天涯
リフ
天涯
飛行機雲が眩しい夏空の下。
「おかえり」
今年も玄関先で彼女を迎える。
「ただいま」
視線の先から響いた声は、二人だけの空間に滲んで消えた。
―――――。
最近はアスファルトからの陽炎は鳴りを潜め、電柱で鳴き散らす蝉も減った。
普段から帰ってくることが出来ない彼女は、毎年旧盆になるとかなり遠い場所から帰ってくる。
青と白が彩る季節。海の見える高台、何処までも広がる空。端の千切れた入道雲。
お盆になるとこの地域の家々は窓を開け放つ。夏の風と一緒に線香の匂いが薄く漂い、お鈴の音が微かに聞こえてくる。
「時間が分かれば迎えに行くのに」
僕は家の廊下を歩きながら背後に声を掛けた。縁側から差し込む日差しは昼前にしては柔らかい。
「気持ちだけ受け取っておくね。駅から出てすぐだし平気だよ」
荷物も何も持ってきていない彼女は制服のスカートを揺らし言う。落ち着いた色合いのその服は彼女にとても良く似合っている。
背にかかる長さの緑の黒髪、日に焼けない白磁の肌。手足も細く、宙に美しい輪郭線を描いている。
確かにこの家は駅から出てそんなに遠くはない。目の前の道を真っ直ぐ高台まで登ってくれば良い。
「気持ちの問題だよ。僕が迎えに行きたいの」
少しだけ言葉に力を込める。最近は何かと物騒だし、事件に巻き込まれないとも限らない。ただでさえ人を惹きつける整った容姿なのに、危機感が薄いのは困る。
「そっか」
返す彼女は何処吹く風だ。
「でも駄目なのは分かってるでしょ?」
そう続けた彼女はこちらを見た。
「まあ、そうだけどさ……」
ずっとあそこで待っているわけにもいかない。それは以前やって彼女に禁止されてしまった。
「それで? 今年はどれくらい居られるの」
キッ。
話題を変えようと訊いた言葉は、踏んだ板床の音と重なる。
「去年と一緒くらい」
毎年変わらないやりとり。何日まで居られるかは分かっている。それでも訊いてしまうのは確信が欲しいからだ。
ガタッ、サーッ。
目的の場所に着くと障子を開ける。ここがいつも彼女がお盆を過ごす部屋だ。薄く日に焼けた畳の匂いがする。
「部屋も去年と一緒。掃除はしたけどね」
僕はそう言うと振り返って彼女の顔を見た。
「ありがとう。今年もよろしくね」
彼女はそう言ってふわりと笑った。
―――――。
ある日突然、僕は家族を奪われた。飲酒運転による交通事故だった。僕は事故を起こした相手のことを一生許すことは出来ないし、どれだけ言い訳を並べても人を殺したことに変わりは無い。あの事故の中、当時唯一生き残った中学生に遺されたのは、家族と過ごしたこの家と成人するまでは生きていけるお金だけ。
「ねぇ」
耳元で囁く声で目が覚める。
「わぁっ!」
僕は慌てて上半身を起こした。視線を向けた先には彼女の顔のアップ。視界の端には開いた一冊のノート。よだれの跡はない。心の中で胸をなで下ろした。
どうやら家計簿を付けている内に眠ってしまったようだ。
「いいよ。それより一緒にテレビ観よ」
彼女はそう言って僕の腕を掴むと揺らしてきた。
「分かったからちょっと待って」
髪を片手で軽く整えながら引かれるままに付いていく。
「あっ、あとね」
彼女はこちらを見ると視線を頬に向けてきた。
「?」
なんだろう。
「家計簿の字、写ってるよ?」
あっ。
「~~~ッ」
慌てて腕で拭うと、日に焼けた肌が少しだけ汚れた。それを見て僕は、家計簿は鉛筆じゃ無くボールペンで書こうと決意しつつ、縁側を居間へと歩いて行った。もちろん、居眠りも気を付けようと思いながら。
―――――。
買い出しを済ませ、ご飯を食べる。
