轍−わだち−

英 蝶眠

第1話

 台風の時期には珍しい快晴となったこの日、パティシエの兼康かねやすあきらとモデルの森島つばさの結婚の披露宴と、祖父である兼康ゆずるの傘寿のお祝いを兼ねた、華々しいパーティーの席が設けられていた。


 会場は鎌倉である。


 鎌倉駅から少し段葛を海へ下がった材木座の浜とほど近い界隈に、かつて外国人教師の屋敷であった洋館が建っている。


 庭園の広葉樹の樹の間隠れに、真っ赤な屋根を聳えさせており、大正の頃に建てられた当時、横浜の女学校で教鞭を執った、


 ──キャンベル先生の家。


 と土地の故老からは呼ばれていた。


 幸い鎌倉の町は空襲らしい空襲がなかったからか、こうした建物はちらほらある。


 戦後は一時期接収されたものの、昭和の東京オリンピックの頃に返還されてからは、横浜に本社があるホテルグループの会社が保有し結婚式場として貸し出されている。


 現代の今。


 少し古びてはいるが、キャンベル先生が好んだアメリカのアンティークの鏡台や椅子が、木造の白く塗られた内装の調度によく映えていた。





 眺めも良い。


 芝生の庭からはかすかに、和賀江島も見える。


「せっかくのおめでた続きなんだし、うちのレベルから言ってこのぐらいの場所は借りないと」


 と言い出したのは母親の百合子ゆりこで、バブルの時代には派手に遊んでいた性分か、とにもかくにも華美なものを好んだ。


 ちなみに。


 横浜で兼康といえば、


「馬車道の兼康」


 として知られる、明治の頃からの老舗の洋菓子屋で、パティシエとなった彬で五代目となる。


 弘明寺の自宅も白亜の出窓と桜の巨樹が印象的で、


 ──兼康御殿。


 といえば余談ながら地元では、


「ああ、あの兼康御殿の角を左ですね」


 などと言って、タクシーの運転手が目印にするほどである。





 話を戻す。


 この日は日曜日であった。


「お天道さんに恵まれて、それはそれはまぁよろしおしたなぁ」


 と、新婦のつばさの生家でもある京都の窯元を切り回す母親の美樹が、晴れ女だというつばさの運気の強さをやんわりと京言葉につつんで、誇らかに言う。


 が。


 婿方の兼康家の者は誰一人それが、自慢だとは分からない。


 美樹はそこにすぐ気づいたようで、


「こないなとこに嫁がして、傷もんで返された日にはどないしたもんやろか」


 などと、こっそり夫の晴海せいかいに耳打ちした。


 晴海は渋い顔をしたまま答えようとせず、右手にあったシャンパンのグラスをぐいっと空け、オードブルのテーブルへと立ったのであった。





 パーティーにはそれぞれの身内やら親しい友人やらが呼ばれている。


 モデルの先輩でもある岐部まりあもその一人で、つばさとは相部屋で暮らしたこともあって、


「おへその下にあるほくろを知ってるのって、この中だと私とアッキーぐらいだよねー」


 などとしたたかに放言し、周りをハラハラさせていた。


 テーブルにはケーキが並ぶ。


 みな、これらのケーキは洋菓子屋の兼康家の側から振る舞われた。


 それが。


 森島家の京焼の鳳凰の絵付けがなされた皿に盛られて出される。


 中でも。


 酸味にこだわった、本場のアメリカ仕込みのニューヨークチーズケーキは、参加者の誰もが賞賛するほどの味わいで、


「さくらん家はこれだけで稼げるよ」


 などと、彬の妹のさくらと交際中の高杉大輔という、絵に描いたような若くしてネット関係の会社を立ち上げた実業家なんぞは、


 ──これを知り合いのバイヤーを経由して、物産展に出してはどうか。


 と思ってしまうほどの、味覚の衝撃波を受けたらしかった。





 が。


「そんな嫌らしい金気の臭いがしてきそうなことはやらん」


 と、さくらの父であるみのるはにべもなく言った。


 むしろ、


「そうやって他人のふんどしで相撲を取るような考えをするやつに、うちの娘はやれん」


 と、露骨にいやな顔をした。


 大輔は内心、


(なんと融通がきかないことか)


 と理解力の乏しさに失望したが、


「ま、年寄りはいつかいなくなるから、無視しても問題はない」


 などと、のちに同期にうそぶいてみたりもする。


 どっちもどっちといったような、座が白けかけるような台詞であったが、


「ま、うちの人は職人気質で頭が固いから」


 と百合子が言うと、


「あなたがそういう調子で変にこだわるから、いつまでも店が小さいまんまなんじゃないの」


 と百合子らしい厳しい言い方で、穣をやり込めたのであった。





 他方で。


 主賓のはずの彬は、次々にあらわれる来客への挨拶で少しだけ疲れた様子で、


「めでたいはずなのに、なぜか気が重くなってぐったりしてくる」


 と、さばかなければならない人の多さに、フィアンセの森島つばさについ、小声でこぼした。


 つばさは耳元で、


「でも嗣ぎたいって言ったの、アッキーでしょ?」


 とたしなめた。


「いや」


 彬は続けて、


「おれはあんな父親の跡なんか嗣ぎたくないんだけど、他のことやらせてもらえなかったから諦めてさ」


 と、場にふさわしくないであろう本音を漏らした。





 つばさは訊いた。


「他に何かやりたかったの?」


「あぁ、ホントは音楽とかやりたかったさ」


 確かに。


 つばさが彬と知り合ったのも、彬の幼なじみがベーシストをしていたバンドのライブのときである。


 そのバンドのプロモーションビデオにつばさが出演し、それが縁でライブに顔を出したのが始まりであった。


「そういえばアッキー、ちょっとだけギター弾けたよね」


「まあね」


 つばさも最初は彬を、ミュージシャンだと思っていたらしい。


 しかし。


 本業がパティシエと知り、そのギャップが気になったのもあったらしかった。





 ところが。


 てっきりつばさは彬がなりたくてパティシエになったのと思っていたのが、まさかの諦観でなったといった本心には幻滅したようで、


「アッキーさ、今まで何をどう教わってきたの?」


 と、たまらず訊いてしまうほど根本的なところの問題に気がついたようであった。


 パーティーは締めくくりの、女将の百合子の挨拶がすでに始まっている。


「…明治以来、関東大震災や横浜大空襲を乗り越えて、株式会社兼康と、私たち兼康家はここまで歴史を紡いできました」


 その百五十年という時の重みが、彬の性格を無気力なものへと変質させてしまっているようにも、いわば第三者であるつばさの眼には映っている。


 つばさは、少し離れた海の方へ歩いて、潮風に身体を預けながら、酔いを少し醒ましてみた。


「…間違いだったのかなあ」


 独り言を呟いてみたが、それはすぐ風の音にかき消された。




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