1 名前


 ――魔術師には本名とは別の名がある。

 クロが師である青年から一番最初に教わったのは、そんなことだ。

 

 現在、クロは屋敷の自室を酷く散らかしていた。

 衣装部屋を開け放し、幾つもの小物入れをひらき、引き出しという引き出しをひっくり返す。

 必要になりそうなものを部屋中、片端から集めていく。

 これより新たに別の場所に住まうことになるに際し、持っていく荷物を選定せねばならないからだ。


 あれはいるだろうか。もしかしたらこれもいるかも。どちらかと言えばこれも持っていきたいな。

 あれこれと悩むことは多い。


 彼にはまたいつでも帰ることはできるのであまり悩まずと言われているが、それでも様々考え込んでしまうのは致し方ないことだろうと思う。


「アーヴァンウィンクル……アカ」


 作業する手は止めず、唇の上でだけかすかに名が呟かれる。


 ――魔術師にとって、名は最も簡易な呪詛の媒介になりえるのだという。


 だから本名を伏せ、魔術師としての名を師に授かる。そういう慣習があるらしい。

 そして、アーヴァンウィンクルの魔術師としての名は「アカ」であり、以後はそう呼ぶようにと言われた。


 世界で三番目に凄い魔術師でさえ名前からかかる呪詛に気を付けなければならないのか、とすこし驚いたような気がする。

 けれどすぐ、二番目に呪詛が得意な兄弟子とやらがいると思えばそれもやむ方ないのか。や、兄弟子なのだから名を知っているはずなのでは?


