あなたの匂い
水綺はく
第1話
「俺たち、そろそろ会うのやめようか。」
着古して袖がボロボロになったネイビーの長袖から聡の手が映る。
長く伸びた左手の人差し指と中指で煙草を挟んだ聡はそれを口に咥えて右手に持ったライターで火をつけると私から視線を外したまま気怠げに息を吐く。
彼の吐き出した白い煙が午後八時の賑わう居酒屋の中で何もなかったかのように消えていく。
聡の視線がラクダのイラストが描かれた煙草の箱に移って彼はそれを優しく撫でながら愛おし気に見つめた。
ガヤガヤとした店内。あちらこちらで笑い声や話し声が煙草の煙と同じくらいに充満している。
聡の前に座る私は仕事用の制服のまますっ飛んできた為に大切な制服に皺が入り、メイクは皮脂に負けて剥がれかけていた。まるで自ら敗者になりに来たみたいだ。
「えっ。」
聞いた瞬間、思わず出た声。
それから聡を一瞥したら彼はまるで自然なことのようにさっきまでの流れをした。
私はそれを見て懸命に正気な振りをする。
「ああ、そうね。もう半年も経つしね…」
笑顔で言った。
笑顔と言うよりかは無理矢理、顔の筋肉を上に上げたと言う方が正しいかもしれない。
視線を落としてグレープフルーツサワーの入ったジョッキをぎゅっと握りしめる。
もう一度、聡の表情を確かめるように上目遣いに見る。聡は私の言葉を聞いて、ようやく煙草を灰皿に置くと私の目を見てくれた。
私と目が合った聡は嬉しそうに笑った。
心の底から喜んでいる時の目だ。
それが私の胸に鋭利なナイフが突き刺さったように痛くて全身を硬直させた。
「だよな!じゃあ、最後のお別れに乾杯‼︎」
清々しいほどの笑顔でビールの入ったジョッキを私に近づける聡。
私は自分の手が震えていないか、ジョッキを落とさないか、慎重に手元を見つめながら持ち上げると聡の方から積極的にジョッキを当てて、カチンッと音がした。
豪快にビールを飲む聡の喉仏が上下する。その姿を見つめながら僅かに飲んだグレープフルーツサワーは味がしなかった。
「あ、それって特別なエリアにしか売ってない限定品っすよね〜」
会社の廊下でスマホをいじっていたら背中から声がした。
振り返ると清掃員の格好をした黒髪の青年が私のスマホを覗き込んでいた。
「あ、すいません。お姉さんのことずっと気になってたんで覗いちゃいました。」
聡と初めて出会ったのは一年前のことだった。
自分のプライドの高さと常に他人から比較されるストレスに疲れ切っていた当時二十八歳の私は自由で何にも囚われていないような聡のキラキラした瞳に一瞬で惹かれた。
聡が年下であることは見てすぐにわかったけれどまさか八つも離れているとは連絡を取るようになるまで予想していなかった。
「俺、別にやりたいこととか特にないんすよね。大学行かないで適当にバイトと仕送りで食い繋いでるって言うと、よくみんなにクズを見るような目で見られるんすけど俺はそれでいいんすよ。無理して働いて、そのお金でいい車買ったり高い飯食ってストレス発散するより自由でストレスのない生活で必要最低限のもので生活する方が気が楽だし。」
初めてファミレスで食事をした時も聡はほうれん草ソテーだけを頼んでそれを食べ終えると煙草に火をつけた。
「唯一の贅沢はこれっすね。」
咥えた煙草を離して息を吐いた聡が満面の笑みを浮かべた。
白い煙の先で笑う聡を見て私は完全に落ちた。
「歳上が好きなの?」
煙草を吸う聡にデザートのチョコレートパフェを長いスプーンで突っつきながら尋ねた。
「うーん。歳は興味ないと言うか…後腐れなく付き合える人が好きですね。中高生の時に別れ話で散々、揉めたんで…もうそれは勘弁。歳が近いと俺と一緒に楽しんでくれる子って中々いないんですよ。みんな重くなるし感情的になるし、すぐに相手を縛ろうとする。」
「若いから自由でいたいのね。」
溶けかけのアイスクリームをコーンフレークに押しつけて浸した。
アイスとチョコと生クリーム、コーンフレークが混ざったドロドロの液体。まるで私達、人間を表しているみたいだ。
「夏樹さんも若いじゃないっすか〜!」
聡が笑う。
顔がクシャッとなっても若さで肌のハリがあるためにすぐに元に戻る。それからまだあどけない幼さの残ったヒヨコみたいな顔立ち。
聡くらいの歳の頃、年下男子に惹かれる女の気持ちが理解できなかった。八年経った今、それがはっきりと理解できるようになった。
聡は可愛い。トキメキだけしか感じなかった若い頃の恋愛と違ってそこに母性が融合する。
私が初めて抱いたこの感情に名前をつけるなら''初恋''でも納得出来るだろう。
そのフニャッとした笑顔を見ているとSNSで行われる女友達との見栄の張り合いも職場のギスギスした人間関係も上司の機嫌に振り回される日々も電話越しでする家族との口喧嘩も全て忘れることが出来る気がした。
それに聡は私が持っていない自由を持っている。私が欲しくて欲しくて羨んでいる自由を手にしている。プライドが邪魔して手放せずにいる乱れなきストレス社会に聡は目もくれずにその横で煙草をふかしている。
私が持っていないもの、欲しいものを手に持つ聡。惹かれない理由がなかった。
「それで?新しい彼氏って何歳なの⁉︎」
高校時代の友人、花恵が賑わうファミレスで身を乗り出して尋ねる。
目がギラギラとしていて値踏みする気満々なのが窺えた。
「歳下。二十歳。」
私が答えると花恵が声を上げる。
