるようだった。きっとこれも、エレナの体調のためなのだろう。
エレナは雲一つ見えない真っ青な空を見上げる。吹き抜ける風がやわらかくエレナの髪を揺らしていく。
「ユーリ殿下……」
空を見上げたまま、エレナがぽつりとつぶやいた時だった。
ばさばさと音を立てて、突然、真っ白い鳩がエレナの肩にとまった。
エレナが驚いて鳩を見やると、鳩はくりんと丸い目を向けて、それから小さなくちばしを開いた。
――元気そうでよかったわ。
鳩の口からジュリアの声がして、エレナはぎょっとした。
「ジュリアさん?」
――し! 大声を出したら気づかれるから、静かにね。
エレナはハッとして後ろを振り返った。サンドラードとヒューバートは馬車の近くで何やら話し込んでいる。
エレナは胸を撫でおろして、鳩に視線を戻した。
「ジュリアさん、鳩になれたんですか?」
――そんなわけないでしょ。術を使って話をしているだけよ。あまり長くも持たないから手短に言うわ。あたしたちもあんたを追って、レヴィローズへ向かっているの。到着は少し遅れそうだけど、もしもあんたを攫った男に何かを頼まれたとしても、余計なことはせずに大人しくしておきなさい。いいわね?
ジュリアは、まるで何かを知っているような口調でそう言った。
何かを知っているなら教えてほしかったが、「長く持たない」と言っていたから余計な会話はできないだろう。
エレナが頷くと、ジュリアの声にかぶさって、もう一つの声がした。
――おいジュリア! 独り占めするなっ。エレナ? そこにいるのか?
ユーリだった。エレナはユーリの声に思わず目が潤んでしまって、目じりをぬぐった。
「殿下……」
――エレナ! 大丈夫か? いいか、すぐに助けに行くからな、大人しく待っているんだぞ。男に何かされそうになったら容赦なく急所を蹴り上げ――
――ちょっと邪魔しないでよ! 雑談するためにつないだんじゃないのよ!
――うるさい! 少しくらいいいだろ!
――よくないわよ! この術、どれだけ疲れると思ってるの? ああもう、邪魔! エレナ、いいこと? できるだけ早くいくから、何を言われてもわからないふりをするのよ。それから、レヴィローズの城へ連れていかれそうになったら、アメシストのペンダントを必ずしていきなさい。それがあなたを守ってくれるわ。
ジュリアの声はそれで途絶えて、かわりに鳩がクルックーと愛らしく鳴いて飛び立っていく。
エレナはずっと首から下げているペンダントに触れた。
ユーリが、追いかけてきてくれているらしい。
自分でも知らないうちにずっと心が張り詰めていたのだろう。ユーリが来てくれると聞いだだけで、涙腺が崩壊しそうになる。
(だめ、泣いたりしたら怪しまれちゃう)
エレナは涙を我慢するように上を向いた。
青い空の下で、先ほどの鳩がパタパタと羽ばたいているのが見えた。
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