旅先での出来事や友達の事を話す。
疑問に思ったこと、分からないことを訊いてみる。
穏やかな旧盆はさらりと流れていく。
「今年ももう終わり、か」
居間でテレビをぼんやり観ていた僕は呟いた。
「どうせまた来年も来るけど」
向かいで観ていた彼女は淡々と返してくる。
「そっか」
「……」
少し素っ気なかっただろうか。
彼女は言葉を返さない。テーブルを挟んだ分だけ離れた距離が、今の僕たちの距離の様に感じてしまう。
「さ、明日も早いし今日はもう寝よう」
そう声を掛けると部屋に帰し、自室に戻ると布団を敷く。天井から垂れた紐を引き、明かりを落とす。
別に彼女の名残惜しむ顔が見たいわけじゃ無い。
静寂の帳の中、板張りの天井を見つめ想う。
呼吸と心臓の音だけが支配する世界で、枯れ落ちる蝉の音が聞こえた気がした。
壁に掛かった丸時計は零時を少し過ぎている。
「眠りが浅いな……」
不安、なのだろうか。彼女が目の前から居なくなってしまうことが。
来年も来てくれる筈だ。当時中学生だったあの事故以降、毎年来てくれている。
気付けば眉間に力が入っている。こんな顔は見せられない。
「毎年、勇気も出ないくせに」
一緒に居て欲しいならそう言えば良い。君と過ごす時間が大切だ、と。はっきり伝えれば何かが変わる気もする。
無理なのは分かっている。それでも、あの日から突然始まった今の関係を壊したくない自分もいて。
「どうしたい」
言葉は零れ落ちて。
「どうしたら」
明確な形を成すことも出来ず。
「どうしたらずっと……」
誰に拾われることも無く宙に消えていく。
コンコン。
障子の枠をノックする音が聞こえる。
「はい?」
どれだけそうしていたのか。強張った身体をゆっくり動かし、部屋の入り口を見た。
スッ。
障子が静かに横に滑る。低い視線の先に縁側と中庭が見えた。遠くに浮かぶ月が明るい。
「こんばんは」
彼女は学生服のまま立っていた。
「えっ……と」
喉の奥に何か分からないものがつかえ、うまく言葉が出てこない。今まで何度も部屋に来る機会はあったが、夜に尋ねてくることは一度も無かった。
「ちょっとだけいいかな」
月光で影となり表情は見えない。ただ、口調は控えめで細波のように穏やかだった。
「……いいよ」
僕はどうにかそう返す。心の整理はついていない。
「じゃあ、入るね」
細い足が敷居を跨ぎ、淡い白が暗色の折りひだの裾を揺らす。その対比が夜空と月の関係のようだと、映り込む景色にぼんやり思う。
「今年最後の夜だし」
そんなに広くない僕の部屋。数歩の距離がゆっくりと溶けて無くなっていく。
僕の内心なんか知らないはずの彼女。
彼女とずっと一緒に居たいと伝えたこともない僕。
「もう少しだけイイコイイコしてあげる」
息が触れるほど近づき、やっと見えた彼女の表情。懐かしい香り。
月はもう見えないけれど、僕はそれだけで充分だった。
朝、起きると彼女の姿は既に無かった。
ただ、布団の中には温もりと香りが残っている。
「おはよう」
居間に入るとそう声を掛けられた。
「……おはよう」
お互い隣同士で座布団に座り、一瞬見つめ合う。
「もう大丈夫そうだね」
彼女はそう言うとリモコンの電源ボタンを押す。朝のニュース番組が静かだった部屋に流れ出す。
「まあ……ね」
僕に隠し事は出来ない。それを理解させられた夜だった。
彼女はどう思っているのだろうか。テレビを聞き流しながらそれとなく夜のことを探ってみる。
彼女の態度はいつもと同じように見えて、耳の辺りが仄かに赤い。僕も赤くなっているのか、それに気付いてからはお互いにぎこちなく、あまり話せないままに時は過ぎていった。
