はじめてのさつがい
ヤツは貪り食っている肉の切り身よりも、若くてかわいくて巨乳の女子大生の私を当然食べたいらしく、噛んでいる肉をだらりと口からこぼして私の方へと向かってきた。
酩酊したようなおぼつかないよちよち歩きでこちらに寄って来る。見ると素足で爪がはがれている。これではまともに歩くことなど無理だろう。
すぐさま私は持っていたコップを投げつけたが、そんなもの全く意に介していない。
穿いている男物のトランクスのぶかぶかしたもどかしい感触が、普段はそれほど気にならないのに何故か今はそれだけしか考えられない。他に何か考えようとしてもジャージの着心地や昔よく食べてたマシュマロの包装とか、変なことばかり浮かんでくる。
そうこうしている内に、ヤツは私から2メートルに満たない距離にまでやってきた。そして、狙いを定めるようにいきなり腕を伸ばし、掴みかかってきた。
ので、槍を掴んで喉笛を斬りつけた。
伊達に外界で20日間も生き延びてないのよ。一対一なら私にだって勝てるわ。まぁせーが槍を置いてなかったら流石に危なかったけど。
「まだ息があるの」
喉を斬られたゾンビは前のめりに倒れたけど、私はそれを見越してささっと身体ごと横にずれたので大丈夫だった。
でも、首を少し切られたくらいでは人間でもすぐには死なない。ならさっさと切断しろと思うだろうが、生憎首を刎ねるなんて真似は、バーボンがぶ飲みして泥酔してもできる気がしない。
「ひぇっ……」
ヤツはもがいて私の足を掴んできたが、土足で部屋に上がったことが幸いして、掴まれた瞬間靴を脱いだから助かった。
私はテーブルの反対側によじ登って机上に立つと、槍を投げ捨てて椅子を掴んで持ち上げた。折り畳み式のパイプ椅子なのでそんなに重くない。
「オラァくたばれェェー!!!」
そして、それを立ち上がる寸前のゾンビの後頭部めがけて満身の力を込めて振り下ろした。その空を切る音で耳鳴りさえするほどの一撃を食らったヤツは再び倒れ、一度バウンドしてから全く動かなくなった。
見ると、つむじ辺りがバックリ割れて崩れた脳みそが見えていた。血で濡れた干し柿の中身みたいな鮮やかなオレンジ色に、神経と思われる脈動する筋が細かく張り巡らされているのが気持ち悪い。
まだ脳波が流れている証なのか、その筋はピクピクと凝縮と言うべきか痙攣と言うべきか、とにかくそれがグロテスク極まりなくて吐きそうになった。
「おい! 何の音だ!?」
大きなリュックサックを背負ったせーがやってきた。ただリュックを持ってくるだけにしては遅い。
せーはテーブルの上の立つ私を不思議そうに見ていたが、すぐに視線を下に移して私が殺したゾンビの存在に気付いた。
しかし、彼は私に歩み寄るのではなく、そのまま槍も取らずに玄関の方に向かうと、すぐに施錠とドアストッパーがかかる音がした。
「ここの家主は不用心だな。どうやら僕が戸を割った辺りから入り込んだらしい。ごめんね一人にさせて。噛まれてない?」
そういうと、せーはここで初めて槍を探して拾った。私が感染してるかを疑ってるらしい。感染していたら殺す気なんだろう。以前、せー自身も食事中に、もし自分が噛まれたらとっとと殺してほしいと言ってきた。実際殺す。
「大丈夫。全然平気よ。でもこんなサプライズは死ぬまで経験したくないわ」
「僕もだよ。かなちゃんが無事でよかった。ほら靴」
せーはそう言うと、気を使っているのかいつもと変わらない様子でテーブルの上に靴を置いた。何だかシンデレラのワンシーンみたいだったが、ガラスの靴じゃなくてスニーカーだ。
「椅子で撲殺したのか。すげェ……こんな力があるならあの仕切りも粉々にできただろうに」
「火事場の馬鹿力よ。普段からこうだったらこのマンションに逃げ込んだりしてないのよ」
私はそう言って、椅子を中継して床に降りた。
