蒼の世界
水無月ひよ子
第1話 林の中で蠢く
この場所はいつもどこか息苦しい。
嘘やごみで空気も街も汚れていて、行く場のない感情が消えることもなく、
そこかしこに澱んでいて、いつも誰かが不幸になっていて、
いつも誰かが不満や不平を抱いている。
だからいつも思う。いつかこんな場所を抜け出して、清く、正しい所に行けたのなら、僕はきっと幸せになれるんだと。
間違いだらけのこの世界で生きるには僕はいつも正しすぎるんだと思っていた。そう思っていたのも、もうずいぶん前の話だ。少し、青臭かった頃の中学校の頃の僕。
高校二年生にもなると、そんなことを考えていたことさえ、僕は忘れた。
いつものように登校し、いつものように授業を受ける。いつものように飯を食い、いつものようにまた授業を受けて帰る。そして季節ごとに少しずつ変わる景色に幾許の不安を混じえながら。
コンクリートに映る夕日の色、
荒れ地の雑草、新しく変えられていく照りついたアスファルト。
ごくごく普通の街の中で生きているごくごく普通の男子高校生。
ただ最近少し僕の周囲が変わり始めた。僕には友達が出来た。
実のところ、僕は全くと言っていいほど友達が居なかった。クラスメイトとも普通に話せるし、高校一年生の時は写真部に入っていた。だから、それなりに知り合いはいた。しかし友達と言うには少しばかり距離が遠い。駅前で遊びに誘われることもなければ、休み時間に決まってずっと一緒に居るわけでもない。
昼休みと言う、長い自由時間になれば僕はどうしていいか分からず、
ただ校舎をふらふらし、誰もいないところや落ち着けるところを探し回っていた。
放課後のチャイムが鳴れば、すぐに家に帰るようにしていた。
その時にちょうど声をかけられた。
平田祐介。染髪を許されている僕らの学校では、髪を染めている人が多い。平田も例に倣って、少し赤みの入った髪色をしている。そんな奴がいきなり話しかけてくるもんだから、最初は身構えた。
しかし、そんな警戒心は無駄なものだったとすぐに分かるくらい、平田はいい奴で、話が合った。ゲームの話、漫画の話。些細な笑いのツボ。それから、直ぐに仲良くなった。
そして、平田が僕に話しかけた理由がわかった。
二年になって新しくなったこのクラスには、部活に所属していない生徒が僕を含めて4人いた。僕と、平田と、女子二人。
平田はいつのまにかこの女子二人と一緒に下校するようになったらしい。だが、男子一人と女子二人という状況に耐えられず、僕に話しかけてきたのだ。
まずこのクラスに帰宅部が4人いる事すら初耳だったし、2人中、1人の女子とは話したこともなかった。
話したことのあるもう一人の女子、
楓とは同じ中学で同じ美術部だった。
しかし、高校に入って髪を染め、一気に近寄りがたくなって、疎遠になっていた。しかし、当の本人の楓は、中学の時と変わらない少し高めのテンションで僕にちょっかいを出してくる。
もう一人の女子は楓とは真逆の大人しい子だった。華奢な容姿に黒く真っすぐに整えられた髪型。
きっと狙っている奴は多いだろう。と直感で思った。
僕は自分からあまり話を振るタイプではないが、彼女の、僕よりも人見知りで、控えめすぎる態度のせいで、彼女と仲良くなるには僕は少し頑張る必要があった。
ぎこちなくテンションを上げている僕をみて、楓はいつになくニヤニヤとして僕を見るもんだから、少しの間でいいからあっちへ行ってくれ!と心の中で何度も唱えた。
しかし、彼女は一度打ち解けてしまえば、面白いくらい、人懐っこくなった。
「秋二」という僕の名前を、「春に生まれたのに、秋なんて変なの。」といじってくるほど。
だから僕は決まって「夏希」という彼女の名前を「夏希も夏なのに春生まれじゃん。」といじり二人で笑い合うのだ。
それがいつしか僕たちの一種のあいさつのようになっていた。
こうして僕は、ようやくこの漂うだけだった校舎の中で居場所を見つけた。
一見、接点なんて一ミリも存在しないような気がしたが、気が付けばこの四人で帰らない日はなくなっていた。
今日も、グランドで聞こえるサッカー部や陸上部の掛け声を横目に、僕と平田と楓と夏希で帰る。いつもの授業中の出来事や最近の流行りのアーティストについて語らったり、
平田の渾身のつまらないギャグを聞いて笑いながら帰る。
僕らの町は細長い盆地の様な地形をしている。丘の上にあるこの学校からはその様子が一望できる。白い建物が敷き詰められたように並び、ところどころ高い建物がひょこひょ顔を出している。
昔はもっと、古びた小さい住宅街の景色だったのに、いつの間にか、少し背の高い建物や、お洒落で既製品的な似たような住宅が並ぶようになった。