 クロでさえ、アーヴァンウィンクルという名は知っていた。

 ……御伽噺の登場人物として、だが。


 疑問を覚えて伝えれば、それはすぐに答えてくれた。


「まあ、言ったように慣例ですよ。すくなくとも師にもらった名であるので、あまりあっさり捨て去るのも師へ申し訳がありませんからね」

「はあ、そうなの」

「ああ、いえ。けれどかと言って、もしもクロがその名を不要と思えるほどになったのなら、もちろん、捨てて下さっても構いませんよ?」


 クロの生返事に、アカは慌てたようにそう付け加えた。

 別にそこに対して不満を呈したわけでもないのだけど、声音でそのように察せられたということはクロにもわかった。

 そういう意味ではなかったと否定を口にしようとして、それより先にアカは囁くように言う。


「両親からもらった名は、大事ですからね」

「…………」


 それは確かにその通りで、否定がしづらくなってしまう。

 沈黙だけが場に残り、それ以上、会話は続かなかった。


 クロはいそいそと荷物の整理に入り、アカもまたなにやらやることがあると準備をはじめてしまった。



 すこし心に引っ掛かりを覚えたままの作業は、けれど順調ではあった。

 懐かしい品々が見つかれば思い出が蘇る。意外なアイテムがあったり、記憶にないものも出てくる。

 それらから必要なものを選ぶというのは、手間ではあってもこれはこれで楽しくもあった。


 孤独に絶望し、死んだように過ごしていたここ数か月にはありえなかった感情である。

 そもそも能動的な行動など、どれほど振りだったろうか。

 それを思い出すことができないままに、整理の作業は順調に進む。


 一時間もすれば持っていくものの吟味も済み、鞄に収め、入りきらない分があってまたさらに選別をして、泣く泣く残すものを決め、すこし無茶をして収納。

 結果、両親の使っていた大きな旅鞄ひとつに荷物をまとめることができた。


「よし」


 ひとり満足げに頷いて、そういえばアカはどうしただろうかと思考に余裕ができる。

 結構な時間を放置してしまっているが、こんななにもない場所でひとりでいるのは退屈だったのではないか。

 自分勝手に振る舞って、他者を思いやることを忘れてしまって。


 ――嫌われるのではないか。


 咄嗟に思う卑屈さは身に染み付いた悪癖で、首を振って誤魔化した。

 あらゆる些細な理由を見つけては自分が嫌われていると思えてしまうのは、自身が人に害なす厄介者であるという自覚があるから。

 傍にいると、そう言ってくれた言葉をどこか信じ切れずにいる。


 そういう自分が嫌いだった。

 嫌いな自分が、誰かに好かれる想像は難しい。



「――おや、荷物はまとまりましたか、クロ」

「あ」


 考え事に沈んでいると、近づく気配に気が付けなかった。

 驚いた姿を見せないようにと繕って、クロは振り返る。


「うん、荷物はまとまったけど、ごめんなさい。わたし、夢中になってたわ。退屈にさせたかしら」

「いえ、私のほうもいくらか準備に取り掛かっていまして、それが終わったので顔をだした次第です。ちょうどよかったですね」

「……」


 気を遣われているようだと思った。けれど、それを追求するのもおかしな話。

 むしろ、別に気になることがあった。


「準備って、なにをしていたの?」

「ええ、あなたの呪いを抑える術式の開発ですよ」

「かっ、開発? そんなにすぐにできるものなの?」


 あっさりとそんなことを言うものだから、今度は驚いた顔を隠せなかった。

 アカのほうはそう驚かないで欲しいと緩く訂正する。


「いえ、開発は大げさな物言いでしたね。失礼。単に既存の術式をあなたにかかった呪いに見合うようチューニングをしただけなので、ゼロから作ったわけではありませんよ」

「そうなんだ……」


 開発ではなく改変。

 だから大したことはないと言うが、いや、それでも充分にすさまじいことなのではないか。

 魔術について詳しくもないクロにも、それは感じ取れた。


「ともあれ、いいですか?」

「あ、うん」


 生まれてこの方、憎み続けていた呪詛。それを抹消は無理でも抑制してもらえる。

 クロは抑えきれない喜色をたたえてアカのもとへと走り寄る。手の届く位置にまで近づいて、長身の彼の顔を見上げる。


「すこし触れますが我慢してください」


 首肯を認めてから、とん、とアカの指先が額に触れる。


 瞬間、花咲くようにして魔法陣が展開される。

 円形の内側に複雑怪奇な紋様と解読不能な文字列が並び、淡く輝いている。

 それは魔力による空間への術式の描画であり、いわば世界への命令書である。


 上目遣いの少女はその内容を理解できない。けれど知識がなくとも、それが綺麗だと思った。


 見惚れていると、いつの間にやらアカは逆の手に荘厳な錫杖を携えている。

 六つの金属環が上部先端についており、すこし動くだけでそれらがぶつかってはしゃらりしゃらりと綺麗な音色を奏でていた。


 かつん、と。


 錫杖の石突きで地面を叩く。

 しゃらりと環が鳴り交わし、それだけで屋敷全体がなにか無形の力に包み込まれたような錯覚を覚える。

 一方、叩いた床面からさらにもうひとつ魔法陣が展開する。

 額のそれと共鳴するように強く輝き力を発する大きな魔法陣だった。


「……」


 クロは魔術を知らず、魔力もわからない。

 それでも、今目の前でなにか途轍もないことが起きようとしていると感じられる。


 知らない記憶を思い出すような。

 真っ白な雪が身を暖めてくれるような。

 夜空に手が届いて、星を拾って来たような。


 ありえざるをねじ伏せ、道理をひっくり返す。

 まさしく世の理を塗り替えてしまうような魔の術法。それは自らの意志こそが天に敷くべき真実であると断じている。


 かつん、と。


 再び錫杖の石突きが地を叩き、六つの金属環がしゃらりと音を鳴らす。先より激しく力強い、大いなる音色を響き渡らせた。

 すると、ふいと法陣は消える。アカの手も離れた。


 クロはどこか不満げ、というより不安げだ。


「えっと、これで、終わりなの?」


 寸刻以前までの張りつめた空気感は嘘のように霧散して、感じ入るものはなにもない。

 ふわふわとした浮遊感めいた感触だけが胸のうちで燻っている。

 なにかがはじまる予感だけがあって、結局気のせいだったような気分だった。実感がないのだ。


 アカは言う。


「はい。あっさりし過ぎて信用できないかもしれませんが、これは単なる刻印でしかありませんので」

「刻印?」

「ええ、私の傍にいるか、もしくは私の術が仕込まれた領域にいる間に呼応する刻印です。メインは私自身であり、領域に仕込んだ術式なのです。そちらは数日かけて術を施しておりますのでご安心ください」


