巨人と山姫

円窓般若桜

巨人と山姫

ー巨人と山姫



巨人は山と同程度の背丈だった。胴幅は頂きに上がる度とんがりを増す山と比べて、巨人の胴幅は寸胴で、だから同じ背丈の山よりも一回りは大きく見えていた。

駆逐艦の甲板ほども幅広な巨人の肩には、溶けきれない落雪が244ミリメートルの積層で残っていて、桜杏を迎えた春の夜の月におぼろおぼろと光っていた。巨人の体はぱっと見にごつごつで、ブリキの兵隊とか薄緑のエプロンスカートを履いた女の子とかが活躍する物語に出てくる岩壁みたいな質感だった。岩石巨人なんて蔑称されても仕方ない質感だったけど、巨人はいつも笑って見えたから岩石なんて接頭しちゃうと少し卑下して聞えるかなって、山の麓の人々は、遠くの尾根の人々も巨人のことは巨人と呼んでいた。

巨人は余り食べ物を食べなくて、食べても腐った朽木や濁った泥、たまに壊死した人間の手足なんかを食べて暮れて、食べられた人間の方は不思議に痛みはなくて、どころか食べられた断面は巨人の唾液か何かの養効だろうか、つるんと丸みを帯びて可愛らしく、甘くて良い匂いもしたもんだって。

加えて巨人はほとんど動かなくて、遥かの人達から見たら山と同じに見えた。ぼーっと月とか星とか雲とかを眺めている風合いだった。

まったく動かない巨人のすぐ隣にはとんがり山が同じ背丈で聳えていて、その山の天峰には山姫が棲んでいた。山姫は人間と同じサイズで、薄衣の羽衣をいつも着ていた麗人で、羽衣は薄い青とか薄い緑、薄い赤っていった赤外紫外の内色の色調がくるくると月光とかに反射して、天峰に雲が架かれば山姫はそれに乗ってよく巨人の肩を止まり木に渡っていた。

山姫が巨人に渡る時はいつも月の明かりは瀲灔(れんえん)、山姫と巨人の2人の顔を沁み飛ばすかに照らしてあって、渡しの雲に降りかかる月光は縁端々を虹色に染めてあった。

「見てごらんなさい!巨人!雲に虹が架かったわ、きゃー素敵!」

山姫の年頃は、人で言うなら14の年。

「ああ、架かったね、山姫」

巨人の年を言うならば、人間にはとても当て嵌まりそうもなかった。

「なによ、もう少し喜んだら?雲に虹なのよ?」

山姫、雲虹から瞳を離し、巨人の大きな顔を横向いて見る。

「喜んでいるよ。わからないかな?」

巨人の窪んだ岩石の瞼は、月の光りを呑み込むばかり。反射を持たない相貌は、沈鬱としか映らなかった。

「ねえ巨人、もっと喜びを、なんて言うかしら、あれよ、えーっと、楽しいときは楽しいですよーって、なんだっけ」

「表現かい?」

「それそれ、表現ね。表現したほうがいいわ」

山姫は、腕組みしてみたり両手を広げてみたり、眉間をしわ寄せてみたり楽しさに笑ってみたりして巨人を嗜(たしな)めた。それでも巨人は沈鬱そうな相貌を変えること無く、しているんだけどねと石が爛れる声色で言った。

「しているつもりだよ。月は綺麗さ嬉しいさ、雲に虹が架かっちゃって最高の頂さ」

「つもりじゃだめよ。つもりじゃだめ。そんなのただの己惚けよ、自分ばっかりが嬉しいだけ」

「自分ばっかりじゃだめかな?」

雲端を縁彩る虹の中の緑を見つめたままに、蛇縄麻(だじょうま)の意味を問うかに巨人は山姫に尋ねた。

「だめよ。あなたは巨人でしょ、あたしは山姫。他に代わりがないって知ってるでしょ?特殊って意味。特殊って気分がいいわ。他の何とも違うんですもん。こんな気分がいいこと己惚けに独占してたら、他の多勢に悋気か劣等の補完かとかで殺されちゃうわ。それでもいいの?それでもいいならあなたばかね。殺されてもいいなんて、死んでもいいなんてばかね、ばか!」

山姫が身振り追っ掛け手振り引っ掛けそう言うと、山姫の山に果て無しと実った慈姑(くわい)の緑実が揃って揺れて、バカバカと追撃するかに音を鳴らした。

「死にたいなんて思っちゃいないさ」

「噓おっしゃい」

「そりゃあ上辺でさ、ちょっとは思ったことはあるけど、君だってあるだろ?」

「あたしはないわ。山姫ですもん、他と違う存在。生き永らえなくちゃ」

「僕も心底はそうさ」

「心底もくそもないわ。心底のほうが扱い簡単、表層の心理こそ扱いづらくって御し難いの。あたしたちは特殊な生命、表層心理こそ生に向かわなくちゃ。みんな絶望しちゃうわ」