そういえば、ゾンビを殺したのはこれが初めてだ、今まで外でものを投げつけたりしたことは何度もあるが、明確に命を奪ったのはこれが初だった。
もしかしたら、今後ワクチンが開発されて感染者がどんどん改善していったとしても、このゾンビはそのご相伴には与れないのかと思うと、少しばかり胸が痛む。
「まぁ君は少し自室で休んでいればいい」
せーはそう言って、私にウェットティッシュを差し出してきた。手が血で汚れていたからすぐに拭けということか。私がそれを受取ろうと一歩踏み出した時、足元でぐちゅっと水っぽい音がして、何かを踏み潰した。膝を横に曲げて靴底を見る。
「あ、ゾンビの眼球踏んだぉぉぉえぇっ」
奴らのお目目を踏み潰してしまった。今まで味わったことがないグロテスクな感触。それで我慢していたものが決壊し、私はせーの服に向かってお腹の底から込み上げてきたものを、遠慮なくぶちまけた。
「……たいへんだね、つらいね。かわいそうに……」
やっぱりどんな時でもせーは優しい。心なしかまた服をダメにされた自分に言ってそうだったけど、きっと私の邪推だろう。
***
「大丈夫? 少しは収まった?」
それからしばらくして、せーは一人で隣家を散策して私は部屋で休むように言ってきた。
どうも、私が目玉を踏んだことにビビって吐いたのを、せーは私がゾンビを殺めたショックで嘔吐したと思い込んでいるらしく、さっきから私をまるでたんぽぽの綿毛のように、それはもうデリケートに接してくる。
正直初めて連中を殺したけど、殺害それ自体は別に、
彼が入れてくれた熱いほうじ茶を飲みながら、ベランダで私の戦利品と言うべきか迷うパイプ椅子に腰かけて風に当たっていると、リュックサックもカバンもペラペラのまま、槍を持ったせーが戻ってきた。
「あれ、食糧は?」
「考えてみたら、わざわざこちらに移す理由もないからリビングに並べるだけにした」
「それもそうね」
彼はすぐに部屋に入らずに私の元に近づいてくると、ポケットに手を入れて私にみかんを渡してきた。
「西宇和のみかんが入った段ボール箱を見つけたんだ。いくつかは腐ってたけど無事なのもあったよ。柑橘系は気分がスッキリするから食べた方がいい」
「あ、ありがとう」
そんな病人みたいに扱わなくてもいいのに……。
「さっきほごめん、服汚しちゃって」
「気にしなくていいんだよ。でも、小便、嘔吐と来て、次に来るものは流石に洒落にならないから絶対に気を付けてね」
余計なこと言わなくてもいいのに……。
「ここは冷える。中に入ったほうがいいよ」
「うん、もう少しだけいさせて」
そういうと、せーもここに留まり、さっき手渡したみかんを一度私の手から取ると、河を綺麗に剥いて、白い筋を丁寧に取り除き始めた。もはや私を労わりすぎて老人とヘルパーみたいな関係になってきた。
そんなせーの服装を、私はじっと眺めた。
下から順に、いかにも高そうなイタリア製だという革靴。黒い靴下。クリーム色のシンプルなスラックス。灰色のセーターベストはボタンのラインだけが鮮やかな赤色で、下に着ている濃紺のワイシャツとよく合っている。ベンチャー企業の役員とかにいそう。
コイツ、服に無頓着そうに見えて実はかなりオシャレよね。ここに来てすぐにクローゼットを開けて中を見たけど、いろんな服がギッシリ詰まっていた。
それらは皆全て、バレンシアヌやカールローレンやハパリーなど一流ブランドばっかりで、奥にあるまだクリーニングのビニールに包まれたままのスーツに至っては、ジファンジオだった。
というか私が今着ているこのジャージも、学校指定ので学校名自体は全く知らないが、襟元のラベルにはアディヌスのマークが書いてある。道理でこんな着心地がいいと思ったわ。ジャージを高級ブランドにデザインさせるってどんな高校よ。
やっぱり気になる。せーの実家って何なの? 旧華族? まさかヤクザの息子とか?