 そこそこに専門的な説明で、クロは全てを把握しきれてはいない。

 けれど、信じる。信じたい。

 なぜならアカは、クロにとっての魔法使いなのだから。


「ね、先生」

「はい、どうしましたか」


 不意に口が勝手に動いた。

 なにを言いたいのか、一瞬自分でもわからなかったが、言いたい言葉はやはり勝手に心が紡いでいた。


「わたし、クロって名前、けっこう気に入ったから」

「ええと……はい。それは、ありがとうございます」

「うん。だから、捨てないわよ」

「……」

「捨てないよ」


 すこし意外そうに、アカは驚いた顔を晒す。

 クロのほうはそれだけ言えて満足したのか、笑顔であった。


 両親にもらった名はもちろん大事だが、別にそれと比較する必要はなくて、師にもらった名だって大事なのだ。


「新しい名前にふさわしい自分になれるよう、わたしがんばるわ」

「……ええ、私もできる限りを尽くして、あなたの理想に近づくお手伝いをさせていただきますよ」

「じゃあ、行きましょう。あなたのお家、わたしの新しいお家」

「はい、行きましょう」


 ここから果たしてどれほどの遠くに屋敷があるのかは知らないが、クロにとってははじめての遠出。大冒険と言える。

 旅立ちに気を入れて鞄を掴もうとして。


「ああ、荷物は私が持ちましょう」


 いつの間にやら錫杖は姿を消しており、空いた手を差し出す。


「え。でも、重いよ?」

「なに、すぐですから」

「……アカのお家、近くにあるのかしら」


 疑惑の声に苦笑しつつも、アカはクロの旅行鞄を持ち上げる。


 たしかに、ずしりと重い。


 魔術師は肉体を鍛えているわけでもない。アカは割と華奢で筋肉とは縁遠いほうで、とはいえそこは男として泣き言は言えない。

 強化の魔術をこっそり使う、というのもなんだか情けない。気合を入れて腹をくくる。


 見栄を張った微笑を浮かべ、アカはそのまま歩き出す。


「いえ、距離で言えばここから海を越える必要があるくらいには遠いですね」

「海の向こう! そんなに遠くから来たの、アカ」


 屋敷からほとんど出たこともない少女は距離を数字でしか知らず、海を知識でしか知らない。

 その向こう側の大陸など、想像することすらできやしない。


「はい。彼の呪いの噂について世界中に網を張っていましたので。いえ、それについて来訪が遅れたのは大変申し訳なく思っておりますが……」

「仕方がないことじゃない。別の大陸のことまで情報を得られるなんて、むしろ驚きなんだけど」

「これでも、すこしは知れた魔術師なので」


 謙遜のように言った頃には屋敷を出て中庭にまで差し掛かる。

 そこで、アカは足を止めてしまう。

 どうして止まるのだろうと思いつつ、クロとしては疑義を呈するよりも話を続けるほうを優先する。


「でも、じゃあ、お家に帰るのにどれくらいかかるのかしら。一か月? 二か月? もっとなの?」

「いえ、すぐですよ」

「?」


 怪訝な顔をするクロに説明するよりも見せたほうが早いとばかり、アカは懐から鍵を取り出す。

 なんの変哲もなく見える、金色の鍵。

 アカは虚空に向けてそれを差し込んだ。まるでそこに鍵穴があるかのように。

 けれど無論そこにはなにもなく、だから鍵は空を切るかと思えば――


「え」


 鍵の先端が消えた。

 それが当たり前のことのようにそのまま捻ると、今度はがちゃんと開錠の音色がたしかに響く。


 鍵を引き抜くと、不思議。


 なにもなかったはずのそこに、木製のドアが陽炎のごとく浮き上がってくるではないか。


 クロは驚いてしまって、思わずそのドアに触れる。

 古めかしくも堅牢――感触は指先に伝わり、それがそこにあると触覚からも判断できる。


