蛇口の水の音が
富升針清
蛇口の水の音が
その日は蛇口から出る水の音が、とてもうるさく耳に響いた。
皿を洗いながら、電話が鳴る。朝の忙しない時間だと言うのに。一体誰の何の嫌がらせか。
文句が口に出そうになるのを飲み込みながら、溜息と共に手を止めて濡れた指先だけを怠惰かつ丁寧に拭いて電話のボタンを押した。
それは父方の祖父が亡くなったと、両親からの電話だった。
今から、祖父の家に向かうから用意をしなさい。迎えに行くから。
そう言われた時、不思議と涙は出なかった。
たた、水の音が嫌にうるさく、早く止めなければと思っていた。
私は自分とまだ二歳の娘の泊まる用意をすると、旦那にその旨の書き置きを残す。
これでいいだろうと一息吐く間もなく、私は数日家を空ける用意に取り掛かった。
全ての用意を終えた頃、まるでタイミングを測る様に両親の車が我が家の家の前に着いたと連絡が入る。
少しぐする様に泣き始める娘を抱きかかえて、私は家を後にした。
父方の祖父母の家は森の近くにあった。
同県に住んでいると言うのに、まるでそこは異界の様な印象を覚える。
白い箱の様な家は、森にいつか飲まれるのでは無いかと思うほど、儚げである。
珍しく車内では両親の口数が少なかったな。
祖父が亡くなったのだから、仕方がないか。そんな事を思いながら、今もなお口数が少ない両親の後に着いて二階にある玄関の扉を潜った。
玄関を潜ると、すぐにリビングがある。
そこに、祖父母が横たわっていた。
白い布団に並んで横たわる二人を見ながら、悲痛な面持ちの小太りの男がいた。祖父母の息子だ。
どうやら私が苦手な叔父さん二人はまだ来ていないらしい。
息子さんは私達が来たのに気付き、愛想笑いもせずに重い腰を上げて両親によく来てくれたと声を掛けてくれた。
母は荷物を置くと、家の中の仕事をし始める。
手伝おうかと問えば、娘を見ていろと言われたのでそのまま娘と共に一階に降りて遊ばせる事にした。
娘は車内のぐずりが嘘の様にはしゃいで、扉と言う扉を全て開けてはキャッキャと笑っていた。
中にあるものを取り出しては散らかしていく。
やんちゃ盛りを謳歌しているなと、散らかす側から片付ける。
怒っても注意しても、二歳児なんて止まるものではない。最早諦めの境地である。
出来れば、姉同様に着いて来なければ良かったなと心底思っていた。
それにしても、祖父母の家なんていつぶりだろうか。
来なければ良かったと思うほどに、私はとても薄情な人間なのだ。
大人になってからはてんで寄り付かなかったものだから、この家に来たのは初めての様にも感じてしまう。
しかし、そんな訳はない。
小学生迄は月一で来ていたし、中学校に上がっても部活と言ういい言い訳がある日以外は父親に連れて来られていたではないか。
ここまで他人事になってしまえば薄情を通り越して血が青色かもしれない。
娘が楽しそうに扉や引き出しを開けながら、中の物を出しては仕舞う。最早作業だ。
せめて他に気を引けるものでもあれば。
そう辺りを見渡しても、目につくものはテレビしかない。昔、自分達が子供の時にこの家に唯一あるゲーム機を繋いでいたテレビだ。
こんな古いテレビでは、娘が好きなアニメも見えないだろうに。
娘が出したものを仕舞いながら、ああ、そう言えば、こんな物もあっな。
いや、あったかな?
ここは祖父母の部屋だろ?
勝手に遊んで怒られるかな?
