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「起きたか」


 エレナは知らない男の声を聞いて、飛び上がりそうになった。

 ガタガタと揺れる座席に、どうやらここは馬車の中で、移動中であるとわかる。

 エレナはどうやら座席に横になっていたようで、両手をついて起き上がると、真向いの席に座る男を見やった。

 灰色の髪をした、二十歳前後だろうと思われる青年だった。少しだけ日に焼けた浅黒い肌をしていて、鼻が高くて、顔立ちは整っている。しかし、エレナを見つめる緑の目は、どこか虚ろで、疲れているようにも見えた。


「ここ、は……?」

「馬車の中だ」


 それはさすがにわかる。エレナは馬車の窓外を見たが、外の世界を知らないエレナは、見たところで、どのあたりを移動しているのかなんてわかるはずもなかった。


「あなたは……?」

「サンドラード」

「サンドラード、さん?」

「そうだ、聖女よ」

「せ、聖女……?」

「そなたのことだ。ロデニウムの第二王子の呪いを解いたという聖女はそなたのことだろう?」

「それは……」


 実際のところは、エレナの力がまだ足りないためにユーリの呪いはすべて解けてはいないが、ユーリの呪いを解いたのはエレナの内にある絶対解呪という異能の力だ。けれども、聖女と呼ばれるのは違う気がする。というか、そもそも「聖女」が何かがわからない。

 エレナが不思議そうな顔をしていると、サンドラードが「ああ」と頷いた。


「ロデニウムには聖女伝説がないのか。俺の国には昔から聖女という聖なる力を持った女性の伝説があるんだ。といってももう何百年とその姿は拝めていないが……、ここにきてそなたの存在を知った。俺はついている」

「は、はあ……」


 エレナにはさっぱりだ。わかっていることは、昨日の夜に誰かに襲われて、目が覚めたらここにいるということだけ。すると、エレナをさらったのは目の前のサンドラードである可能性が高いと思われるが、いきなり彼の国にあるという伝説の聖なる力を持った聖女扱いをされて、エレナは戸惑うしかない。


「あの……、聖女はともかくとして、どうしてわたしを? できれば家に帰していただきたいんですけど……」


 エレナがどれだけ長い間眠っていたのかはわからないが、突然いなくなってしまったので、きっとユーリたちが心配しているはずだ。

 しかし、サンドラードは首を横に振った。


「それはできない」

「どうしてですか?」


 いきなり連れ去らわれて、家に帰してくれないというのはあんまりだ。

 エレナは泣きそうになったが、サンドラードの切実に何かを訴えるような双眸とぶつかり、次の言葉が出なかった。


「聖女よ。すまないが、そなたには俺と一緒に来てもらう」

「どこへ、行くんでしょうか?」


 サンドラードは馬車の窓の外に広がる青空を眺めて、言った。


「ここから南にある国、レヴィローズへ」


 エレナは息を呑んだ。






 レヴィローズという国は、ロデニウムから見ると遥か南東の位置に存在する国らしい、南を内海に面している、年中暖かく穏やかな国だった。だった、と過去形であるのは、三年前のある事件から、国は「時」を止めてしまったからである。

 時を止めたとはどういうことだろうかとエレナは訊ねたが、サンドラードは悲痛な顔で、見ればわかるとしか教えてはくれなかった。


(……結婚式、どうなっちゃうのかしら)


 レヴィローズへは馬車で二か月半かかるという。予定している結婚式はとうにすぎてしまうことになる。結婚式はユーリが離宮でしたいと言ったから、国王陛下はユーリの兄である王太子も来てくれることになっているのだ。今回のことに怒って、ユーリと離縁するように言われたりしないだろうか。


(ユーリ殿下に会いたい……)


 それどころか、もしかしたらこのままユーリに会えないかもしれないという不安も襲ってきて、エレナは日を数えるごとに恐怖で胸が押しつぶされそうになった。

 レヴィローズという国にいったい何があるのかは知らないが、事情も説明されずに強制的に連行されるなんてひどくはないだろうか?

 サンドラードは、エレナを離宮に帰してくれないこと以外に関してはとても親切だが、それでもエレナの事情を無視するのはあまりに勝手である。


「次の町で休もう。そなたの服も買わなければならないな」

「……せめて、ユーリ殿下に手紙を書いたら駄目ですか?」

「駄目だ。安心しろ、終わったらちゃんと帰してやる」

「………」


 サンドラードがこの調子なので、エレナは御者台に座る二十五、六ほどの青年に話しかけてみたが、御者というよりは剣士のような格好の彼も、苦笑を浮かべるだけで、エレナの希望はかなえてくれなかった。

 宿の部屋に運ばれた何枚もの服や靴を前にエレナが閉口していると、何を思ったのか、サンドラードは今度は数々の宝飾品まで買ってきた。あれだ。これは黙っていたら、目の前に服と靴とアクセサリーの山ができるやつだ。エレナはあきらめて、もう十分だと礼を言った。するとサンドラードは満足したようにうなずいて、隣の自分の部屋に戻って行った。

 エレナはため息をついて、ベッドの上に並べられた服や靴、アクセサリー類を片付けると、ごろんと横になった。


「ユーリ殿下……」


 ユーリは、狼の姿に戻って不自由していないだろうか? エレナに会いたいと思ってくれているだろうか?

 エレナは夕飯までの短い間に軽く眠ることにして、瞼の裏にユーリの姿を思い描いた。


(会いたい……)


 ユーリに出会ってから、彼が隣にいることが当たり前だったから――、ユーリがそばにいないのは、まるで吹雪の中に裸で放りだされたかのように、寒く感じた。

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