人で言えば14歳ほどの少女見た目の山姫は、酔も甘いも承知の半天、千早を振るかにそうと断じた。

「表層心理だって?なんだかよく、わからないよ、山姫」

窪んだ無相の表情を翻えずに巨人がそう言うと、

「はー、もうばかね。わからないからってわからないなんて言っちゃあ、あたしたちだめでしょ。わからなくてもわかってる風で超然と、例えば卵の殻と黄身白身のことわざなんかに掏(す)り替えてね、大きくわかったふりをするのがわたしたち」

「卵の黄身って?」

「例えばよ、もう!知らないわよ!卵の黄身なんて!」

墜緒(ついしょ)を失くした巨人が、雲虹を再び見上げたとき、虹の奥から天馬が姿を見せた。

「やあこんばんは、良い月だ、山姫、それと巨人」

「こんばんは、天馬。相変わらずぴかぴかなお面ね」

口を変に婉(ま)げて山姫がそう言うと、天馬は気取った風に馬面の突起を覆った金娑羅のお面をぴかぴかに光らせた。天馬のお面は装飾には見えなくて、彼の顔から生えているように巨人には思えた。

「なあ、君達、神様を見なかったか?」

天馬は月を睨め付け、視線を山姫にも巨人にも与えないまま尋ねた。まるで2人なんてには関心の無いさまは、荒れた天を収斂する老いた地のさま。

「見てないわ、巨人は?」

「見てないね」

「神様見つけてどうする気?」

山姫が重ねてそう聞くと、すきっとした後ろ足の蹄をカコンと空に打ち鳴らしながら、

「なあに、あのひとは、弱いものを救うなんて言いながら、美しくて弱々しいものを選別して救っているってしょうがないのさ。惨めなものや腐敗したものを救う気なんてないんじゃないか、それを聞き質(ただ)したくてさ」

「聞き質してどうするの?」

「僕の思った通りだったらさ、一丁懲らしめてやるさ」

と言って、胴背に生えた白銀の翼を翻すさまは、翅体をふるわす孔雀蝶のよう。

「すごいこと考えるわ」

巨人は黙ったままに山姫がそう言うと、天馬は春埃(しゅんあい)を打ち払う翼をばっさばっさと翼動させて、半分笑って月夜空高くへと昇って往った。神様は、尊いものはみんな天に在るなんて一体誰が決めたのだろうか、巨人は思った。

「相変わらず変なやつ、神様なんて誰も見たこと無いのに」

芳紀(ほうき)を迎えぬ14歳の貌で、天馬の飛び去った天球を眺める山姫の瞳黒眼には、チラチラと星の瞬きが映り込んでいた。

「見つけたいなら天に向かってもだめだと思うんだけど」

窪んだ眼で天を見つめる巨人の窪んだ瞳には、水磔に打ち当たる波しぶきの鴆毒玉(ちんどくだま)のような煌めかりが映り込んでいた。

「あら、どういう意味で?巨人」

「天は遠いからさ、みんな見上げるんだけど、神様なんて近いものだと思うんだ」

「だからどういう意味?巨人」

「嗚呼神様、って言葉に出すだろ?近くないと聴こえやしない。届きやしない」

「じゃあどこ?」

聞かれた巨人は口を噤(つぐ)んで、見果てぬ神はどこかとわからなかった。

思う反面、神様なんていなけりゃいいやと巨人は月を睨め付けた。神様がこの世界を創ったなんてしたら自分にも役割があるんだろうし、それは嫌だなって、偶発に誕生した世界で偶発と生まれた自分でありたいなって、意義も役割も無いただ存在だけの生命のほうが好いなって巨人は思った。

全燔祭(ぜんはんさい)を呼び起すような高音嬌声の金斬り音が、木菟(みみずく)殺しの森で鳴ったかと思えば、切り株型の山姫の山とは別の、片仮名のヘの字型をした山の狭隘な沢谷から、コブラがひとつ這いずり出てきて、発条(ばね)屈伸の力動で巨人の肩の、山姫が在るのとは反対左右に乗ってきた。

