第3話 青色のクリームソーダ《砂川 晋作》

壁のアンティーク時計の針が、正確に時を刻む音というのはなんとも感慨深いものだ。


古いこの時計は、私が生まれるよりも前からずっとこうして持ち主との時を刻んできたのだろう。


最近は少しの外出でも、体力が削られる。


こうなってくると、1日の終わりにこうして一杯の珈琲を飲むというだけの事でも、幸福な事だと感じる。


今では一人前に働いてくれる敦士君との時間も、孫の翼が来るのも楽しくて仕方がない。


喫茶店のメインの照明を消して、窓からの月明かりの下で珈琲を飲む。


ショパンの別れの曲だけは譲れない。


これだけはどうしても変えたくないのだ。


今日、出先から帰ってきてもあの猫はいなか

った。


いつもカウンター横の窓の下で、真ん丸の目で見上げていたのが懐かしい。


「出会いがあれば、別れもある・・・か。青色のクリームソーダを作る度に、あの子とあの猫の顔が浮かんで仕方ないね」


珈琲の水面が、月を映してゆらめいている。


それを眺めていると、小鈴ちゃんが初めてうちに来たことを思い出した。



6年前だっただろうか。


例年ならもう夏も終わる頃だというのに、あの日は陽射しがジリジリとした日だった。


風さえも暑く、花の水やりに出るだけで汗が噴き出すような。


そんな日に、あの子との出会いがあった。



彼女が母親と来た時、注文を取りに行くと母親が「アイス珈琲ひとつ」と愛想の無い声で言った。


「お嬢さんは何にしようか?」


「この子、さっきジュース飲んだところだからいらないです」


俯いていた小鈴ちゃんが顔を上げて答えるより先に、有名なブランドのロゴが入ったハンカチで首もとの汗を拭きながら母親が言った。


そうは言っても・・・この子にも何か飲ませてあげたい。


お節介かもしれないし、母親に文句を言われるかもしれないが、頬を真っ赤にしてこめかみに汗が滲んだこの子に、一杯の水だけというのは可哀想な気がしてならなかった。


オレンジジュースだろうか。


翼が小学生くらいの時、何が好きだったかな。


「ちょっと。早くしてください」


「あ、はい。申し訳ありません。お待ち下さい」


整った顔立ちの母親は、眉間にしわを深くして、その外見を台無しにするような怖い表情で私を睨んでいた。


「あ。ねぇ、おじいちゃん。クリームソーダ作ってよ。アイス、たっぷりめでさ。青いのが良いな。涼しげで良いでしょ?」


カウンターに座っていた孫娘の笑顔に、彼女の言った言葉の裏側を理解した。


「あぁ、そうか。良いね」


思わず笑みが溢れた。


まだ中学生の孫が、周りを気遣える優しい子に育ってくれた事がとても嬉しかったからだ。



「お待たせしました。アイス珈琲です。こちらはクリームソーダです」


「えっ。頼んでないんですけど」


予想通りではあるが、母親は顔をしかめてクリームソーダのグラスを押し返してきた。


「あははっ。私が頼んだんですけど、何か急にお腹痛くなってきちゃって。ここ、私のおじいちゃんのお店だから、お代は気にしないでください。その子にあげてください。ね、ほら食べて食べて」


翼に促され、女の子は母親の表情をちらりと伺いながら恐る恐るスプーンを手に取り、アイスを口に運んだ。


「・・・美味しい」


「ねー、美味しいよね!私も好きなの。空みたいな色でしょ?綺麗だし美味しいって最高じゃない?」


翼の言葉に、母親は「まぁタダなら良いけど」と呆れたようにため息を吐いて珈琲を飲んだ。


「・・・ありがとう」


女の子の汗はみるみる引いていき、頬の赤さも自然なピンク色に戻っていった。



それから暫くして男性が迎えに来ると、親子は店を出ていってしまったが、女の子は学校帰りに時々遊びに来ては、クリームソーダを嬉しそうに食べていった。


彼女からは代金は取らない代わりに、花の手入れや水やりを一緒に手伝って貰ったのだった。


「小鈴ちゃん、寂しくなったらいつでも遊びにおいで。私はね、君が来るのを楽しみにしてるんだよ。翼も同じだよ」


そう言って、小鈴ちゃんも嬉しそうに満面の笑みを見せてくれた秋の夕方。


その日を最後に、小鈴ちゃんはぱたりと姿を見せなくなった。


もちろん、母親も来ることはなく、あれからどうなったのかもわからないままだ。


あの子が、花が咲く度に喜んでいたのが昨日の事のようだ。


あれ以来、店の回りに置いたプランターや花壇の花は絶やさないようにしている。


「私にも、もっと何か出来ることがあったんじゃないのか・・・」


後悔しても何も変わらない現実と、過去に立ち止まったままの私を置き去りにするように1秒ずつ訪れる時の流れに嘆息する。


「私は人に沢山の想い出を与えて貰った。私は・・・そんな人達にちゃんと返せているのだろうか。なぁ・・・ケンさん」


誰もいない月明かりに照らされた薄暗い喫茶店の、誰も聞いていないその言葉は、虚しく響いて消えていったのだった。

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