少しずつ変わる街を見ながら、10年後や20年後にはもう、僕の知ってる街の面影なんて欠片も残ってないのかもしれない。なんて思った。
日が暑いからと、建物の間を縫うようにして僕らは駅へ向かう。もうすぐ高校生になって二回目の夏が近づいてくる。
日が暑い今日みたいな日は、特に夏の匂いが色濃く蘇る。土と、コンクリートの焼ける匂い。
いつも電車通学の平田に合わせて、駅前の緑地で少し喋ってから各々の家へ帰るようになっていた。青々と木々が茂り、木漏れ日が池に反射する。池と言っても、灰緑色に澱んでいる。その表面ににじむように木漏れ日が当たると、池自体がぼうっと浮き上がっているようだ。
ところどころに置いてあるベンチに腰掛けるが、平田は一人立ったまま、
最近テレビで出てきたお笑い芸人の一発ギャグを全力でやる。
ふと隣でいつも平田のギャグに相打ちを入れているはずの夏希が静かだということに気が付いた。
「昨日のテレビでやってたよね。」とか
「あのフリも面白かった。」とか。
平田が喜びそうな事を言って、調子づいた平田を楓が蹴る。
いつものパターンがなかなか来ない。
夏希は奥の薄暗い林をじっと見ていた。表情が少し抜け、真顔になっていた。まるでここには自分が居ないかのような、そんな顔だ。考え事だろうか。
前々からぼーっとしていたが、最近は特にひどいのだ。
心ここにあらずと言うか、僕らと居る時にも、授業中も別のことを考えているように、どこか見えない遠くを見つめて、その遠くのどこかから、帰ってこようとしないのだ。
「どうしたんだ?夏希。平田のギャグが冷めすぎた?」
俺に名前を呼ばれて夏希ははっとする。
肩にかかった黒髪がサラリと揺れた。
「なっちゃんマジで?俺の授業時間ずっと脳内シミュレーションしてたこの渾身のギャグを?」
「だから、あんた真面目に授業受けろっつの!」
楓のスクールバックが平田に当たる。平田は笑いながら大げさに痛がるふりをする。
彼女はそんな二人を見て笑いながら困ったように否定する。
「違う違う。ほら、あそこ。入道雲。もうすぐ雨降るかなあって思って。」
彼女の指をさす方向には大きな入道雲。茂る葉の隙間から見える蒼い蒼い空。
その空に白のように大きくそびえるような入道雲はゆっくりと形を変えながら流れる。空の冷たい蒼も、生き物のようにうねる雲も、まるで一つの芸術品の様だ。
夏がもうすぐそこまで迫ってきているのだと思うと、何故か高揚感とともに少し焦りを感じてしまう。
「入道雲っていいよね。私好き。」
楓は入道雲を眺めながら言う。フワフワの水色の布みたいなので高く結われた少し明るく染められた髪。着崩した制服に、短いスカート。とても入道雲に風流を感じるような見た目ではない楓の言動に、思わず平田はツボる。
無論スクールバッグがお見舞いされた。
しかし、見た目こそギャルっぽいが、楓は中学の時からとんでもない画才の持ち主である。
描いた絵はもれなく賞を取るし、授業で絵を描く場面になれば、皆がこぞって見に行くくらいだ。
だから、僕からしたら、彼女はあの入道雲の中に、寧ろ、常人では感じ取れないほどの美しさや偉大さを感じ取っているのではないかと思う。
話は変わり、授業の話やそれぞれの好きな事を話している。しかしその間も夏希はそわそわとして、話をあまり聞いていないようだった。
そして、唐突にベンチから立ち上がった。
「ごめん、今日もう帰るね。」
慌てた様子で夏希は走って帰っていく。
僕らのさよならが聞こえたか分からないスピードで夏希はいなくなった。
「どうしたのかな、なっちゃん。最近忙しそうだよね。」楓は少し寂しそうに、髪をいじる。
「きっと可愛いなっちゃんのことだから、彼氏かもなあ。」
平田が少しオーバーにため息をつく。まるで彫刻の考える人みたいなポーズを取る。
「そんな…私たちに内緒で…」
楓もそれに乗っかって同じポーズをする。
「んなわけないでしょ。」と僕が突っ込む。夏希は、引っ込み思案で人見知りだ。僕ら以外と話しているところを全くと言っていいほど、見たことがない。
楓も平田も口々に心配の声を出すが、本当の理由を聞くには至らない様だった。
だが、僕には何かが引っかかった。
でも話題にするまでのことでもないと思って、夏休みに何するかとか、次のテストの話をしていた。
だが何となく夏希が先に帰ってからすぐに解散することになった。
そして帰り道の途中に気がついた。
僕がぼうっとしていた夏希に声をかけた時、夏希は入道雲を見ていたと言った。
でも、僕が見ていた時、夏希は空なんて見ていなかった。
あの、暗い林の中をじっと見つめていたのだ。
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