第28話 異世界へのグラン・パ・ドゥ・シャ4

 ―――あの日、腕の中に舞い降りた妖精を、ロイクは再びその目に映した。


 濡れた烏の羽のように艶めいた黒髪。陶磁器のような真白の肌。すらりと細く、森を駆ける鹿のようにしなやかな四肢。キリリと強い赤の眦が二粒の黒曜石を彩る。

 たっぷりの布をふんだんに使った淡い珊瑚色のドレスはいつでも羽を伸ばせるように背中が大きく開き、つま先から脚のつけ根までを美しく見せるスカートは幾重にも花弁を重ねた薔薇のよう。

 花の妖精だと、ロイクは羽化を遂げた美嘉に見惚れる。

 先ほど部屋に招かれた時にも、美嘉の姿を一目見た瞬間に愛しさがあふれてしまって、つい心のままに口づけてしまった。

 ロイクの身に宿るこの甘やかな渇きは、妖精に触れるたびに少しだけ癒される。

 ロイクは一度目をつむると、愛しい妖精に視線を向ける。

 美嘉が部屋の端で艶やかに微笑みながら片足を後ろに引いて、両腕を天秤のように横へと広げる。

 じっと見つめていると、ピンと張りつめられた鍵盤の音が部屋に響いた。






 チュチュもトゥシューズも、異世界に落ちてきた美嘉の宝物。

 美嘉はその宝物を身にまとい、新しい自分に生まれ変わるべく、バレエに身をゆだねる。

 軽やかな伴奏と共に、舞台袖と見立てた部屋の隅から美嘉は躍り出た。森の陽だまりの中を散歩するかのように、右手を前へと差し出して舞台の中央へと立つ。

 腰に左手を添え、右手は見えない誰かに差しのべる。

 トゥシューズで固められたつま先で立ち上がり、コツコツコツと小さなステップを刻む。

 ポーンと鍵盤が一ヶ所高くなる。

 その音に合わせて、右足軸での一回転ピルエット

 戯れで引き下がるように、トゥシューズを鳴らして元の位置に。

 くるり、くるりと美嘉は踊る。

 右手を前に突き出して、左足を軸に右足を高く後ろへ浮かせる―――アラベスク。

 そのまま軸足を少しだけ曲げて、また伸ばしたら、その状態で軽く体を前に倒す。

 イメージは薔薇の花びらに埋もれた小人だ。

 花弁の隙間からひょっこりと背伸びをして顔を出し、茎の先の蕾から下界を見下ろす。

 ああ、なんて面白そうなのかしらと、肩幅に開いた状態のつま先立ちつま先立ちポアントで、コンパスのようにくるくるくると回る。

 シェネ、シェネ、シェネの三回転。

 ぴこぴこと、つま先を足首や太ももに添えるクッペとパッセでステップを作りながら、妖精は遊び続ける。

 視線一つ、指先一つ、つま先一つ、全身を使って美嘉は表現をしていく。

 目には見えない大きな薔薇の花びらから顔を出す。

 花弁の外へと視線を向ければ薔薇を愛でる人―――ロイクと視線がぶつかる。

 視線が交わった一瞬、美嘉は可憐に微笑んだ。

 それは間違いなく、ロイクへと向ける笑み。

 美嘉は天秤のようにふんわりと広げた腕をたゆませて、体に添わせるように弧をなぞる。

 薔薇の花弁の壁を飛び越えるために、足が一、二、と踏み込んだ。

 コンクールで失敗してから、ずっと跳べなかったグラン・パ・ドゥ・シャ。

 今ならきっと跳べる。

 想いをのせて。

 愛しさを羽にして。

 妖精が薔薇から薔薇へ飛び移るように、美嘉はロイクの目の前へと飛び出していく。

 ピアノの小気味良いリズムの波が最高潮まで高まったタイミングで、踏み込んだ軸足に沿うように右足がパッセを通り、空中へと身を踊らせる。

 下で弧を描いていた両腕は、頂点に達する瞬間に頭上に持ち上げて、アンオー。

 愛らしい妖精が、全身を使って薔薇へと飛んで行く。

 一瞬の浮遊感。

 まばたきする間に、トゥシューズの固いつま先がコツンと床を鳴らした。

 近づいたロイクとの距離に、美嘉は歓喜する。


(―――跳べた。跳べたよ、ロイクさん)


 紅をひいた艶めく唇が、どうしようもないほどの幸福感にほんのりと笑みを描く。


(あなたのもとへなら、私は跳べる)