「えぇ!マジでー‼︎」
花恵の隣でお子様ランチを食べる五歳の息子が真似をして、マジでー‼︎と叫ぶ。
自分の顔が引き攣っていないか不安になった。
子供嫌いであることを彼女に今まで言えていない。
早く結婚して子供がほしいと言っていた花恵の言葉にいつも賛同していた。その方が無駄な会話を省けるし、会話の内容と混じり合う視線の中で相手の意図を読んで競う必要性がなくなるからだ。
「相手は学生?」
花恵がいつもの嘘くさい笑顔で尋ねる。
「ううん。色々な仕事をしてるの。」
「色々な仕事って?」
「うーん…今はピザのデリバリーと人と会ってご飯食べるだけでお金がもらえる仕事があるみたいでそれをやっているの。世の中って色々な人がいるんだね。そんなことがお金になるの?って言うような職業がたくさんあるんだって彼と付き合き合うまで知らなかったから勉強になってる。」
笑って答えると英恵の顔が引き攣っていく。
「夏樹、彼氏が欲しい気持ちも焦る気持ちも分かるけどさ、それは考え直した方がいいよ。なんかその彼氏って、将来性ないじゃん。私が紹介してあげようか?旦那に言えば誰か探してくれるかもだし!」
また始まった。来た来た。
花恵の振りかざす上から目線の偽善にもすっかり慣れた。
「ううん、大丈夫。私は彼くらいが丁度いいの。」
笑顔を崩さずに返す。
高校時代に彼氏持ちだった花恵に一回だけ男を紹介してもらったことがある。その男とは三ヶ月で終わったけれど花恵が時折、私を見下すようになったのはそれからだった。
彼氏を途切らすことなく結婚に漕ぎつけた花恵は私が結婚したいのに中々できない女と認識している。自分の方が立場が上だと思っていることを喋るたびに実感させられた。
プライドが高い私はいつも誰かと付き合うたびに花恵の尋問に相応しい男か、花恵の旦那よりも立場や収入は上か、花恵よりもSNSに幸せな写真を載せられるか、そんなことばかりを考えて段々と相手が本当に好きなのか分からなくなって別れてしまっていた。私がもっと自分の幸せだけを考えられる人間だったら、相手の立ち位置で勝負しない人間だったらどんなに楽だったか。もしくは愛情よりもスペックのみを重視する冷酷な人間だったら良かったのかもしれない。
何もかもが中途半端だから私は私を苦しめる。
他人の言葉や視線ばかりが気になって私は私の幸せを自ら遠ざけているように思えた。
本当は子供なんて好きじゃない。
結婚なんて興味ない。
仕事だってしたくない。
誰かに合わせるくらいなら、一人でいる方が気が楽だ。
でも世間はそうさせてくれない。
いいえ、違う。私が世間の言葉に抗う勇気がないだけだ。
私はいつだって非難に怯えている。
蔑む言葉なんて聞きたくないと蔑む奴らの思惑通りに動いてしまっている。
ちゃんとしてるって言われるように正社員で働いて、見た目も気にして、男を探して、結婚を求めて、友達に会って、家族に連絡を取る。
非情な人間だと言われたくなくて家族に思ってもいない労りの言葉をかける。
変なやつだと思われたくなくてSNSで定期的に友人と会っているアピールをする。
全部、誰かのために。
私のことなんて本当はなんとも思っていない第三者のために。
私を心から愛している人間など実は存在していないのに私はそいつらのために自分じゃない自分を創り上げていく。
聡と別れた後、コンクリートの夜道を歩いていると冷たい風が吹いて冬が近づいていることをポニーテールの髪を揺らしながら実感した。
朝、懸命にコテで巻いたポニーテールの毛先もすっかり巻きが取れてゆるゆるになっている。
風が鼻に入ると微かに聡の匂いがした。
正確にはキャメルボックスの匂いだけど私にとってその匂いは聡そのものだ。
私はそのままコンビニに立ち寄った。
レジカウンターに向かって店員さんに番号を言う時、ドキドキした。
緊張と僅かな高揚感。
年齢確認のボタンを押して聡がいつも持っていたそれを手にする。それからライターも買った。
コンビニを後にすると人が充満する喫煙所に行くのが恥ずかしくて近くの公園に向かった。
夜遅くの小さな公園は真っ暗で誰も人がいなかった。手探りで煙草を取り出すと口に咥える。左手でライターの火を灯す。暗闇の中を照らす小さな炎が街中の街頭など比べ物にならないほど綺麗だ。
ゆっくりと煙草を咥えたまま火をつける。
ライターを消すとそのまま煙草を吸った。
煙が喉に入った瞬間、喉が痛くなって苦しくて咳き込んだ。
ゴホッゴホッゴホッウェッ!
甘さと辛さがいっぺんに襲ってそれ以上の苦しみ。
苦しくてすぐに地面に擦り付けてそれを消す。
それからしばらく咳をして、咳が終わったら呼吸を落ち着かせた。
何やってるんだ、私。
真っ暗な公園でうっすらと見えるブランコのフォルムを眺める。
「嗚呼、なんかスッキリした。」
呟くと本当にそんな気がした。
喉のイガイガはまだ残っているけれどようやく聡のことを分かることが出来たような気がした。初めてセックス以外で聡を吸収することが出来た。もう十分じゃないか。
「明日も仕事か…。」
明日は予備のもう一枚の制服を着て、こっちの制服はクリーニングに出そう。
真っ暗な夜道を静かに歩き出す。
前はぼんやりとしか見えないけれど自然と歩くことが出来た。
あなたの匂い 水綺はく @mizuki_haku
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