―――――。
降り注ぐ光は木陰が柔らかく受け止めている。
蝉は居るはずなのにこの場所だけは不思議と静かだ。目の前の墓石にゆっくり手を合わせる。あの日壊れてしまったもの。その想い出の欠片を壊さないように拾い集める。
追懐の水面から顔を上げ、彼女の方を見た。
「今年もありがとう」
彼女もまたしゃがんで手を合わせていた。
お互いにいつもより近く、睫毛の震えまで見て取れる距離。
「したいと思うから手を合わせてるの」
だから気にしないで、と彼女は続ける。
「それに――」
彼女は特に気にした風も無く。
「私だけはそこにいないから」
静寂の中で。
「そっか」
僕は視線を外し、静かに墓石を見つめた。無機物の石は苔生すだけで変わらずそこに在り、彼女の存在もまた変わらずこの世界に在り続ける。
僕だけが年を重ねていく中で、あとどれ位一緒に過ごせるのだろう。旧盆の時期だけ会える彼女。ずっと側に居られるわけでも無い。寿命に囚われない彼女。永遠とは程遠い露命の僕。
お互いの時間の感じ方は違うだろう。それでも大切な時間を共有していられることに感謝している。
彼女の存在を隣に感じながら、柔らかな日差しの中で思う。これまでの事、これからの事。答えはまだ出ないかもしれないけれど、今までよりもこれからの方が幸せだから。そう思えるから未来に向かって歩くことが出来る。
「ねぇ」
彼女の声が聞こえる。
「ん?」
僕の意識が彼女を向く。視線は墓石のまま。
「いま、幸せ?」
どんな表情をしているのだろう。
「うん、幸せ」
僕は言いながら視線を彼女に向けた。
遠くても血は繋がっている。それがとても誇らしかった。
―――――。
「ここでいいよ」
夕暮れ前の穏やかな日差し。目の前には砂浜が広がり、何処までも続く青にもっと遠くへ行けると勘違いしてしまう。
僕達の居る場所。海に面したこの駅は旧盆の時期だけ現れる。普通の人には見ることも触れることも出来ない。
果てまで伸びる線路に
「……大丈夫?」
彼女の顔が視界に広がる。
「っ、ごめんごめん」
僕は軽く頭を振り、逸れた思考を戻した。
「少しぼーっとしてさ」
彼女は首を傾げると、
「じゃあそろそろだから」
そう呟いた。
駅に立つ僕達は静かに電車を待つ。
現世から切り取られる時間。普通に生きている人達には気付くことが出来ない刻の狭間。時刻表には載らない彼方と此方を繋ぐ
「わかった、また」
なるだけ普段通りに振る舞う。彼女の浮かべた表情に上手く笑えているか心配になった。
「またね」
彼女が返事をするのと同時に電車がホームに滑り込んできた。淡く車体の輪郭がぼやけている。
「……」
「……」
僕達だけしか存在しないホーム。互いに視線を交わし、数歩分の距離が空く。
両開きの扉は静かに閉まった。
「――」
車窓越しに艶やかな唇が何かを紡ぐ。
何と言ったのかは分からない。ただ、紡ぎ終わった後の笑顔の温かさを僕はずっと忘れないだろう。
軽く手を振る僕。彼女もまた手を振って、車両と共に此方から彼方へ。
僕は姿が遠くに消え去った後も、しばらくその場を動けなかった。
かつて家族を失い泣いていた僕を優しく抱きしめ、励ましてくれたご先祖様。いつの間にか背も追い抜き、声変わりの時期が終わっても変わらず様子を見に来てくれる『僕の大切な人』。
少しだけ進んだ僕達の関係は、こうして残暑と共に過ぎていった。
天涯 リフ @Thyreus_decorus
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