怒られないか? 死んでるし。
はははと、冗談にもなってい言葉に一人渇いた笑いが漏れる。
いや、でも、父が……。いや、何を言っているんだ。孫には取り分け甘いじゃないか。
私には威厳かつ高圧的な毅然とした対応をする父も孫には随分と甘い。
娘の我儘は何でも許す。
何故私の時にそれをしなかったのかと問い詰めたい程対応が違っているのだ。
かと言って、祖父母も私に甘かった、わけでもない。
なんと言っても孫が計六人もいたのだがら、取り分け初孫でも特別可愛くもなければ男の子でもない私の優先順位はそれ程高くなかった事だろう。
しかし、漫画は強請ってよく買って貰ったな。
そう言えば、買って貰った漫画が一冊この家にある筈だ。
叔父が読むからと残していかされた苦い記憶が蘇る。
父の二人の伯父と叔父が私は苦手だ。
特に叔父には苦い思い出しかない。
昔、従兄弟とチャンバラをやっていた時に、女の子だから辞めなさいと持っていた新聞紙の棒を取り上げられた事がある。
母に泣きついて返してもらおうと庭に出たら、私の新聞紙の棒を使って叔父がチャンバラをしていたのは今思い出しても納得が行かない。
そんな細かなエピソードがちりが積もって山に成る程ある。
対照的に伯父は静かな人だった。しかし、優しい人だったが、随分と配慮のない事を平気でする人だった。
例えば、料理が得意な伯父が我々に料理を振る舞う。
しかし、そこには私がアレルギーで食べれない食材が入っていて私は食べれない。知っていたはずなのに、忘れていたそうで、私だけが卵かけご飯が前に出される。
しかも、笑顔で沢山食べてね、と。
故意ではないとは分かっていながらも、モヤモヤが残る様な事を平然とする。
だから、二人の伯父と叔父が苦手だった。
例え、父のたった二人の大切な兄弟と言われても、出来れば会いたくもないと思うのも無理はない。
今日は遅れて来る様だが、出来ればあの二人が来る前に帰りたいと願わずにはいられなかった。
漫画のせいで随分と苦い思い出を思い出したものだ。
何という漫画だったけ?
探してみような。
そう思うと、娘が声を上げて笑い出した。
何だと思って見てみたら、普段は納戸に入っている恐らく偽物の宝石が散りばめられている魔法のランプが押し入れから出てきたのだ。
ああ。
昔は、本気でこれを魔法のランプだと思っていたなと、思わず苦笑が漏れる。
懐かしい。
子供に取っては遊ぶものが余りない祖父母の家でこのランプは唯一のお気に入りだった。
ランプと言うには些か大きすぎる気もするが、昔は絵本に出てくる様なこのランプに色々と思いを馳せていたものだ。
祖父母の話だと、インドで買い付けたらしいが、本当かどうかは今も分からない。
娘は少しだけランプを触ると、すぐに興味を無くしたのか他のモノへと手を伸ばしている。
子供は本当に飽き性だ。
片付ける手を止めて、私はランプを取り上げて埃を払う。
昔は、これが欲しかったのだが、母に要らないと言われて結局は持って帰る事が出来なかったな。
そう言えば、このランプを誰が持って行ったんだろうか?
祖母が亡くなった時に形見分けを行なった際には、私は参加しなかったがその時に誰かの手に渡ったと父が言っていた様な気がした。
いや、祖父の時か? 家が取り壊しになる時に誰かが持っていたんだっけ?
記憶が朧げだな。自分の記憶だと言うのに。
何しろ、随分と昔の事だ。
祖母は私が中学生の頃に、祖父は私が高校生の時に二人とも病気で亡くなっている。
今から十五年以上前の事だ。良く良く覚えている程の人情のかけらもない人間なんだよ、自分は。
私はそう思いながらランプを押し入れに戻そうとした。
あれ?
でも、祖母が亡くなった時、期末試験真っ最中の私は家庭科の教科書を片手に病院に行った事は今もはっきりと覚えている。
祖父が亡くなった時も……。
あれ? あれ?
ランプを戻す手がピタリと止まった。
あれ? あれ? あれ?
独り言の様に、早口言葉の様に、意味もない単語が口につく。
あれ? あれ? あれ? あれ?
