ヒロイン

まき

ヒロイン

 大学の外れの研究室を出て、しばらく歩いた後、先刻から雪が頬に当たっては溶け、を繰り返していることに、朝倉朋也は気が付いた。車のヘッドライトは朝倉の背を照らしては遠ざかっていく。次々に追い越していく車に急かされるような気がして、また、長い光の帯が自分を導いてくれるような気もして、朝倉は歩を速めた。吐いた溜息は水蒸気になっては見えなくなって、巡り巡って雪となる。その雪はきっと、どこかの誰かを笑顔にさせるだろうし、現に彼方で子どもの笑い声が聞こえてくるのだが、薄白んだ空と、肩に薄く積もった雪とは対照的に、朝倉の心は暗く沈んでいるのだった。


 朝倉は携帯を取り出し、メールを打とうとして、止めた。もう一年半ほど前から、彼女はメールなど見られる状態になかった為、未読のメールが溜まっていくばかりだった。

「僕に何が出来

こんなことをしてる場合じゃない、と朝倉は雑念と雪とを振り払う。その雪は暫く舞った後、アスファルトに当たって、溶けた。


 朝倉の彼女、理沙が癌を患ってから、二年ほどが経った。二人で手を繋いでいった先の病院で、もう完治は不可能だろう、と言われたのを朝倉は今でもはっきりと思い出すことができた。朝倉が泣いて、理沙はそれを見て寂しそうに笑った。繋いだ手は固く結ばれたままだった。


 その後も、理沙は懸命に闘病を続け、朝倉もそれを支えながら研究に励んだ。時に無力さに打ちひしがれながらも、朝倉はこの二年間、家と研究室と病院、この間だけを往復し続けてきた。


 朝倉は、理沙の大好物のおでんを両手に持って、いつものコンビニを出た。そこの定員の多くとは知り合いになっていたが、朝倉を見ると皆、一様に気の毒そうな顔をした。その日のおでんも一つ、サービスされていた。


 それから少し歩いて病院についたのは九時半を過ぎたころで、しかし三階にある理沙の病室を見上げると明かりが漏れていたので、朝倉は安堵の溜息を洩らした。この頃、理沙が起きている時間は目に見えて短くなっていると聞いたからだ。朝倉さんが来る時間に合わせて起きていらっしゃるんですよ、とも。


 病院に入ると、朝倉はいつものように目を細めた。全面リノリウム張りの室内が明るいこともあるが、理沙だけが生きる望みである朝倉にとって、必死で生きようとする患者たちがとても輝いて見えたからだった。


 「朝倉さんですね、理沙ちゃん、待ってますよ」

朝倉は、少し小さめのナース服に会釈して三階まで階段で登る。そこだけは少し暗くて、足音が静かに響いた。


 理沙の部屋は三階の一番奥の部屋にあって、朝倉が部屋の前に着いてノックしようとすると、ドアはひとりでに開き、中からダボダボのナース服が一人、出て行った。因みに、ナース服という描写に留めるのは、偏に朝倉が人の顔を見るのを避けるからだ。理沙の痛々しい顔を毎日見るのが辛く、いつしかこうするようになっていたのだ。


 朝倉が室内に入ると、理沙は窓の方を向いたまま、雪、降ってきたね、と呟いた。

二人の間には挨拶は無い。これが最後かもしれない等とは考えたくもなかった。


 朝倉が、おでん買ってきたよ、と言って袋を掲げると、理沙は

「こんなに食べられるの?」

と言って静かに笑った。理沙は朝倉から袋を受け取って、大切そうに匂いを嗅いで、後は朝倉が食べるのを見ていた。


 十時になって消灯されてからは、二人目を瞑って話をした。朝倉は鬱陶しい教授の話と、最近のニュースと、研究はうまくいっていること、理沙は読んだ本の内容と、病院で起こった珍事件について、それぞれ語った。ここから出れたらなぁ。研究が成功したら色んなところに連れてってね。理沙は研究の難しさを知ってか知らずか、よくこう言った。


 理沙が何度目かのあくびをし始めた後、そろそろ帰らないと、と立ち上がった朝倉の手を、理沙は離さなかった。


 「もうちょっとだけ」

朝倉は理沙の手が緩むまで、涙が枯れるまで、彼女の頭をなで続けた。勿論、理沙に髪は無かったし、小さい頭は静かに震えていた。


 手を離し、朝倉は大丈夫だ、と言って理沙の頬にキスをした。理沙は何も言わず、朝倉がドアを閉めるときになって、

「さよなら」

とだけ言った。朝倉は何も言えずに、そのまま扉を閉めた。


 靴音を響かせ、ナース服に会釈して外に出ると、雪はうっすらと積もっていた。朝倉は打ちかけのメールを消して、ありがとう、とだけ打って送り、おでんのゴミを捨てて帰った。そういえばあの子は、おでんが好きじゃなかったな、と今更思い出すのだった。

     *

     *

     *

     *

     *

 朝倉が帰った後の部屋には、理沙役の少女と、ナース役の少女二人が集まっていた。

「今日も上手くいったね」

三人は顔を見合わせて笑った。

「理沙さんが死んでから、かれこれ一年半もあの状態でしょ、よっぽど辛かったんだろうね」

「でも研究は続けてるんでしょ?今も生きてる理沙さんを治そうとして。あれだけ思われてるって素敵なことだよね」

「ほんとにね。あ、明日のヒロインは私がやるから」

その後も三人は恋バナに花を咲かせ、病室の夜は更けていくのだった。


 完治不可能なほど重い癌だった理沙が、二年もの間生き続けられたとは考え難く、実際、発見後半年で理沙は息を引き取った。そのため、一年半ほど前からメールなど見られる状態になかったのだ。その後も、朝倉は理沙を想いながら研究を続け、病院に通った。そのことを知った少女三人(ナース服が大きいのはこのためだ)は朝倉を慰めるために、毎日こうしたことを続けているのだった。彼女たちも理沙と同様、癌を患っていて、朝倉を慰める中で、自分たちもまた、朝倉の一途な愛に触れ、慰められていたのだ。


 その年はよく雪が降り、朝倉と少女たちとの関係は続いた。しかし、春を目前にして一人が亡くなり、それに続くようにして他の二人も亡くなった。それでも、『理沙』は受け継がれ、なくなることは無かった。

     *

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     *

 それから二十年後、朝倉は画期的な癌の治療法を発見し、ノーベル賞を受賞した。今の気持ちを一言、と言われた際、

「この賞を、僕をここまで導いてくれた全ての方に捧げたい」

と口にした。今思えば朝倉なりに、彼女たちを想い、慰め続けてきたのだろう。皆がヒロインとして命を全うできるように。

     *

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     *

     *

     *

 彼は翌年、国民栄誉賞を辞退し、自ら命を絶った。理沙に報告しに行ったのだろうか。その日も雪の降る日であった。






                                    了

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ヒロイン まき @maki_m

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