「ねぇせー、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「せーの家って何やってるところなの?」
「別に普通の銀行員だよ」
そう言って、綺麗に筋を取ったみかんを私に差し出してきた。はぐらかしてきたわね。そう言われたら気にならなくても気になるもんよ。
「普通の銀行員に息子を都内のマンションに一人暮らしさせるほどの資金力があるのかな? あなたもあなたで大量のブランドものの服や登山用品を買い漁ってるけど、本当にただの、普通の、何でもない銀行員の家庭なのかなぁ?」
「な、なんか急にぐいぐい来るのね」
「だって気になったんだもん」
私はみかんを食べながら、せーのそばに近寄って腕に抱きつき、彼が逃げないように拘束した。そんなに後ろめたいことなのかしら。せーは水筒に入れたほうじ茶を飲むと、大きなため息を吐いた。
「分かったよ。言うよ言いますよ。まず、親父が銀行員と言うのは本当だよ」
「うん」
せーはそう言うと、スラックスの尻ポケットから大きなメモ帳を取り出して、それを私の前に突き出した。
「宇都宮銀行? 地方銀行なんだろうけど、道産子の私は知らないわね。これがどうしたの?」
「総資産11兆円の五大地銀の一つだよ。そんでもって、ここの創業者の森川誠志朗は僕のひいおじいちゃんで、親父は宇都宮銀行の現頭取なんだ。僕はここの跡継ぎの予定。これ言うと、みんな態度変えるからあんまり言いたくなかったんだけど」
想像以上に上流階級のボンボンだった。言われてみれば所作や顔立ちに気品があるような。
「ぎ、銀行創業者一族の御曹司……」
「といっても、世界がこうなってしまっては、もはや金融機関そのものが存在し続けられるのか怪しいな。あーあ、せっかく就活とかしなくていいから卒業まで遊び惚けようと思ってたのに」
そう言うと、せーもみかんを食べ始めた。
「ずっと不思議だったのよ。何でこんな広いマンションに大学生が住んでるのかなって。アパートなら分かるけど」
「それなんだけどさ、親父は前期の成績でSを半分以上取ったら一人暮らしを許してやるって言ったから有言実行したんだけど。親父は最初は僕を有楽町でホテル暮らしさせようとしたんだ。まぁ友達呼びにくいからって賃貸マンションにしてもらった」
「まぁそうよね」
何がそうなのか言ってて自分も分からない。世界がこうでもならなかったら絶対関わらないし関われない世界の人間だったのね。森川さんは。妥協して2LDKのマンション?
「まぁこのマンションの不動産もウチの関連子会社らしいけど。でも、もうこの際にお互いの家庭なんてどうでもいいし、僕らは仲良く楽しくふざけて暮らしていけばいいよねぇ」
「そうね……」
確かにせー自身が言ったように、もう銀行なんてやっていけない世の中になってしまったのかもしれない。
でも、私はこんな自分でも親切にしてくれる気持ちの優しいせーが好きだ。
決して上級国民で預金がたくさんあるからじゃないとは付け加えとく。
「ねぇ、誠一郎君」
私は皮を下に放り捨てるせーの指先に触れ、爪で柔らかくくすぐるように人差し指をひっかいた。
「な、なんだよ急に」
「さっき、私がゾンビに襲われた時にせーは助けてくれなかったよね。私、すごく怖くて今でも足が震えてるの」
そう言われたせーは苦しそうな顔で息詰まった。
「ごめん、まさか紛れ込んでいたとは思わなかったんだ」
「そのゾンビを殺した時も、生前この人はどんな人だったのか服装とかから面影を感じて、ごめんなさいごめんなさいって謝りながら殺したの。もちろん、人を殺めたのは初めてだった」
「大丈夫だよ。連中はゾンビで人じゃない。それにやらなきゃ君が食われてたんだ」
「そんことを話してるんじゃないの。私の頭には今もこびりついて離れないの。飛び散った脳漿や血だまりや踏み潰した目玉のこととか、多分一生消えないと思う」
「……その場にいられなくてごめん」
せーは小さく頭を下げる。まぁ本当はゾンビぶっ殺したことなんかクソほども何も感じてないんですけどね。むしろちょっと闘志のようなものすら湧き上がってきている。
「そうだよ、誠一郎君がずっと私のそばを離れてくれなかったら、私はこんな不安に苛なまれなくて済んだんだよ? 怖かった……。責任、取ってくれるよね?」
「せ、責任って別にかなちゃんを妊娠とかさせたわけじゃないんだから……。別にそこまで」
せーの目が忙しなく泳ぐ。この男は情け深い故に罪悪感を煽られるのにすごく弱いのだ。何週間も一緒に暮らしてるんだからよく知ってる。
本当はもっとロマンチックにせーを抱きしめて、彼の腕の中で愛の告白をしてみたかったけど、この際せーを好きなようにできるならヤンデレでもなんでもなったるわ。
「PPAPって知ってる? せーは平気かもしれないけどか弱い私が人間だったものを殺してしまったことが、どれだけショッキングでトラウマになったか分かる? きっと夜も眠れないしリスカもするかもしれない。当分はあの時の恐怖に怯える毎日よ」
「ぼ、僕にどうしてほしいのかな。賠償できる問題じゃないと思う」
私が演技で肩を震わせると、せーは申し訳なさそうに恐る恐る私の肩をさすった。せーの心臓は後悔のあまり、もう贖罪しないと破裂してしまうだろう。
「ずっとそばにいてほしい。私達結婚しましょうよ」
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