 今すぐにロイクの腕の中へ、出会ったあの日のように飛び込んでいけたらと思うけれど、美嘉は舞台の線を越えはしない。

 美嘉はバレリーナ。

 舞台に立つ限り、彼女には演じる役がある。

 バレエは舞台舞踊。

 技術は演じるための手段であり、その全身で何かを表現するのが真のバレリーナ。

 そして美嘉はバレリーナであるが故、ロイクの愛でる妖精になれる。

 妖精が薔薇から薔薇へと飛ぶように、美嘉は元の世界から異世界へと跳んだ。

 別世界へ至るまでのあの時の不安から遠ざかるように、膝と腰を柔らかく下げて、プリエ。

 そのまま後ろへコツコツコツとポアントで下がっていき、勇気を奮って姿勢を伸ばす。

 開けた視界に映るのはなんだろう。

 妖精はきっと新たな花を見つけることができる。

 美嘉はロイクの情熱的な視線を見つけた。

 求められている。

 それに応えたい気持ちが、美嘉の中へと広がっていく。

 世界が繋がっていることに歓喜した妖精はその身を震わせた。

 羽を伸ばして、もっと高く、遠くへ―――でもその景色を名残惜しむように、空中で半回転アントルラセ

 アラベスクで着地して、もう見えなくなった景色に別れを告げるように、滑るようにシャッセで移動する。

 そうして新天地を、妖精は見る。






 ふわふわと、薔薇の花びらのようなスカートがたわむ、ゆがむ、ゆれる。

 指先が伸びるたび、かかとが高く上がるたび、糸で吊り上げられるように美嘉の体が浮き上がる。

 それはとても洗練された、華々しい舞いだ。

 くるくると、くるくると回る、愛らしい妖精。

 ロイクは、妖精の周囲に花畑があるかのような錯覚に陥った。

 花の間を縫うように、妖精が戯れている。

 ちらり、ちらりと、ほんの一瞬、美嘉と視線が交差する。

 その度に伸ばしたくなる腕を理性で押し止めた。

 これは触れてはいけない存在だと。

 触れてしまえば、泡が弾けるように夢が覚めてしまうと。

 夢見心地なロイクは本能で理解する。

 妖精が、ロイクへ向かって飛んでくる。

 可憐な微笑みをたたえて、空から降ってくる。

 宙へと飛び出した妖精が地に降り立つ瞬間、ロイクは美嘉の背中に虹の燐粉を纏ったガラス細工のような羽を見た。

 宝石のように美しく、ガラスのように脆く、透き通るほどに繊細な美嘉の羽。

 幻だろうと思う。

 だが、その羽を見るのは初めてではなかった。

 今でも鮮やかに思い出すことができる、美しい妖精の羽。

 ロイクは美嘉を初めて受け止めた時に、妖精をこの目にとらえた瞬間に、その羽を見たのだ。

 ロイクは胸にこみ上げるものを飲み下して、美嘉の踊りを見続ける。

 ナディアのつま弾く鍵盤が、最後の音を紡いだ。

 微笑んでその場に留まっていた美嘉が、以前屋敷が襲撃された時に大衆の前で見せたカーテシーに似たお辞儀をする。

 ロイクはじっとしてその場を動かない。

 瞬きすら許さず、じっと美嘉を見つめ続ける。

 美嘉もまたじっとしてその場を動かない。

 囚われたように、ロイクを見つめ返す。

 伴奏を弾いていたナディアが戸惑ったように立ち上がり、美嘉とロイクの様子をうかがった。

 踊り切った美嘉の弾む吐息だけが響く部屋の中、先に動いたのはロイクだった。

 美嘉の前へと滑らかに動きだし、自然な動作で膝をつく。

 手を差し伸べて、美嘉の指をすくった。


「お前は、飛んで行ってしまうのか。その羽で、故郷へと」


 一瞬、何を言われたのか分からないというように目を丸くした美嘉だったけれど、すぐにゆるりと首を振った。


「私が跳んでいくのはあなたの腕の中だけです、ロイクさん」


 それは美嘉の本心だった。

 美嘉が選ぶのは、バレエでしか価値を見出せて貰えなかった寂しい世界じゃない。

 ロイクが愛を教えてくれた、不思議で、温かい、この異世界。

 ロイクが望むのなら、美嘉はロイクだけの妖精になる。

 美嘉の言葉に気を良くしたロイクは、美嘉の指を軽く持ち上げて、己の唇に寄せる。

 美嘉の肌が熟すのを白粉が隠す。


「愛している、ミカ。ずっと一緒にいよう。俺だけの妖精でいてほしい」


 美嘉の体が震える。

 いつもロイクの眉間にあった皺が解れる。

 美嘉はチュチュのスカートの形が崩れるのも気にしないで、ロイクの腕へとびこんだ。

 ありのままの自分に好意をもってもらえることが。

 自分のこれまでの人生ひっくるめて愛してもらえることが。

 とても嬉しくて。

 ロイクに同じくらいの好きを、愛しているを、返したくて。


「ロイクさんが受け止めてくれる限り、私は何度でもあなたの元へとんでいきます」


 一度は挫折した。

 跳ぶのが怖いと思ってしまった。

 それは、顔の見えない大勢の誰かの視線が、値踏みをするように美嘉を見ていたから。

 嫉妬も羨望も、美嘉を成長させる糧だった。

 だけど、ロイクと出会って分かった。

 バレエは所詮技術に過ぎないと。

 でもその技術は美嘉を形作る大きな軸の一つで。

 ロイクは踊れない自分にすら愛の言葉を囁いてくれた。

 でもそれは完璧じゃない。

 本当の美嘉はバレエがあってこそ。

 だから美嘉はロイクに見てもらいたかった。

 彼の腕に飛び込んだ時の美嘉こそが、美嘉という人間であることを知ってほしかった。

 跳べなくなったって、美嘉はバレエシューズをはく事はやめられなかった。

 バレエは美嘉を形作る要素の一つ。

 それが答えだと、今では知っている。

 コンクールの評価なんて、今の美嘉には必要ない。

 技術的な点数よりも、ロイクの愛の言葉が美嘉を満たしていく。

 バレエしかない美嘉の等身大の愛を、ロイクはその腕で受け止めてくれる。

 それが、何よりも得がたい宝物。

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