[SS]No.8 ささやかな伝説がまたひとつ
冬の気配が身を潜め、春の陽気に包まれ始めた三月某日。
俺――白崎幸助は、戦場に来ていた。
「くっ……」
正直、なめていた。まさかここまで苦戦するなんて。
「どうすればいいんだ……」
この判断ひとつで、未来は変わる。だから、簡単に決めることはできない。
「うぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜…………」
そうして俺が頭を抱えること――体感的には十五分後。
「あのー……お客様? 一度こちらでコーヒーでもいかがですか……?」
声のした方を振り返ると、入店した時に満面の笑顔で迎えてくれた店員さんが、苦笑いを浮かべながら店内のカフェスペースを促してくれていた。
「あ、え? ご、ごめんなさい! あれっ⁉︎ 俺、どのくらいここにいました?」
「えっと、その……二時間です」
ニジカン? にじかん? 二時間っ⁉︎
「うそっ⁉︎ あ……ご、ごめんなさい。では、お言葉に甘えて……」
なんとも気まずい空気の合間を縫って、俺は言われるまま窓側の席についた。全く頭が働かないまま、メニューの表紙に大きく載っていた「特性! ホワイトデーブレンド・コーヒー」を注文する。
俺が今いるのは戦場――もとい、この辺りではかなり有名な洋菓子店。
理由はたたひとつ。先月同日に好きなクラスメイトからもらったチョコのお返しを買うため。
至って単純明快。シンプルかつ一本道。何も迷うものなどない。
……と、さっきまで思っていた。
そう。このお店の扉を開けて中に入るまでは。
「はぁー……どうすっかな」
先ほどまで二時間も見つめていたらしい陳列棚に、再び目をやる。
向かって左側には、世界中から選び抜いた厳選カカオをふんだんに使い、芳醇な香りとほんのりとした甘さが魅力のチョコケーキ。試食用のひとかけらだけで、舌触りの良さと落ち着いた味わいに心を掴まれた。
対する右側には、特製のアーモンドパウダーと発酵バターを使用した生地に、爽やかな酸味をプラスしたレモンクッキー。サクッとした食感はクセになり、風味豊かなバターに時節加わるすっきりとしたレモンの酸味には、あれよあれよと言う間に虜になってしまった。
その結果、店員さんもドン引きの長考タイムに突入し、今に至る。
以上。振り返り終わり。
「お待たせしました〜。特製! ホワイトデーブレンド・コーヒーでこざいます〜」
思考の切れ間に、タイミング良く店員さんの声が割り込んできた。慣れた手際でテーブルにコーヒーとミルク、スティックシュガーを並べ、開店と同時に居着いていた俺に「ごゆっくりどうぞ〜」と朗らかに笑い去っていく。うん。さすがプロだ。
そんなことを考えながら、俺は湯気が立ち昇る熱々の特製コーヒーをすする。基本、ミルクやシュガーは入れない派だ。ブラックでコーヒーそのものの香りや味を堪能したいから。
「これは……」
コーヒーを口に含んだ瞬間、まず香りが一気に駆け抜けた。そして、次に重厚な味。焙煎したコーヒー豆の深く高い香りが、より一層味を引き立てている。堪らずもう一口。うん、やっぱり美味しい。
「今度、美奈と来たいな」
思わず、そんな感想が口から漏れた。
高坂美奈。俺のクラスメイトで、先月のバレンタインデーに告白してくれ、今日この後会う約束をしている、俺の好きな人。
でも、まだ付き合ってはいない。すぐ返事をしようとしたのに、あいつはチョコを渡すや否やダッシュで帰ってしまった。
その後もどこか気まずく、やっとまともに話せたのは、今日の約束を取り付けた一昨日の放課後だ。いつも絡んでいただけに、結構この一ヶ月は寂しかった。あいつの元気であけすけな笑い声を聞き、ころころと変わる忙しい表情を見ないと、どうにも一日が締まらないし、楽しくない。
「って、あれ? 今、何時だ?」
コーヒーが、いつの間にか空になっている。まさか、また時間を忘れて……?
壁にかけてあった時計に目を向けると……十二時五十五分。
約束の時刻は……午後一時。
……あと五分っ⁉︎
「ヤバいっ!」
速攻で席を立ち、穴が空くほど見続けていた棚からチョコケーキとレモンクッキーの箱を一つずつ引っ掴み、レジへと駆け出した。
「こ、これも一緒にくださいっ!」
「お、お客様……っ! その、伝票は……?」
「あーーーっ!」
席に忘れてきたっ! この時間がない時に!
待ち合わせ場所はこの近くだが、それでも十分はかかる。久しぶりに遊ぶ……なんならドキドキの二人きりデートなのに遅刻なんて幻滅されるかもしれない。
「と、取ってきます!」
もうどのくらい引きつった顔をさせてしまったかわからない店員さんに心の中で謝りながら、さっきまで居た席へと駆け出す……前に、
「――ほら。伝票」
聞き慣れた、でも最近聞いていなかった、だからこそ聞きたかった声が、すぐそばで聞こえた。
「え?」
見ると、このお店の制服に身を包んだ美奈が、顔を赤らめて伝票を突き出していた。
「え、じゃなくて。伝票。特製のホワイトデーコーヒー、六百七十円」
店員姿なのに、目を合わせず、どこか素っ気ない。これは接客失格だ。
「……高いな」
「……私が淹れたんだけど」
「それなら安い…………ってか、美奈! お前、ここで働いてたのっ⁉︎」
やっと、俺の脳が衝撃的な現実を見つめ始めた。黒を基調とした服に白のストライプが入ったシンプルなデザインの制服は、小柄で小動物のような美奈にとても似合っている。
「え? 今?」
三時間近くもこのお店に居たのに? と美奈は驚いたように言った。
「いや、別に三時間店員を見てたわけじゃないし……」
「じゃあ、何してたの?」
「そ、それは……」
言えるわけない。けど、多分というかおそらくというか絶対、バレてる。
「……その、二時間も棚の前で悩んでいたお客さんは、初めて見たよ」
俺が目を右に左に泳がせていると、美奈がおずおずと口を開いた。
「誰だろうって見たら、幸助なんだもん。びっくりしたよ」
彼女の顔は、ほんのりと赤くて、
「なんかぶつぶつ言ってるしさ。何言ってるんだろうって思って、近くで仕事してたら、美奈の好きな味は〜とか、美奈が喜びそうなのは〜とか、私のことばっかり」
それでいて、恥ずかしそうにしているのはやっぱり可愛くて、
「洋菓子店なんだからさ、味とか見た目とか、そっちで悩んでよ。もう……ばか」
そんな彼女を抱き締めたくて、一歩近づき――
「――あのー。お熱いところすみませんが、他のお客様も並び始めてますので……。
美奈ちゃんも、残ってくれてありがと。もうあがっていいよ」
俺たちは、二人してハッとなった。あたりを見渡すと、ニヤニヤとはやしたてる奥様方に、見守るような眼差しの老夫婦に、困ったような表情の店員さんたちが。
「ご、こめんなさいーーっ!」
「あ、その……すみませんっ!」
春の足音が聞こえてきそうな昼下がりに。
とある有名洋菓子店にて。
小さくてささやかな白い伝説が、生まれたらしいです。
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最近忙しかったのですが、やっぱり書きたくて。隙間時間に書き上げました。
好きな人が、自分に気づかずに、自分のことで悩んでいる。恥ずかしいことこの上ないですね。
でもやっぱり最後まで見ていたくて。美奈は残ったんでしょうか。はてさて。
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