77 空間の狭間


 それからあわただしく数週間が駆け抜けて、その間どこか常ならぬ屋敷はぎこちない雰囲気に沈んでいた。

 これが今生の別れになるのかもしれないと思うと、どうしてもいつもどおりができなかった。

 引き留めたいと思っても、引き留めればクロの命にかかわるのだから軽々には言い出せない。

 なにか手立てはないのかと奔走しても、それはもはや無意味でしかなくて。


 もどかしくて、苦しくて。

 暴れたくなる、泣きたくなる。


 そんな不様を晒さないのは、それこそ師の教えに背きたくはなかったから。

 魔術は心の学問で、魔術師はそれを取り扱う者。弱い心の持ち主であっては成り立たない。

 だからできるだけいつも通りにふるまって、必死に心を押し殺した。

 それが死地に赴く師へのエールになると信じて。


「では、そろそろ出掛けます」


 特段の起伏もなく、アカはそのように切り出した。

 朝食を終え、食器も片付け、さて各々で過ごすかと立ち上がった頃。


 弟子ら全員が硬直する中、アカは淡々と。


「クロ、あなたはついてきてください。いちおう、もしかしたら師ならばあなたの呪詛も解呪できるかもしれませんので」

「えっ。あ、うん。わかったわ。ちょっと着替えてくるから待ってて」

「はい」


 穏やかに、アカは微笑んだ。

 これですべてが終わるかもしれないだなんて、まるで思えない綺麗な笑みだった。


    ◇


「ではクロ、行きましょうか」


 庭に出れば、もうずいぶんと春めいて草木が茂っている。

 体感する温度もまた朗らかで、どこか心まで温まる。


 けれどクロの表情は優れず、アカは苦笑だけしてなにも言わなかった。


 いつものように懐から鍵を取り出す。

 そのとき取り出した鍵は、常のそれとはすこしだけ違っていた。

 全身は金色で、けれど持ち手にきらりと輝く瑠璃の宝玉があしらわれている。


「実は鍵による空間移動というアイディアは師のものでして、これは別れ際に師から頂いたものです」

「そうなんだ」


 説明にもあまり食いつきがよくない。

 なんだか寂しいが、彼女を気落ちさせているのは誰あろう自分にほかならない。

 撤回できない以上は重苦しくとも歩を進めねば。


「行きますよ」


 断りだけはいれて、アカは鍵を虚空に差し込む。

 するとガキリとなにかが噛み合ったような異音が響き、空間が軋みをあげた。

 得も言われぬ圧力が周辺一帯を支配する。言語にならぬ違和感がせり上がってくる。

 自然とクロは冷や汗を流し――ぽたりと汗の一滴が地面に弾けた。


 気づけば目の前には緑色のドアが出現している。

 何の変哲もない、木製の、古びた扉。

 五感すべてはそれをなんのこともないありふれたものであるという。

 しかし第六感だけが絶叫して危険を叫ぶ。


 咄嗟に、クロはアカの服の袖を掴む。

 それでなんとか怯えを押し殺していられた。


 アカはすこしだけ気がかりそうにクロを見遣ってから、無言で彼女の手をとる。


「!」


 驚いて顔を上げる少女に、アカはまた笑った。

 触れる暖かな手のひらから安心感がわたってくるように、クロには思えた。

 すこしでも表情が和らいだことを理解して、アカはドアに向き直る。ドアノブをひねる。

 開いた向こうにはなにもない。


「え」


 真っ黒で先の見通しが成り立っていない。まるで暗幕で仕切られたように光がない。

 気にすることもなく、アカはクロの手を引いてその暗黒に踏み入った。


 そこに光はなく、音はなく、もしかしたら空気さえないのかもしれなかった。

 けれど決して息苦しいわけでもなく、ただふわふわとした心地で胸騒ぎがする。

 たとえるのなら目を閉じながら廊下を歩くような、月すらでない夜の深みに嵌ってしまったような。


 けれど前を行くアカの姿だけは闇のなかでもくっきりと浮かび上がっている。

 なにか、魔術を使っているのだろうか。


「ここは空間の狭間と呼ばれる場所です」


 道なき道をただ進んでいるうち、無音を打ち破る声。

 アカは前を見据えたまま説明を。


「どこでもないどこか。薄皮一枚剥いだ向こう側。在らざる虚空の空間ムラサキなどと呼ばれることもある……ええと」


 すこしなにかを考えて。


「現代においては理論上の未確認領域です」

「……いま実際に体験してるじゃない」

「はい。この亜空間に踏み込んだのは、あなたでおそらく四人目です」

「三天導師しか知らない系のあれね、うんわかったわ!」


 段々と調子がでてきた。

 不貞腐れてもいられないほどに摩訶不思議をぶつけてこられて開き直ったともいう。


「でも理論の上ではわかってるのよね? それはどういうことなの?」

空間ムラサキ魔術における転移術、あれの原理を説明する際に用いられる概念ですね」

「? 転移って、なんかこう、瞬間移動みたいな感じでしょ?」

「ええ。結果的にはそう見えます」

「……実際のところに違いがあるのね」


