第3話



 傷を得るということは、痛みを感じるということだ。


 痛覚とは危険を避けるために感覚器と関連づけられたものであるのだから、それを好んで得たいと思う生き物はほとんどいまい。いるとしても、それはたまたま快楽との関連付けがなされてしまった場合の、いわゆる例外というやつである。


 しかし、その例外というものが発生することそのものは珍しいことでもない。


 ……定常的に繋がっているのは本当にそういう嗜好だから別の話だが。


 痛みを得ると同時に、生じる痛みを上回るほどの高揚や興奮を覚えているのであれば、傷を負うことに躊躇しないことも十二分にありうることである。


 ことに、他を負かすということに関して得られる精神的な快楽は大きなものだ。


 自らの命を脅かされる恐怖。それは生におけるどん底だ。

 対して、その恐怖を乗り越えて脅威に打ち勝つという行為は、そのどん底から這い上がる瞬間となる。


 今ここにある自我を継続させることこそが生き物にとっての本懐とするならば、それはこれ以上などないと断言できるほどに己の価値が高まったと思える瞬間だろう。


 ――戦闘とは、それを常に感じることができる行為だった。





 相手の攻撃を受けて傷を負う。

 痛みを得るが、竜であるという矜持が逃げという選択肢を無くしていた。


 痛みをこらえ、身体を駆使して反撃する。


 外れれば悔しいし、当たれば嬉しい。

 仕返しが出来たということもあいまって、喜びは二倍以上に膨れ上がった。


 敵は一度の攻撃では倒れなかった。二度の攻撃でもまだ立ち上がった。


 しかし三度目の反撃を当てたところで、相手はこれ以上は無理だと判断したらしい。


「……っ!」


 攻撃を受けて距離を取った勢いに乗っかるように、その人間はこの場から立ち去った。


 ――勝った。


 敵が己から遠ざかっていく姿を見て、気配が遠ざかっていくのを感じて、勝利の確信を得た。


 その瞬間に得られた達成感は、戦いの最中に感じられた興奮以上に己の心を浮き立たせた。


 ……ああ、この落差は容易く感覚を狂わせる猛毒に等しいであるな。


 しかし、生まれた直後に美しい世界を見ることで得られた感動以上の悦びを感じ、勝利の余韻に浸れたのはその一瞬だけだった。 


 ――現実というものは本当に厳しいものである。


 勝利には犠牲が伴うものだ。


 真っ先に感覚したものは、戦闘の最中に負った傷による痛みだった。


 いやもう、どこが痛いとかいう話ではなかった。

 痛くないところを探すほうが難しい状態と言ってよかった。


 あまりの痛さに頭の中身を直接ぐちゃぐちゃに掻き回されているのではないかと錯覚してしまうほどだった。痛みで痛いとかどういうことであるか。


 次に理解した事実は、周囲の状況だった。

 

 何も考えることなく派手に暴れた結果として、居心地よく過ごせていた場所は惨状と表現して差し支えないありさまになってしまっていた。


 ……なんということをしてしまったのだ。


 あれほど居心地のよい環境が出来上がるまでにいったいどれほどの時間が必要だったのかなど、我輩にはまったくわからない。


 ただ、あの環境が奇跡と呼ぶに相応しい偶然と長い時間をかけて出来上がったものであることだけは、間違いない事実であろう。


「…………」


 その奇跡を、己の矜持という下らないものによって、ほんの一瞬で台無しにしてしまったという事実を認識し、愕然とした。


 ……ああ、なんという愚かな選択をしてしまったのだろうか。


 穏やかに日々を過ごしたいという願いは本物だったはずだ。

 戦闘を経験した後でも、本当にそう思っている。


 少なくとも自分は、そう思っていると信じている。


 ――だが、現実はどうだ。

   穏やかに過ごすためにあったような環境を、見るも無惨な状態に変えてしまったのは誰だ。


 今回の件については、仕方なかったと言い訳ができる余地はあるのかもしれないと思ったりはする。


 ――我輩は生まれてからあの人間が喧嘩を売ってくるその直前まで大人しくしていたのだ。

   問答無用で争いという選択肢をとったのは人間の側であって我輩ではない。

   

 そう思いたいという気持ちは強かったが。


 ……己の愚かさは認めなければならない。


 感情的には納得できない部分もあれど、次々に湧いてきては積み上がっていく葛藤や懊悩に区切りをつけるために結論を下した。


 ――我輩も悪い。


 我輩は竜である。その事実は変わらない。

 そうであることに誇りを持っているし、誇りを持つことそのものが間違っているとは決して思わない。


 ……だが、それを理由にして行動を選択してはならないのだな。


 竜であれば人間に勝てるのも当たり前であるけども、それがすなわち、引いてはならないという意味にはならないのだ。

 

 己の矜持を貫くことも大事なことではあるが、奇跡のような積み重ねによって生じた他の存在も、その在り様も、同じように大事なものなのだ。


 ……互いに損なわぬような選択肢を選ばねばなぁ。


 まぁ相手が聞く耳を持たない場合はどうしようもないということもあるのだが。

 それはそれだ。

 あくまで可能な範囲においてという話である。


 今回はそれが頭になかったから被害が拡大した可能性が非常に高いのだから、我輩はこの反省を、次に活かさねばならないだろう。


 ……それはそれとして。


 今後のことも考えなければならないと、思考を新たにする。


 ……あの人間はまた来るのであろうなぁ。


 あるかどうかもわからない世界という枠のために、人間という生き物は苦労するものであるという認識があったわけだけれども、その認識に間違いはなかったということがつい先ほどの出来事で充分に実感できた。


 あんなものと関わるのは御免被りたい我輩としては、ここから逃げて遠くに行くというのが最も素直で簡単な対応ということになるのだが。


 ……自分が原因で荒れ果ててしまったこの場を放置して逃げ出すわけにはいかぬからなぁ。


 これは我輩の矜持に関わることである。


 ……とはいえ、あの人間じゃないにせよ、何かが戦いを挑んでくるのならば対応しなければならぬ。


 逃げ出せば矜持が傷つき、後の生に禍根が残る。

 真面目に応じれば、この場が今以上に荒れ果てる。


 大人しく死んでやるわけにもいかん。


 生まれてまだそんなに経ってないのだ。

 死ぬにはまだ早い。


 ……さて、どうするか。


 生まれたばかりの赤子にはなかなかに難易度の高い問題である、と感じて。思わず大きなため息を吐いてしまった。




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