龍の眷属

吉田なた

第1話 天平神護元(765)年 兵部卿の屋敷

 記憶が正しければ、山部王やまべのみこと初めて言葉を交わしたのは、天平神護てんぴょうじんご元年八月一日の夜だった。

 右兵衛少尉うひょうえのしょうじょうだった私は、突然の呼集で兵衛ひょうえ(兵士)らを率いて兵部卿ひょうぶきょうの屋敷に向かっていた。場所は右京二条、既に衛門府えもんふの兵士らが出動し屋敷を包囲している。驚く事に、主らを引き留めるために近衛少将が客人として居座っているという。ともあれ、我々の役目は加勢なので、詳しい状況は現地で受けるようにと指示をされている。

 屋敷は兵士らに包囲されているが目立った動きもない。顔見知りの衛門少尉えもんのしょうじょうを見つけ、到着と頭数を報告するが、明確な指示が示されない。

「こちらの指揮官はどなたです」不審に思い問う。

衛門督えもんのかみが自ら指揮を取っておられます」私よりも若い少尉は生真面目に答える。

督殿こうどの何処いずこにおられるのです」

「半時前には、ここに居られたのですが……」大柄で小太りの少尉は口ごもる。

「今はおられぬのですね。何方へ行かれたのです」

「督殿は、佐殿すけどのの他、何人かを率いて自らお出かけになられ……何やら焦っておられた様子だと」いささか要領を得ない。

「屋敷内に動きがあったのですか、つまり」

「少し前に西に向かって、馬を急がせる者らを見たとの報告がありまして」

「その者らの素性は分かっているのですか」私は少しばかり苛つく。

「いえ、我々の到着の直前で……その者らはこの屋敷から出て来たと、近隣の者が報告したとか。督殿はその者らを追うて行かれたようです」

 つまり、衛門少尉らも具体的な指示は受けていないようだ。

「屋敷の中の様子は」

「確かめておりませぬ」

「では、近衛少将の様子も分からぬと言われるのか」

 少将の身に何かあり、包囲に気付いた兵部卿らが脱出したのか。衛門督はそのように判断し、自ら追跡に向かったのかもしれない。

「何をしているのか、いましらは。さっさと踏み込んで、少将の様子を確認せよ」私は思わず周囲の兵士らに命じる。

 ところが反応は極めて鈍い。目の前に自らの上官がいるのに、部外者の右兵衛少尉ごときから命じられても動く道理もない。当然の反応だ。

「騎馬がこの屋敷から出て行ったのなら、兵部卿らを取り逃がした可能性が大きいのではありませぬのか。何よりも少将の安否も気掛かりです」衛門少尉に訴える。

 何せ近衛少将という御仁は、中納言宮ちゅうなごんのみやの子息という、れっきとした皇族だ。最近は話題に上る事も多いので、私でも顔くらいは知っている。

「いえ、しかし、待機しろという命令しか受けておりませぬよ」

「そのように悠長な……」

 面食らって周囲を見回せば、年長の大志だいさかん(少尉の下の位)が何度も小さくうなずく。私もうなずき返し、一度大きく息を吸って吐き出す。

「では、右兵衛らに俺が命じる。四の五の言わず踏み込め」部下らに向けて叫ぶ。


 私の知る限りでは、この事件は昨日より始まる。弾正台だんじょうだい紀朝臣益麻呂きのあそみますまろという者が出頭し、呪詛じゅその事を密かに報告して来た。まだ未遂ではあるが、事は皇位を揺るがす陰謀だという。直ちに真偽を確かめろと、太政官から衛府へと命令が下る。

 密告とは穏やかではないが、思い当たるような噂は以前より耳にしている。それは尋常ではない、現在の皇位の状況に起因している。一年前まで高御座たかみくらに着いていた御方おんかたは、位を追われて親王に戻り、身柄は罪人同様に淡路国の配所に幽閉されている。縁者らが救出を試みようと、陰に日なたにと手を尽くす云々……噂は枝葉を付けて囁かれる。現在、高御座に着く女帝は心穏やかではいられない。噂を禁ずるみことのりを発するが、言葉や表現の形こそ変われ、人の口は閉じようとしない。

