ほんの少しのお別れ

タマ木ハマキ

第1話 バーにて

 旦那が女遊びをしているかもしれないと依頼され、尾行を開始した。


 だが一日で仕事は終了した。結論からいえば、旦那は女遊びをしていた。むしろ女遊びしかしていなかった。酒もせずギャンブルもせず、ただ貪欲に女をむさぼっていた。健全なオスといえばそうなのかも知らない。


 依頼主に尾行の結果を報告すると、報酬を貰った。実に簡単な仕事であったが、なかなかの額であった。世の男性諸君には、是非とも女遊びをしてもらいたかった。

 そうすれば探偵は儲かり、その金で女遊びに興じられる。


 その仕事は夕方の五時に終わり、得た報酬を握りしめ、私は女のところにではなくバーに訪れていた。酒を飲み始め、かれこれ三十分は経っている。

 店内はガス灯とロウソクの微かな灯りだけで薄暗く、目には良くなかったが、明るいバーはバーなどとは言えない。


 からっ風に、入り口のスウィングドアが揺れた。油の切れた風車みたいな音がした。スウィングドアは腰の高さにあり、小人でちょうどくらいの大きさだった。

 なので外の世界は丸見えだった。街は暗闇が訪れる一歩前の、海の底のような色をしていた。


 街では辻馬車が行き交い、高級な服を着た男女や、小汚くて臭いがきつそうな服を着た男女が歩いていた。気が狂ったような酔っ払いがいないか興味深そうに眺めたり、こんな時間からバーなどに入り浸るクソ人間を、軽蔑の眼差しで見ていた。


 私は、バーのちょうど真ん中辺りで赤ワインを飲んでいた。そこそこの値段でそこそこの味わいだった。そこそこの男には、そこそこのワインで充分なのだ。

 左のテーブルには、そこそこの私よりも劣る男が飲んだくれていた。くすんだ汚い金色の髪をしている。それは心の汚れを表しているかのようだった。既に顔は赤く、無様な表情を浮かべ、なにかブツブツと恨み事を吐いていた。

 私の前にはカウンターテーブルがあり、浮浪者ふうの男が入り口近くの席で飲んでいた。酔いが既に回っているのか、テーブルに両腕を重ね突っ伏していた。線の細い体を左右にふらふらと揺らし、時々、小さなうめき声を上げている。背中をさすってあげるような人は誰もいなかった。


 浮浪者ふう、というのはその格好だった。


 上衣は毛玉だらけで色褪せ、手袋もズボンもハウチング帽も同じようなものだった。ヒゲは整われることなく伸びきり、口の周りは黒かった。髪の毛も同様、整われず伸びていた。その日得た思わぬ金を、酒に使っているように見えた。つまりは私とお仲間だ。

 しかし、彼の後ろを通った時、珍しいことに臭いはしなかった。無臭だった。だから、浮浪者だった。


 一人の女が店内に入ってきた。ひと目で解った。上品な女性だ。

 背筋をぴんと伸ばし、優雅な足取りをしていた。被っている帽子には、黒いヴェールが目の下にまで垂れていた。黒い斑点がついている。幾つあるか数えてみようと思ったが、それはすぐさま後悔に変わった。


 こんなそこそこのバーには不釣り合いな女だった。しかし、表情だけは合っていた。寂しそうに表情を曇らせ、人恋しい瞳をしていた。さしずめ、男に振られて心の隙間を埋めてくれる適当な男でも探しに来たのだろう。後腐れのない女に魅力は感じないが、ここ最近、私は女と遊んだ記憶がなかった。


 浮浪者ふうの男は少し顔を上げ、ちらりと女を見たが、すぐさま定位置に顔を伏せた。

 左にいる金髪の男は、いい女だとわざとらしく口笛を吹いた。ずいぶんと古臭いアピールである。


 寂しい女は私の前のカウンターテーブルに行き、バーテンダーにカクテルを注文した。

 ギムレットを一つ、美味しいものを作ってね。

 見た目通り、可愛らしい酒を飲むらしい。


 彼女は華奢な右の肘をテーブルに乗せると、体をこちらに向けた。黒いヴェールがひらひらと揺れた。

 金髪の男を一瞥すると、次に視線を私に移した。少し見つめ合っていると、彼女はにこっと微笑んだ。期待と疲れが入り交じった笑みだった。

 どうやら、彼女のお眼鏡にかなったらしい。私も笑ってみせた。なるべくいい男に見えるように。


 金髪の男はやっかみをぶつくさ言うと、グイッと酒をあおった。ゴホゴホとむせていた。

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