第4話 オムライス《鷹取 敦士》

木々は葉を落とし冬の装いとなり、凛とした空気に包まれた、穏やかなある日の午後。


喫茶うみねこの暖炉には火が灯り、優しい温もりが店内を包み込んでいる。


「ごちそうさま。敦士君、今日のナポリタンも美味しかったよ。マスターの珈琲もね」


会計を済ませて、レジの前で光沢感のあるグレーのカシミヤマフラーを首に巻きながら、黒田さんが言った。


「ありがとうございます。帰り道、気を付けてね」


「はいよ。じゃあね、また来るよーーおっと。ごめんね、ドアぶつからなかった?」


カランカランとドアベルを鳴らして開けた黒田さんは、とっさに壁際に体を寄せた。


「すみません。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


「いえいえ。お先にどうぞ」


黒田さんは、ちょうどドアの前にいた楓さんが店に入ったあと、もう一度俺たちに会釈してから帰って行った。



「いらっしゃいませ」


窓際のソファ席に座った楓さんの元に、おしぼりとメニューを持っていく。


「シナモン珈琲を。あと、お昼御飯がまだなので、何か食べたいなぁと」


メニューのページをめくりながら、文字を指で辿りながら「これ美味しそう」「あ。これも・・・」と悩んだ末、ぴたりと手を止めた。


「オムライス・・・オムライスが良いです」


「はい、かしこまりました。それでは、お待ち下さい」


俺がシナモン珈琲を淹れ、隣でシンさんがケチャップライスを作り始める。


窓の向こうに見える木々は、今にも落ちそうな葉が枝に最後の力でしがみつくように、くるくる、ゆらゆらと揺れている。


まるでバレリーナが、軽やかに回り踊るようだ。


枝があらわになった木たちは、今までと違うどこか神々しい雰囲気を持っているようにも見えた。


薄い雲がかかり、一層色味の少ない外の世界は、喫茶うみねこの店内の色を濃く感じさせる。


壁に取り付けられたオレンジがかった黄色いランプの灯りが、この森に射し込む夕陽のようなあたたかい光を放っている。


それに照らされるワインレッドのソファが、どの季節よりも重厚に見えるのだ。


「お待たせしました。シナモン珈琲です」


「ありがとうございます。ケチャップの良い香りがしますね。ふふっ、楽しみです」


カウンターに戻ると、卵を溶いてこれから焼くところのようだ。


「敦士君、やってみるかい?」


「あ、はい!」


フライパンに薄く卵を焼いて、シンさんが作ったケチャップライスを乗せる。


この瞬間は緊張する。


「よし・・・よっと」


「お。上手いじゃないか」


フライパンを軽く振って、なんとか上手く包め、安堵から頬が緩む。


木の葉型のふっくらふくらんだオムライスの皿をトレーに乗せ、出来立てのオムライスを今か今かと子供のように目を輝かせて待つ楓さんの元へと運んだ。


「お待たせしました。オムライスです」


「わぁ!美味しそう。いただきます」


それから、シンさんは窓辺の椅子で休み、俺が洗う皿がカチャカチャと小さな音を立てる。


楓さんはとても幸せそうにオムライスを食べていた。



「どーもー。こんにちはー」


ひやりとした外気と共に、肩を縮めながら翼さんがやって来た。


「翼さん。こんにちは」


ベージュのシンプルなコートを脱ぎ、白いふかふかの耳当てを外した翼さんは、いつものようにカウンターに席に座る。


「うー、寒かったぁ。あ、楓さん。いらっしゃい」


楓さんはオムライスでいっぱいの口元を手で覆いながら、にっこりと会釈してみせた。


「ジャンナッツのミルクティーね。もちろん温かいので」


「はい」


猫のマークの黒い缶を、木製の大きな棚から取り出す。


その間もシンさんは、閉めたままの窓ガラス越しに、ぼんやりと外を眺めていた。


銀色の白髪が、灰色の窓の向こうの景色と馴染んで、これもまた絵になる。


店内に四人もいるというのに、静かな喫茶うみねこ。


あぁ、この店が好きだなぁと改めてしみじみ感じながらお湯を沸かしていると、シンさんが口を開いた。


「敦士君、部屋はどうだい。不便はないか?」


「あ、はい。もう十分すぎるくらいです」


俺がそう返すと、なにやら手帳を眺めていた翼さんが「えっ」と顔をあげた。


「何々、ここに住んでるの?」


「はい。シンさんが誘ってくださって、11月から。2階を使わせて頂いています」


実は一人暮しを始めようと準備をしていた時、不動産屋に行く話を何気無くシンさんに話すと「ここに住むと良いよ」と言ってくれたのだ。


『どうせ空き部屋だから家賃も要らないよ。年寄りの独り暮らしだからね。敦士君が居てくれた方が、私も安心だから』


との事だった。


何度も家賃は払いたいと申し出たり、給料から引いてもらうよう頼んだのだが、どうしても受け取っては貰えず、シンさんの親切心に甘えさせて貰うこととなったのだ。


実家暮らしをよく思っていなかった母は、『小さな喫茶店』という事にはまだ心配は拭えない様だったが、何とか前に進んだ事には喜んでいたし、父に至っては『どんな事もやり続けることに意味がある。今度はもう絶対に自分から諦めるなよ』と見送ってくれた。