 このような状況での密告は、女帝の御心を見事に逆撫でした。身柄拘束を命じられたのは兵部卿の和気王わけのみこ、この人は淡路の廃帝の甥に当たる。ただし、年齢は一回り以上も上だ。連座者として近衛中将の名も挙がっている。

 出動の総指揮を執るのは衛門督の弓削御浄朝臣浄人ゆげのみきよのあそみきよひと、副官は近衛大将の藤原朝臣蔵下麻呂、これに左右の衛門府も加わるのだから、未遂事件とはいえ本腰だ。


 私の命令で右兵衛らは屋敷の内に踏み込む。案の定、主の姿はない。使用人らは右往左往して喚き散らし、女らは悲鳴を上げて逃げ出す。主はどこに行ったのかと年嵩の男に問うが、我々は何も知らされていないと半泣きで訴える。主が謀反に問われれば、家の者らも罪を免れない。主の行為は寝耳に水だろうが、捉える側にしてみれば一蓮托生だ。

 業を煮やし、更に屋敷の中心部と進む。主殿しゅでんきざはしに足をかけた途端、奥から絞殺されでもするような高い悲鳴が聞こえる。ひさしに上がっていた兵衛らは、一斉に声の方向に向かう。

「女がおります」一人の兵衛が振り向いて叫ぶ。

「遅い、何をしていた」室内から低い男の声が怒鳴るように言う。

 続いて、呪うの滅ぼすのと何を叫んでいるのか、不明瞭に甲高い女の声が続く。兵衛らは思わず及び腰になる。

「いい加減に観念しろ、汝に何ができるか」またも先ほどの低い声が威圧的に言い、鶏でも絞殺すような悲鳴が上がって女の声は止む。

「何が起きているのか」私は前にいる兵衛に聞く。

少将宮しょうしょうのみや様が女を捕らえたようです」

紀命婦きのみょうぶか」

「そのようです」

 出動前に受けた命令では、兵部卿の屋敷で絶対に確保すべき身柄は二人、兵部卿その人と紀朝臣益女きのあそみますめという命婦(女官)だ。他の者は抵抗するようなら切り捨てても構わない。幸いにしてそこまで歯向かう者はいない。兵士らの殆どは、大人しく投降した者らの対処に当たる。

 衛門少尉と私は、女が捕らえられた部屋の内を覗きこむ。

「汝ら、何を呆けて眺めておるか。さっさとこの者を連れて行け」近衛少将は苛立ち気味にこちらに顔を向ける。

 見れば、片膝でやせた女の背中を、片手で後頭部を押さえつけている。

「連行せよ」衛門少尉は慌てて周囲の者に命じる。

 少将が手を放し、兵士らが両側から引きずり立たせた途端、女はまたも叫び出す。やおら立ち上がった少将は、女の首の後ろをいきなり手刀で殴りつける。あまりの手際良い技に、私以下、呆気にとられる。この人は確か、御飾りの少将だとか、荒事には向いていないと評されている人だ。

 半ば意識を失った女は、両側から支える兵士の間で前屈みに体を落とす。少将はさっさと連れて行けと、なおも不機嫌そうに顎をしゃくる。少尉は兵士らに手を振って促す。

「兵部卿の身柄は確保したのか」

「いえ、それが見当たらぬようです」衛門少尉は答える。

「何だと。何のために俺に、あの者の足留をさせた。衛門督も蔵下麻呂くらじまろも何をしておるのか」少将宮は益々、機嫌が悪い。ちなみに蔵下麻呂というのは近衛大将の名前だ。