 師の言いよどみを正しく理解できる弟子である。

 アカは


「転移術は多くがふたつの通ずる門を開くことになります。この際に距離は跳び越えるのですが、実際は限りなく縮めているだけに過ぎないのです」

「……ゼロじゃないってことね?」

「はい」


 A地点からB地点まで百メートルの距離が離れているとして。

 空間ムラサキ魔術の転移とはその距離を無理矢理に縮めて一足飛びに距離を移動する。

 ただしそのとき決して距離はゼロにはならない。必ず僅かなりともラグがある。


「つまり現空間――あぁこれは空間ムラサキ魔術の説明時に仮定したもともと私たちが在る場所です――その現空間から術者が一切、失われる瞬間があるということです」

「世界から、自分がいなくなる瞬間……?」

「その時にどこにいるのか? という疑問に対する理論上の結論がこの空間の狭間です」


 もしくは、術の失敗に際してはじき出される場所、でもある。


 空間ムラサキ魔術の失敗のリスクは大きい。

 転移先の指定を失敗すればあらぬ場所に投げ出されるし、転移先に他の物質が存在すれ後から介入しようとしたこちらがはじき出されて転移元まで叩き返される。大きな魔力喪失を伴って。

 そして、転移途中に――現空間から一切の干渉できないところで術を途切れさせると、最悪の場合に空間の狭間に投げ出されて帰ってこれない。

 どころかここに光も空気もなにもない。数分ともたずに絶命は必至だろう。


「まあ無論、実際的にこの空間を知覚することはできませんがね。クロも、私の扉を通った際にこちらの世界など気づきませんでしたでしょう?」

「そうね。ほんとにぱっと切り替わったって感じだわ」

「逆を言えば、この空間の狭間を自覚の上で踏み入るというのはまずありえません。空間座標の指定が極めて困難であり、現空間とは文字通り別次元だからです」

「……三天導師は例外?」

「ええまあ、はい」


 現にこうしてアカは狭間を歩んでいる。

 とはいえ。


「いちおう、私ひとりではこの空間の狭間に飛び込むことはできても瑠天のもとには辿り着けませんがね」

「……え」


 アカにできないことがあると言われると、それだけで驚ける。


「狭間における空間座標指定が困難なのは言いましたね? 瑠天のエインワイスは、それを理解した上で狭間の深部に隠れ家を移しそこに潜んでいます」

「なんでそんなところに」

「昼寝を誰にも邪魔されないように」

「……は?」

「昼寝を誰にも邪魔されないように、だそうです」

「……そう」


 もうなんか理解を放棄したクロである。

 そういえばアカばかり見続けてすこし忘れていたが、天とは人と隔絶したものであった。


 けれどまあ、アカや翠天とあまり会いたくないのだとしたら、このような文字通り異次元の隠れ家を用意する他ないのか。


「瑠天って、先生のことが嫌いなの?」

「嫌いというより、不干渉であるべきと思っている節はありましたね。天は唯我独尊であるべきで、別の天と相対するのならば反発しかなりえないだろうと」

「そっか。先生として、教え子と争いたくないから隠れちゃったのね」


 それならば得心がいく。

 アカは苦笑だけで否定も肯定もしなかった。

 歩みとともに話を進める。


「ともかく、こうして私が瑠天のもとへ辿り着くには条件がありまして」

「ああ、時期ね」

「ええ。この時期でなければ、私の知る彼女の座す座標には行けません」

「それはどうしてなの?」

「この空間の狭間は規則をもって回転しているからですよ」

「回転……」


 すこしわかっていない様子。

 どう噛み砕いて話すべきかと逡巡し。


「一日ごと周期的に動く家に住んでいる、といったところですかね」

「周期的。一月一日はここで、二日は隣、三日にはさらに隣……って感じね」

「その理解で正しいです。ぐるぐると輪をめぐるように一年間、場所が回り続けるのです。そして再び一月一日に同じ場所に戻ってくる」


 星の自転と公転による空間座標の移り変わりは、この空間の狭間においても等しく影響する。

 星の動きに影響されずに不動固定の座標地点に、瑠璃色の師は存在する。

 だから一年のある一日にしか、彼女のもとを訪れることはできない。

 その日その時間帯だけ、その座標に辿り着ける。

 無理に狭間を彷徨っても茫漠たる無明無辺の空域においてはアカでさえも迷子になるだろう。

 

 クロはいちおうの理解を示し、ではと問う。


「あとどのくらいになりそうなの。ちょっと、気分悪くなってきたんだけど」


 光も音もないこの異空間、漠然とした寂しさと恐怖が常に背中を舐めている。

 もしもこの手を離したら、自分はこんな場所で孤独に――

 ぎゅっと、握る力が強くなる。


「もうつきますよ、恐れず彼方を見つめてみてください」


 言葉に顔を上げて目を凝らせば、漆黒の闇に不釣り合いな平凡な一軒家がぽつんと鎮座しているのだった。


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