第101話 痕跡・上

 篠原は、その日非番だった事もあり遅くまで寝ていた。暑い夏の、昼前だった。突然鳴ったスマホから、実家の母親の嗚咽じみた声に叩き起こされたのだ。まだ寝ぼけている彼にテレビを見るように言う母の言葉に、彼は大きな欠伸を零しながらそれに従った。当時篠原は、警察学校を卒業後、配属地に近い難波なんばで小さなアパートを借りて、1人で住んでいた。

 電源を入れたテレビ画面は、緊急ニュースらしい中継画面だった。チャンネルを変えても、実況者が違うだけで同じ光景だった。その場所は見覚えがある――それは、実家のある宝塚の駅前だった。若い女性のアナウンサーが、『通り魔』や『辺りが血の海』『怪我人が多数、死亡者も出ている模様です』など緊迫した言葉を早口で恐ろしい言葉を羅列られつしていた。彼女の後ろには、他の局らしい沢山の報道陣の姿が見えた。

 ざわざわとした感覚に、篠原は大きく息を飲んだ。管轄が違うから、自分には連絡がなかったのだろう。

「お兄ちゃんと唯さんと唯菜が、今日は出かける予定で…時間的に駅に着いた頃やの…電話してるのに、2人共出ないんよお!」

「お前、今日は休みか?」

 泣き崩れる母から電話を奪ったのか、父の静かな声が電話口から凍り付く篠原に呼びかける。

「駅前に行ってくれへんか?家に電話があるかもしれんし、母さんに任せるんは難しい…多分、3人は巻き込まれたんやろ」

「すぐに行く!」

 電話を切り、急いで着替えて洗顔も滅茶苦茶に、篠原は急いで家を出た。そこからは、記憶が混乱していた。

 駅前は、混雑していた。人混みをかき分け、被害者の中に自分の家族がいるかもしれないと規制している警官に話し、特徴を話すと搬送先の病院を教えて貰った。両親にも連絡して病院に向かうと、既に兄と義姉ぎしは亡くなっていた。義姉は唯菜を庇うように、兄はその妻を庇った姿だったらしい。正確には、義姉を庇ってめった刺しにした兄を剥がし、義姉も刺されていたそうだ。兄は即死、義姉は出血性ショック死だった。2人に庇われた唯菜は、腕と腹に少し傷を受けたが命に別状はなかった。ただ、目の前で起こった出来事に、放心して泣きもせず人形の様になってしまった。

 被害に遭った人の遺族たちと弁護士たちで、何度も話し合い裁判に向けて準備していた。母は唯菜にかかりきりで、主に父が農協の仕事を調整して貰って、話し合いに出てくれた。篠原も、勤務の合間――今にして思えば周りが気を遣ってくれたのか――に、出来る限り父をサポートした。

 自分たちがどんなに頑張っても、『被告は心神喪失状態だった』、という無慈悲な言葉で犯人は病院送りにされて、森田は罪の償いを受ける事はなかった。

 だが、篠原は見てしまったのだ。下を向いて判決を待つ森田被告が、顔を覆い隠すように塞いだ指の隙間から、にやにやと笑っているのを。


 それは、まごう事のない『悪意』だった。森田は病気ではない、この場に居る全ての人を騙しているのだ。


 篠原家の周りの人々が気を遣い、唯菜もしばらくカウンセリングを受け――篠原は唯菜の為に、実家に戻った。賑やかな笑いと幸せだった日常が、森田のせいで全て変わってしまった。


 篠原は、自分が警察官なのに悪をさばく事が出来ない事に、怒りにも似た思いを抱いていた。だが、両親や唯菜の為に、それを隠して交番勤務に励んだ。唯菜や両親の為、笑顔を見せていた。それは、安井が若い――ともすれば犯罪に走りそうになる子供を、正しい道に導こうとする姿を見せてくれたからだ。

 犯罪に手を染める人が少なくなれば、唯菜のような可哀想な子供が増えなくなる。自分もそうでありたい、と思った。自分は安井の様な『善い人』であろうとした。


 しかし心の奥底では、犯罪者を憎む心と――その犯罪者を守る『方向性を間違えた正義』という、不条理さを憎んでいた。『悪』は、絶対に変わる事が無い。またいつかきっと、同じ事をする。何故『不安定な精神状態』の者をまた世間に放つのか。篠原には、分からない。加害者が守られ、被害者は見捨てられる――それは、違う。間違った正義だ。


 海藤も、犠牲者だ。法を順守すべき警察に冤罪という烙印を与えられ、人から隠れて生きてきた可哀想な人。櫻子は、海藤を信じて――助けようとしている。



 櫻子は、大きな秘密を抱えている。それが何なのかを、篠原は知らない。だが、恐怖の大きさは違うが桐生を見て――森田と通じる『悪』を見た。それは、きっと死ぬまで変わらない『悪』という成り立ちの生き物。

 その『悪』に、櫻子は真っ向から立ち向かっている。きっと、『亡くなった彼女の両親』は桐生に何かされたに違いない。だから篠原の知らないところでも、彼女は泣いている。そうして何度泣いて傷ついても、櫻子はまた立ち向かう。篠原は自分と同じだろう、その櫻子を守り共に戦いたいのだ。



 『悪』は、人間が生きている限りなくならない。だからこそ、手の届く人からでも守りたい――強くなりたい。



「それが、君の役目だろ?」



 聞いた事がある声に、篠原は急に引き上げられるように意識が戻り、ゆっくりと瞳を開いた。


 見慣れない天井。身体が痛く、動かない。大きく深呼吸した。


「おはよう、篠原君」

 笹部が、邪魔にならないか心配な前髪の間から見える瞳を細めて、小さく笑いかけた。

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