第7話 発端・下

 篠原は櫻子に並んで、腰を落として遺体を目にすると手を合わせた。ポケットから真新しい手帳を取り出して、被害者の様子をメモに取ろうとしたのだ。


 被害者は、二十代前半の若い女性。濃い化粧にドレスのような赤いワンピースの上に薄い白のカーディガンを羽織っていた。黒くて高いヒールを履いて、その足元には彼女のものだろうブランド物のバッグがある。時計やカバンなどの貴重品は、荒らされたような痕跡はない。首に赤黒い痕が見られるので絞殺か扼殺やくさつされたのだろう。うっ血した目を見開き恐怖を浮かべた少し腫れたような顔で、抵抗したのか床の埃が彼女の周辺には見当たらなかった。涙と涎で顔は汚れ、失禁と脱糞もしているようで独特の香りが空き部屋には残っていた。


 交番勤務時代に孤独死の遺体を見た事があるが、犯罪で命を奪われた死体を間近で見たのは兄夫婦だけだ。仕事では初めて見る『殺害された』遺体に、篠原は内心緊張していた。さり気無くハンカチで口元を覆う。

「一条課長、心肺蘇生とは……?」

 横の櫻子に視線を向けて尋ねると、櫻子は遺体の左胸を指差した。その左胸の形が、右乳に比べるといびつに感じる。

「多分彼女、豊胸手術してたんじゃないかしら? 中に埋め込まれたシリコンパックが体内で割れたと思う。扼殺なのに胸に強い衝撃を受けているって事は、扼殺した誰かが彼女に心肺蘇生をした時に、力を込めて胸を押したはずなのよ。その衝撃で肋骨が折れてシリコンも壊れたと思うわ。シリコンの状態から、多分良い病院で手術したんじゃないでしょうね」


 櫻子は続けて、遺体にある首の青黒い痕に指先を移す。

「首の周りに彼女が抵抗した時のひっかき傷も見えるし、何よりも扼殺した時の犯人の指頭による皮下出血が少なくとも二重に重なっているわ。きっと彼女は首を絞められても心肺蘇生で少なくとも一回は息を吹き返したはず。そうして、また首を絞められて殺害されたのよ」


 篠原に説明する様にそう答えてから、櫻子は篠原を見返した。篠原は流れるように教えられる櫻子の情報に、頭が追い付かない。

「犯人は首を絞めて殺してから、また心肺蘇生して生き返らせてまた殺した。犯人は、少なくとも二回は彼女を殺したんでしょう――異常ですね」

 後ろで立ったままタブレットを弄っている笹部が、櫻子の言葉に続けるようにそう小さく呟いた。

「そんな、まさか……!」


 一度殺して生き返らせてまた殺した? 篠原には理解できなかったが、櫻子は頷いた。


「正解よ、笹部君」

「鑑識経験があるんですか?」

 黙って櫻子を眺めていた宮城が、不意に口を挟んだ。

「一年ほど、鑑識の基礎は教えて貰いました。東京では、捜査一課で現場でも学びました」

 櫻子は立ち上がって、宮城の後ろにいた鑑識のジャケットを着ている男に話しかけた。

「爪から皮膚片は採取できたの?」

 突然声をかけられた鑑識は、まさか自分に櫻子が話しかけるとは思っていなかったのだろう。驚いて抱えていた鑑識のバックを落としたが、慌てて拾いながら首を振った。

「布の組織片らしきものしか、出てきませんでした。多分手袋してたんやないかと思います」

「そう、また後日詳しい事聞きに行くわ。有難う――宮城課長」

 櫻子は鑑識に礼を言うと、再び宮城に向き直った。

「捜査会議、終わりましたら私共に必ず情報共有お願いします――では、お邪魔しました」

 軽く頭を下げると宮城の返事も聞かずに、櫻子はビルの階段へと向かった。ここにいる全ての捜査員と鑑識の視線を受けても、自信にあふれたように胸を張り真っ直ぐに。そんな櫻子の後に、篠原と笹部も続いた。


「連続事件と言ったわね、他の件については、戻ったら詳しく教えてくれるかしら」

「はい」

 笹部にそう言うと、タブレットを閉めて脇に抱えた彼は小さく頷いた。

「ま、折角商店街に来たんだからお昼ここで食べて戻りましょ」

 死体を見た後とは思えない言葉を口にして、櫻子は商店街へと足を向けた。篠原は食欲が湧かなかったが、櫻子と笹部についてランチメニューのある店に向かった。

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