音に合わせて目玉が右に左に動き、心臓の音がまるてドラムの様に耳に鳴り響く。
おかしい。
私の祖父母はもう十数年前に亡くなっている。
おかしい。
祖父母の兄弟は父を含め三人だけだ。
小太りの男なんて見た事もない。
おかしい。
全てが、おかしい。
何故記憶があるのに、この異様さを今迄何も不思議と思わなかったんだ?
私は、こんな部屋を知らない。
私は、こんな家を知らない。
私は、こんな場所を知らない。
知らない。
知らないのだ。
こんな部屋を知るわけがない。
祖父母の部屋なんて、あの家にはなかった。祖母が足を悪くしてからは二人とも客間で寝起きをしていた筈だ。
こんな家を知るわけがない。
祖父母の家は一階に玄関があるごく普通の三角屋根のある白い家だった。確かに、山を切り崩した場所には建っていたが、開発が終わった長閑な住宅地には森の気配なんて何処にもなかった。
こんな場所を知らない。
同じ県内、今私が住んでいる場所からは随分と近く、元職場も近いと言うのに。此処までくる道に見覚えなんてなかった。
必死に呼吸を抑えながら、娘を指だけで探す。
それ以外の身体が恐怖で動かない。
祖父母は、私が学生の時に二人とも亡くなっている。
祖父が亡くなった後、一年未満にあの家は取り壊された。
なら、ここは何処なんだ? 誰の家なんだ?
あの死体は誰なんだ?
祖父母の顔をしていたか?
あの息子は誰なんだ?
父は三人兄弟の真ん中で、あの二人の息子は父以外に伯父と叔父しかいない筈だろ!?
あの小太りの男は……。
指先に、生暖かい感触が広がる。
早く、此処から逃げなければ。娘を連れて、逃げなければ。
何故、気付かなかったんだ?
忘れていたわけでも、記憶が無くなった訳でもないのに、この可笑しな
娘を引き寄せ様と掴んだ瞬間、それは随分と太い指だった。
「え?」
私の喉から声が漏れる。
顔を向ければ、そこに娘はいなかった。
いたのは、小太りの男。
「あ、気付いちゃった?」
真顔で男はそう私に喋りかけた。
悲鳴を上げながら飛び上がる様に起き上がると、そこはいつもの自宅のベッドの上だった。
隣には娘がと旦那が規則正しい寝息を立てている。
そうか、あれは夢だったのか。
ほっと胸を撫ぜ下ろすも、どうも不気味な感覚が拭えない。
時計を見れば、まだ二時を回った所だ。もう一度寝直したいが、嫌に目が冴えてしまっている。
少し落ち着く為に水でも飲もうか。
そう寝室を出ると、水の音が聞こえる。
蛇口から、水が出る音だ。
閉め忘れてしまったのか。でも、こんなに音がする程蛇口を閉め忘れてしまうものなのか?
恐る恐る私はリビングの扉を開けた。
蛇口の水は、勢いよく出たまま。矢張り、閉め忘れてしまっていた様だ。疲れて、いるのだろうか?
私は急いで蛇口を閉める。
そう言えば、夢の中でも水の音が煩かったな。
「あれ?」
私は声を出す。
「包丁が、ない?」
ふと、洗い場の籠を見れば、寝る前に洗った包丁が何処にも見当たらない。
仕舞った覚えはない。しかし、そこにあるべき包丁は何処にもない。
流石に何処かに置き忘れたりはしていないとは思うが、娘が見つけて手にしてしまえば一大事だ。
私は引き出しと言う引き出しを開け、扉という扉を開けて中の物を出す。
しかし、矢張り包丁は何処にもない。
最後に残ったのは、押入れの中。
まさか、押入れなんて……。しかし、此処以外は何処もないのだ。
私は押入れを開けると、そこに包丁があった。
「えっ?」
しかし、包丁だけではない。
そこにいたのは、私の探していた包丁を握りしめた小太りの男。
「あ、気付いちゃった?」
そう真顔で、男は私を見て言ったのだ。
おわり
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