淹れた紅茶を翼さんに出すと、手帳を鞄に戻しながら「だから、最近この辺で見掛けなくなったのね」と不服そうに頬を膨らませていた。



「ごちそうさまでした。オムライス、美味しかったです。昔、父が時々作ってくれて。想い出の味なんですけど、その記憶が甦るくらい懐かしくて美味しかったです」


「おや、そうですか。それは嬉しいですねぇ。良かったね、敦士君」


「あ、はい!」


レジでお金を支払う楓さんに、窓辺に座ったまま、シンさんが微笑む。


「こちらのお店は、全てマスターおひとりで今までやってらっしゃったんですか?ショパンの曲も、内装も。食器も、とてもお洒落でこだわりも感じて、素敵だなぁと思いまして」


楓さんは店の中をぐるりと見渡す。


そういえば、シンさんの過去の話は聞いたことがない。


この喫茶店を始めたのは何故なのだろう。


いつも決まってこのショパンの別れの曲がかかっていて、それが当たり前になっているが、これに拘る理由もまた何かあるのだろうか。


「あぁ、ここはねぇ。私ひとりで作った店じゃないんだ」


だが、シンさんはそれ以上は口を閉ざしてしまった。


沈黙と、切なく優しいメロディが俺たちの間に流れた。


「きっと、素敵な方なんでしょうね。マスターがこのお店を大切にしてらっしゃるのが、よくわかりますから」


「あぁ、それと・・・」と彼女は改まって深々と頭を下げた。


「ここに来るのはこれで最後になるかと思います。予定より早いのですが、次の町に移ろうかと思っています」


「えっ!もう行っちゃうの?!」


翼さんの声が、動揺で裏返る。


「そうですか。それは寂しいですが、きっとまた良い出会いがありますよ。またこちらに来ることがあれば、いつでもいらしてください」


シンさんの言葉に、「はい」と笑顔で答えた楓さんは「それでは、ありがとうございました。シンさんも、お身体だいじになさってくださいね」と、丁寧に一礼してから帰って行った。



「ねぇ、敦士君。さっきのオムライス、私も食べたいな。お昼食べてないんだよね」


「はい。あ、でも僕さっき卵で巻いただけなのでレシピがーー」


あれ?


気のせいだろうか。


別れの曲が、遠くに聞こえるような。


壊れたブラウン管テレビの画面のように、目の前が歪み、思わずキッチンの作業台に片手をついて体を支える。


遠い意識の向こうで「どうしたの?」という翼さんの声が聞こえた。


「あっーー」


今度は、瞬く間に白いもやが視界に広がる。


前は店の隅に居た人影らしきものが、目の前に居るではないか。


「し・・・んぱ・・い・・・だ・・・」


心配?