「いやあ、お早う、巨人、いま君、すごい表情だな」

白眉を奇天烈に揃えたコブラは、肩に乗っかった勢いそのままに息も喘がずそう言った。

「今まで寝てたの?コブラ。夜よ」

巨人が返応するより随分早く山姫が巨人の肩項越しにそうと聞き返した。

「ああ、眠っていたね。僕が眠っている間は世界も無くなっているんじゃないかってほど眠っていたね」

山姫のほうは見遣らずに、虚有な空気の極細な粒を見つめるかの眼色でコブラはそう言った。山姫は14娘の呆れ顔で、

「そんなわけないじゃない。あたしも巨人も起きてたのに。世界なんて平常通り移ろくばかりだったわよ、ねえ?巨人」

と巨人に同意同調を求める感嘆混じりの疑問符で応えた。

月が照りつき、透明の温度が辺り万端に垂れ込めて、明里の灯火が酸素ばかりを多く含んだ過多の青色炎で揺れていた。

「この世界の総体はひとつだろうけど、その存在は全生命の数だけ滅裂なはずだよ」

「適当なことを言うでないよ、巨人」

睨め付けるように透明な温度から視線焦点を外したコブラは、巨人の肩に乗っかっているくせに、説諭するかに急いで言った。

「お前の言い方だと生命があって世界があるみたいじゃないか。異だね。世界があって生命はあり足り得るのさ。眠っている間に世界が無くなっているなんて言ったのは、我ら生命はなんとも高飛車なもんかって話でさ、眠っているから世界が無いんじゃなくて、眠っていて世界を気付けないなんて、なんて高飛車で愚かな存在なのかって、我らの話さ」

忌日前夜の逮夜(たいや)を過ごすかの趣を醸しながらそうと言うコブラは、それでも照りつく月をきっちりと見つめていた。眼の奥横でコブラを見た巨人は、また天を見てらと、よくわからない哲学なんかを煌々と宣うコブラを、少し恣意でちょっと頑固だなと思った。

「なに言ってるの、コブラ。あなたさっきまで寝てたんでしょ?で、さっきまでも世界はあったわ、それだけでしょ?」

「ああ、それだけさ。それだけ、ゆえに儚いのさ。僕が意識を無くしても世界はずっと移ろいでいる。僕が意識を取り戻しても世界はいつも移ろいでいる。それなら僕なんて、いてもいなくても一緒さってさ、そう思うと儚くて」

大長老みたいな諦観相でそうと吐いたコブラの嘆息は、毒の混じった酸の匂いを巨人の鼻まで届かせた。

「だから探すんでしょ?」

山姫が喧々(けんけん)声を高らかに反する。

「なにを?」

伏せ鉦(がね)の眼つぶりでコブラは応す。

「だいじなもの」

「なにだ?」

「たいせつなもの」

「なにだ?」

「うつくしいもの」

「なにだ?」

「あたたかいもの」

「なにだ?」

「赦してくれるもの」

「だからなにだ?」

「愛よ」

「愛か」

「愛しかないわ」

「どこにある?見つけたか?」

「それを探してるんじゃない」

14歳の小娘姿の山姫は真っ直ぐにひた垂れ伸びた黒髪を振るわせて、14歳の小娘にはそぐわぬ、あれ無情の可憐でそうと断じた。

彼等特殊な存在は、この世界に一個体しかない己を最上優先するべきは理か業かで、誰かを愛するなんて、愛してしまえば愛したもののために命さえ捧げるは光か真か、そんな愚かは彼等特殊に許されなくて、赦されるものが愛ならば、だから、探して辿り着いて見つけたとしても愛なんて、彼等特殊には触れることもできないはずで、それが人間との大きな差異で、それだから平凡な人間は彼等を化物とも呼んだ。

14小娘姿の山姫は、だからすこし、涙ぐんだ。

「今宵は月虹。もう行こう」

コブラは大長老の相のままに、

「泣くなよ、山姫」

そう言って、太首伸ばしてぐぐぐいと、身を蛇から大きな龍に変身させ月天へと昇って行った。髪と髭と背毛の生えたその姿は、虹をはり付かせたままの雲間を威風と飛び抜けて、飛翔の際に起こった風は、竜巻となって山姫の山の草木の胚珠を捲(まく)り上げ、山姫の山の種子たちが、もっと遠くへ届くよう、愛を見つけ能(あた)うよう、空高くへと舞い上げて落下傘とあちこち降らせた。

「どうしてみんな、天に向かうんだろうね」

窪んだ眼の、潰えた表情で巨人がそう言うと、

「繋がってないからじゃない?憧れるのよ」

と山姫は言って、降りしきった種子たちに、さよならか行ってらっしゃいかの手合図を振った。

月はさやか、朧は西風に散らされている。どこからか篠笛の音が聞えた。

聞えたかと思えば、山姫の山の一番大きな岩石に寝床かと寝そべる大狼がひとつ、いつの間にか出現していた。大狼は刀剣でも背負うかに背に2本の篠笛を挿していて、笛の音は朧を散らした西風が通り抜けた跡だった。巨人みたいにごつごつの岩肌のなにがそんなに心地良いのか大狼は、身肌を擦り付けるかに岩石に寝そべっていて、その瞳は真摯に月を捉えていた。