「面目ありませぬ」少尉は大きな体を縮めるように肩を落とす。

「衛門督は来ておられるのであろう」背の高い少将は、少尉を見下ろし気味に聞く。

「いえ、自ら手勢を率いて、近隣の探索に関わっておられます」

「自ら兵部卿を探しに行ったか、悠長な事だ」

「面目ありませぬ……」少尉は更に身を縮める。

「まあ、良い。しかし、俺が屋敷に入った後、四半時以内に踏み込む手筈だった。どうして汝らの行動が、ここまで遅れたのか」

「いえ、待機の命令を発したまま、上官らが出払ってしまいましたゆえ」

「何という……」口の中で小さく呟いた少将は、叱責をあきらめた様子で大きく溜息をつく。

 いささか安心したらしい衛門少尉は、現在の状況を報告する。続いて私にも同様に促すので、右兵衛の到着と頭数、我々の取った行動を補足する。

「和気王以外の者は押さえたようだな。四条第しじょうのだいの方は如何いかがした。蔵下麻呂、いや、近衛大将からの報告は入っておらぬか」

「まだありませぬ」僭越に思いながらも私は答える。

「そうか。蔵下麻呂の事だ、こちらのような失態はするまい」少将宮は苦笑する。

 四条第とは近衛中将の粟田朝臣道麻呂の屋敷だ。近衛大将が近衛府と左衛門府の手勢を率いて向かった。近衛舎人らにしてみれば、上官の屋敷を包囲する。何とも辛辣な命令だ。衛府からの距離は四条第の方が遠いが、この時間ともなれば事は片付いているだろう。

「内裏への伝令は」

「四条第への伝令共々、速やかに走らせます」私は答えて大志だいさかんに目配せをする。

「和気王を逃した事、衛門督が自ら探査中の由も忘れるな」少将宮が重ねて命じる。

「畏まりました」大志は笑うような表情でうなずく。

「時に御身おみ、名前は何という」少将は再び私に向き直る。

吉備きびの藤野和気ふじのわけの真人まひと清麻呂きよまろと申します」半年前に賜った、妙に長い氏名うじなを名乗る。

 恐れ多いが、名乗るたびに何やら気恥ずかしい。都に来てから、すでに何度か賜姓されている。おかげで時々、自らの名前を間違える事すらある。

「確か以前は、藤原蔵下麻呂の部下だったな。昨年の近江出兵の時にも見た顔だ」

然様さようです」今度は少しばかり嬉しくなる。

「身柄を抑えた者らは、右兵衛府で暫く拘束せよ。尋問は和気王を抑えた後になろう。私は一旦、近衛府に戻る。とは申せ、和気王の行方が知れるまで、誰も家に帰る事は出来まいが」何故なのか少将宮は楽しそうに笑った。


 次に少将宮の姿を見たのは、夜明け前の西宮院だった。兵部卿の屋敷では濃い色の平服を着ていたが、既に五位諸王みこの浅紫の官服に着替え、西宮院正殿の門の前に近衛舎人を率いて整列していた。皇族だという贔屓目を差し引いても、やたらに見栄えの良い人だ。兵士らが羨望を込めて、御飾りだと言う理由もうなずける。

 外京へ探索に赴いていた衛門督から、ようやく知らせが届く。率川いさかわの社の領域で兵部卿の身柄を確保した。程なく衛門督が自ら、兵衛府と従者数名を引き立てて戻って来るだろう。その者らを衛門府の監獄に押し込めた後、阿倍女帝あべのみかどに謁見して結果報告をする段取りだが、衛門督の到着が遅れている。そのためか、門のひさしの下に置かれた玉座は空で、西宮の内側でも人の動く気配が感じられない。

 結局、四半時後に衛門督は出頭した。西宮の門が開き女帝が出御したのは、更に四半時後だった。各衛府のかみすけが、女帝の前に進み出て言葉を賜る様を遠目に眺める。もう少ししたら、兵力の解散が命じられ、私も部下らも帰宅がかなうだろう。しかし、衛門府の舎人とねりらは、未だに容疑者の屋敷の探査を続けている。少将宮らが家に帰れるのは、そちらの経過報告を受けてからだろう。

 

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