龍の眷属
吉田なた
第1話 天平神護元(765)年 兵部卿の屋敷
記憶が正しければ、
屋敷は兵士らに包囲されているが目立った動きもない。顔見知りの
「こちらの指揮官はどなたです」不審に思い問う。
「
「
「半時前には、ここに居られたのですが……」大柄で小太りの少尉は口ごもる。
「今はおられぬのですね。何方へ行かれたのです」
「督殿は、
「屋敷内に動きがあったのですか、つまり」
「少し前に西に向かって、馬を急がせる者らを見たとの報告がありまして」
「その者らの素性は分かっているのですか」私は少しばかり苛つく。
「いえ、我々の到着の直前で……その者らはこの屋敷から出て来たと、近隣の者が報告したとか。督殿はその者らを追うて行かれたようです」
つまり、衛門少尉らも具体的な指示は受けていないようだ。
「屋敷の中の様子は」
「確かめておりませぬ」
「では、近衛少将の様子も分からぬと言われるのか」
少将の身に何かあり、包囲に気付いた兵部卿らが脱出したのか。衛門督はそのように判断し、自ら追跡に向かったのかもしれない。
「何をしているのか、
ところが反応は極めて鈍い。目の前に自らの上官がいるのに、部外者の右兵衛少尉ごときから命じられても動く道理もない。当然の反応だ。
「騎馬がこの屋敷から出て行ったのなら、兵部卿らを取り逃がした可能性が大きいのではありませぬのか。何よりも少将の安否も気掛かりです」衛門少尉に訴える。
何せ近衛少将という御仁は、
「いえ、しかし、待機しろという命令しか受けておりませぬよ」
「そのように悠長な……」
面食らって周囲を見回せば、年長の
「では、右兵衛らに俺が命じる。四の五の言わず踏み込め」部下らに向けて叫ぶ。
私の知る限りでは、この事件は昨日より始まる。
密告とは穏やかではないが、思い当たるような噂は以前より耳にしている。それは尋常ではない、現在の皇位の状況に起因している。一年前まで
このような状況での密告は、女帝の御心を見事に逆撫でした。身柄拘束を命じられたのは兵部卿の
出動の総指揮を執るのは衛門督の
私の命令で右兵衛らは屋敷の内に踏み込む。案の定、主の姿はない。使用人らは右往左往して喚き散らし、女らは悲鳴を上げて逃げ出す。主はどこに行ったのかと年嵩の男に問うが、我々は何も知らされていないと半泣きで訴える。主が謀反に問われれば、家の者らも罪を免れない。主の行為は寝耳に水だろうが、捉える側にしてみれば一蓮托生だ。
業を煮やし、更に屋敷の中心部と進む。
「女がおります」一人の兵衛が振り向いて叫ぶ。
「遅い、何をしていた」室内から低い男の声が怒鳴るように言う。
続いて、呪うの滅ぼすのと何を叫んでいるのか、不明瞭に甲高い女の声が続く。兵衛らは思わず及び腰になる。
「いい加減に観念しろ、汝に何ができるか」またも先ほどの低い声が威圧的に言い、鶏でも絞殺すような悲鳴が上がって女の声は止む。
「何が起きているのか」私は前にいる兵衛に聞く。
「
「
「そのようです」
出動前に受けた命令では、兵部卿の屋敷で絶対に確保すべき身柄は二人、兵部卿その人と
衛門少尉と私は、女が捕らえられた部屋の内を覗きこむ。
「汝ら、何を呆けて眺めておるか。さっさとこの者を連れて行け」近衛少将は苛立ち気味にこちらに顔を向ける。
見れば、片膝でやせた女の背中を、片手で後頭部を押さえつけている。
「連行せよ」衛門少尉は慌てて周囲の者に命じる。
少将が手を放し、兵士らが両側から引きずり立たせた途端、女はまたも叫び出す。やおら立ち上がった少将は、女の首の後ろをいきなり手刀で殴りつける。あまりの手際良い技に、私以下、呆気にとられる。この人は確か、御飾りの少将だとか、荒事には向いていないと評されている人だ。
半ば意識を失った女は、両側から支える兵士の間で前屈みに体を落とす。少将はさっさと連れて行けと、なおも不機嫌そうに顎をしゃくる。少尉は兵士らに手を振って促す。
「兵部卿の身柄は確保したのか」
「いえ、それが見当たらぬようです」衛門少尉は答える。
「何だと。何のために俺に、あの者の足留をさせた。衛門督も
「面目ありませぬ」少尉は大きな体を縮めるように肩を落とす。
「衛門督は来ておられるのであろう」背の高い少将は、少尉を見下ろし気味に聞く。
「いえ、自ら手勢を率いて、近隣の探索に関わっておられます」
「自ら兵部卿を探しに行ったか、悠長な事だ」
「面目ありませぬ……」少尉は更に身を縮める。
「まあ、良い。しかし、俺が屋敷に入った後、四半時以内に踏み込む手筈だった。どうして汝らの行動が、ここまで遅れたのか」
「いえ、待機の命令を発したまま、上官らが出払ってしまいましたゆえ」
「何という……」口の中で小さく呟いた少将は、叱責をあきらめた様子で大きく溜息をつく。
いささか安心したらしい衛門少尉は、現在の状況を報告する。続いて私にも同様に促すので、右兵衛の到着と頭数、我々の取った行動を補足する。
「和気王以外の者は押さえたようだな。
「まだありませぬ」僭越に思いながらも私は答える。
「そうか。蔵下麻呂の事だ、こちらのような失態はするまい」少将宮は苦笑する。
四条第とは近衛中将の粟田朝臣道麻呂の屋敷だ。近衛大将が近衛府と左衛門府の手勢を率いて向かった。近衛舎人らにしてみれば、上官の屋敷を包囲する。何とも辛辣な命令だ。衛府からの距離は四条第の方が遠いが、この時間ともなれば事は片付いているだろう。
「内裏への伝令は」
「四条第への伝令共々、速やかに走らせます」私は答えて
「和気王を逃した事、衛門督が自ら探査中の由も忘れるな」少将宮が重ねて命じる。
「畏まりました」大志は笑うような表情でうなずく。
「時に
「
恐れ多いが、名乗るたびに何やら気恥ずかしい。都に来てから、すでに何度か賜姓されている。おかげで時々、自らの名前を間違える事すらある。
「確か以前は、藤原蔵下麻呂の部下だったな。昨年の近江出兵の時にも見た顔だ」
「
「身柄を抑えた者らは、右兵衛府で暫く拘束せよ。尋問は和気王を抑えた後になろう。私は一旦、近衛府に戻る。とは申せ、和気王の行方が知れるまで、誰も家に帰る事は出来まいが」何故なのか少将宮は楽しそうに笑った。
次に少将宮の姿を見たのは、夜明け前の西宮院だった。兵部卿の屋敷では濃い色の平服を着ていたが、既に五位
外京へ探索に赴いていた衛門督から、ようやく知らせが届く。
結局、四半時後に衛門督は出頭した。西宮の門が開き女帝が出御したのは、更に四半時後だった。各衛府の
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