 それでも驚愕が抜け出ない。疑いもまた、消えていない。


 疑り深くドアの裏側を覗くも、そこにあるのは至って平凡にドアの裏側であって、見慣れた庭の風景だ。

 ドアが現れただけで、ドアの向こうはなにも変わらない。

 つまりアカはドアをここに設置するような魔術を使ったということなのか。


 なんのために。


 しきりに首を捻るクロに、アカは微笑。悪戯っぽく手招きして、ドアの正面まで彼女に移動してもらう。

 釈然としないクロはなんとなく慎重に歩み寄り、無言で先を促す。それで、このあとまたなにをするというのか。

 アカはやはり笑顔で歓迎を告げる。


「では、我が家にご案内しますよ、クロ」


 ドアを開く。

 けれどその向こうはドア枠を隔てただけの庭が続いているはずで――


「え」


 ドアの先は見たこともない玄関だった。


 先ほど確認した庭の姿はどこにもなく、切り取られたように別の場所がそこには確かに存在した。

 その向こうには生活感溢れた廊下があって、周囲の明媚な庭園のそれとは趣が違い恐ろしく不自然。不可思議を思わずにはいられない。


 一体全体どういうことか。

 クロは驚きと興奮を覚え、思わずもう一度ドアの裏側に回る。

 やはり見慣れた庭の景色であり、開いたドアの向こうには微笑するアカの姿がある。


 恐る恐る指を伸ばし、ドア枠に触れる。

 なんともなく、手触りもある。どこにもおかしな点はない。

 続いて、やはり恐々の体で裏から敷居を跨ぐ。やはり、なにも起こらない。

 くすくすと笑うアカのもとへ、戻って来ただけだった。


 笑われたことが面白くなかったのか、きっとクロは睨む。

 アカは効いた風もなく冗談めかして指先の鍵を揺らし、また笑う。


「遠くの扉へとつなげる、魔法の鍵ですよ」

「え、と」

「こちらから入らなければ向こう側には行けません」


 それが冗談なのかすら、クロには判別できない。

 いや――きっと事実なのだろう。


「……」


 クロは意を決し、言われた通りに今度こそ切り取られた玄関へと正面から足を踏み入れる。

 こつん、と足下の感触が変わる。

 匂いや雰囲気、気温までも変化して、そこが今までいた場所とはまるで異なる立地なのだと判断できる。


「海の、向こう側……」


 呟いた言葉に意味はなかった。

 ただたった一歩で随分と遠くに来たということがわかって、不思議な気持ちになって漏れた感想というだけだ。


 本当に、遥かな距離を省略してしまったのだとなぜか理解させられた。


 なのに振り返れば、アカはまだ庭に居て――その後ろに彼女の住まっていた屋敷が見えた。


「……」


 すこしだけ、瞳が揺れたのだと思う。

 だから、アカはこんなことを言う。


「戻りますか。いまなら、帰ることができます」


 けれど、クロはそんな気遣いが僅かに腹立たしかった。

 振り切るようにして前に向き直り、決別のように言葉を紡ぐ。


「べつに。ただドアが開けっぱなしだと寒かっただけ。早く来なさいよ、先生」

「……ええ、そうですね」


 苦笑とともに歩き出し、アカもまたこちら側へと踏み入る。

 そしてドアは閉ざされ――彼女の屋敷はもう見えない。


「…………」


 幾らもよぎる感情があって、迷いがないわけもなくて。

 それでも、振り返ることはしなかった。


 それを察して問うこともせず、アカは荷物を持ったまま先導するように玄関を抜けて廊下を渡る。

 正面には階段が見えるが、そちらには行かず右に曲がる。

 ドアを開けば、そこは広々としたリビングである。

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