前よりは明らかに言葉になっているが、このもやは何を言っているのだ。


左側から、肩に手を添えられる温もりと「具合が悪いのか?」と、焦りを含んだシンさんの声が聞こえるが、それすらもぐわんぐわんと反響して聞こえるのだ。


頭がおかしくなりそうだと、思わずリセットするように目を強く瞑って再び開けると、目の前の白いもやが光の粒子となって、やがて消えていった。


それとほぼ同時に、なんとか繋いでいた俺の意識の糸もそこでぷつりと切れたのだった。



ぼやけた視界に瞬きを2度。深い焦げ茶色の天井の木目が、その後も瞬きを繰り返すうちにはっきりと見えていく。


「あ・・・あれ。ここはシンさんの・・・」


壁にぴたりとつけたシングルサイズのベッドの上で、ふっくらと柔らかい白い羽毛布団が胸の辺りまで掛けられている。


静謐の中に、時折ぱちっと炎が弾ける音と、正確なリズムで時を刻む振り子時計が、優しくもあたたかい空間を演出していた。


よく見たらこの部屋の暖炉は店のとは違い、火は電気のようだ。暖炉型ヒーター・・・だっただろうか。とてもお洒落でシンさんらしい。


パチッ パチッとリアルな音と共に、炎がゆらりひらりと動いて、本物さながらだ。


日本の物だけでなく、海外製の本などがびっしりと詰まった大きな本棚の前に、年代物と思われる革製のリクライニングチェアがある。


白いカーテンが掛かった窓の向こうは、いつの間に空に太陽がのぞいたのか、冬の繊細な陽射しが降り注ぎ、部屋の床板に小さな日溜まりを作り出していた。


そうして部屋を見回していると、階段の方から、翼さんとシンさんの声が聞こえてきた。


「翼、さっき見に行ったところじゃないか。ゆっくり寝かせてあげなさい」


呆れたような、苦笑いのような声のシンさんの声がする。


「だって!目覚めなかったら困るでしょ?!頻繁につねるなり叩くなりしてみないと!」


廊下をパタパタと駆けてくる足音が聞こえたかと思うと、バタンと勢いよくドアが開いた。


反動でドアが閉まろうとする程の勢いに、体を起こしていた俺は、思わず吹き出すようにして笑ってしまった。


「あぁっ!生き返った!おじいちゃーん!敦士君生きてた!!」


「あははっ。最初から死んでませんよ」


「もーー!心配してたんだから!いきなり倒れるし!何か唸ってるし!全然目覚まさなくなるし!」


すごい気迫で喋ったあと、ベッドの前で「あぁ、もう本当良かった」と崩れ落ちた。


「敦士君、気分はどうだい。お医者さんに電話しようかと思ってたんだが」


部屋にやって来たシンさんの手には、電話の子機が握られている。


「大丈夫です。ご心配おかけしてすみませんでした。翼さんも、ありがとうございます」


「そうか。なら良いんだが。それと・・・君はケンさんを知ってるのか?」


どうやら、気を失う前に「ケンさん」と唸っていたらしい。


翼さんは、興味津々の目でこちらを見上げていた。


「えっと、その。以前、ケンさんという方の名前をある人から聞いたんです」


小鈴ちゃんのことは言えない。


彼女はシンさんに死を知られたくないと言っていたから言葉を濁して言うしかないが、幸いシンさんはそこに「誰に聞いた」などという質問を投げ掛けてくることはなかった。


翼さんも「私は言ってないよ」とシンさんを振り返って言っているが、それに対しても「わかっているよ」と言うだけだった。


「夏の雷の日に、初めてそれを見ました。その時は白いもやでしたが、秋は大雨の日でした。その時ははっきりと人の形に見えて、何かを訴えていました。それで、今日は・・・」


「何か、言っていたのかな?」


シンさんはベッドサイドにある丸椅子に腰掛け、小さな溜め息を漏らした。


「はい。心配だ、と。何がかはわからないんですが・・・」


シンさんは一瞬意外そうに目を丸め、ふっと表情が緩んだかと思うと、肩を揺らして笑いだしたのだ。


「ははっ・・・はははっ。そうか、そうか。・・・あぁ、相変わらずなんだなぁケンさんは」


シンさんは差し俯くと、黒いベストのポケットから出した白いハンカチを目元に当てた。


「敦士君、怖い思いをさせてしまって悪かったよ。ケンさんも、君をこんな風にさせたかったわけじゃないと思うんだ。とても優しい人だから」


「ケンさんって・・・やっぱり居たんだよ!良かったね、おじいちゃん!ケンさん、ずっと傍に居てくれたんだよ。敦士君、ありがとう!」


「あぁ、いえ。僕は何も・・・」


シンさんは立ち上がると、興奮して目を輝かせている翼さんを落ち着かせるように、彼女の肩をそっと2度叩いた。


「翼も、ずっと気にかけてくれていたね。ありがとう」


「えっ?」


シンさんは懐かしむように目を細めて微笑むと、ベッドの向かいにあるデスクの引き出しから、古い写真立てを持ってきて見せてくれた。


「翼が彼の幽霊を探してくれていたのは知ってたんだ。彼がケンさんだよ。藤沢 賢一さん。ちなみに、この真ん中の女の子は幼稚園児の翼だよ」


見慣れた喫茶うみねこの入り口前に並ぶ3人。


シンさんの髪も今よりずっと黒い部分が多いが、優しい雰囲気は全く変わっていない。


真ん中には今と同じポニーテール姿の、まだ幼く、無邪気な笑顔が弾ける翼さんが、ふっくらと丸みのある頬の横でピースしている。


そんな翼さんの隣に居るのが、ケンさんだ。


背が高く、肩幅もがっしりとしている。


肘の手前まで捲し上げたシャツから出た腕も、黒黒としていて太さもシンさんの2倍はあるだろう。


黒いベストに蝶ネクタイと、シンさんと同じ格好をした彼は、にっと歯を見せて満面の笑顔を見せていた。


「彼はとても優しくて勇気もある人でね。見た目は大きいし、迫力はあるんだが、人にも動物にも優しい人だった。そんな素敵な人間性が災いしてね。亡くなってしまったんだよ。まぁ、彼はきっと後悔なんてしていないと思うがね」


「優しさが・・・ですか」


「電車の事故でね。線路に落ちた子供を助けに降りてしまったんだ。子供は助かったんだけどね。彼は・・・間に合わなかった」


パチッ パチッ


暖炉型ヒーターの音と、翼さんのすすり泣く声が、冬の静寂に悲しく響いていた。



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