「あら大狼ちゃん、久しぶりね」

種子に振らした手合図のままに山姫がそう言うと、

「山姫、久しぶりだわ。元気?」

と、大狼は威厳豊かな狼らしからぬ少女声でそう応えた。大狼の少女声は、笛音を鳴らした西風に乗り巨人の耳まで澄みやんで届いた。

「岩に寝そべるって、固くって痛くない?」

ごつごつ岩石肌の巨人の肩に座っているくせに山姫は、大狼にそう聞いた。

「ひんやりしててね、気持ちいいの。ほら、わたし体毛ふわふわでしょ?だからあまり痛くないの」

畏(かしこ)み気分を満杯と催させる、一本一本が水晶針のように艶やかな純白の体毛を風に吹かす大狼は、上睫毛の長くかかった二重(ふたえ)の瞳を上目にあげて月から巨人のほうを見た。上目を使った大狼の瞳は、14小娘姿の山姫のそれよりも随分無垢に巨人には見えた。

「その肩の心地はどう?あったかそうだけど」

無垢の瞳を月へと戻した大狼が、山姫にそう尋ねると、

「ちょっとごつごつだけど、皮膚の下は肉だからまあまあね。あんたの毛のほうがあったかそうだわ」

と、山姫は大狼よりは幾分大人な女性の声でそう言った。山姫の声も、山のやまびこを支配しているためにとてもよく透き通った。

「あたたかいけど、邪魔でもあるの。わたしね、伝う涙を感じてみたいんだけど、毛が邪魔してね、涙を溢れさせても血餅みたいにすぐ毛が吸収しちゃうの。だからわたし、頬を伝う涙を感じたことがないの。頬に温かな液体が伝わるなんて涙以外にないじゃない」

大狼が、悲しみに楽しく耽るように二重の瞳を落とし使いでそう言うと、

「ぶっはっはっは、大狼、なにを生娘みてえなこと言ってるんだよ、ばっかじゃねえか」

と、山姫の山の最も深い森の深奥から、大狼よりも一回り巨大な、泥で誂(あつら)えられた目玉模様を胴体に刺青(いれずみ)したイノシシが現れ、低くわななく大声でそう言った。

「来ると思った、ばかイノシシ」

山姫は、飽和に倦んだ呆れ顔で巨人の左肩から目玉イノシシを見下ろした。目玉イノシシは獣を統べる大王のくせに、言葉遣いが汚く乱暴で、山姫は嫌っていたけれど、巨人はというと、なんて自分に素直なんだろうと、少し憧れていた。

「なによ、ばかイノシシ、近寄んないでよ」

乙女に耽った二重瞳をキッと鋭く差した大狼は、ツンと素振りを振った。

「つれないこと言うなよ、頬に温っけえもんを伝えたいって?俺が小便でもぶっかけてやろうか、ぶっはっは!」

「下品!野蛮なモノ!あっち行って!」

「ぶっはっは、お前のその加密列(かみつれ)みてえに綺麗な顔面に小便ぶっかけたら、さぞ気持ちいいだろうな」

金輪際勘弁の下品な悪態ばかりを吐く目玉イノシシの相貌は、言葉とはうってかわって父性あふるる優しい笑みで形成されていて、月はさやか、大狼は目玉イノシシの笑みに心を一発どくんと鳴らして、巡り早まった血流にすこし頬を赤らめて、月がさやかにそれを照らした。加密列の一年草は、気付けばそちらこちらとその白黄の花を咲かせていた。

「やめなさいよ、ばかイノシシ。大狼ちゃん嫌がってるじゃない」

巨人の肩の上から山姫がそう言うと、

「嫌なのか?」

と加密列の花を踏まないよう慎重に歩みながら目玉イノシシが聞いて、

「嫌よ!ばか!」

と、間髪入れずに大狼が返すと、

「噓言えよ」

と、父性面で目玉イノシシは臆もせず岩石に登り大狼の隣に座った。嫌だと言う割りに大狼は、体温さえほんのり伝わる近距離に目玉イノシシが座った時、ほんの少しも身を反らさなかった。

「青空に月が昇って風が温かく柔らかだ。隣にはお前がいる。なんて素晴らしい世界だ、なあ?」

「夜よ。青空ってばかじゃないの」

「俺には青空に見えるね」

「眼までばかになった?」

「そうかもな。美しいお前を見過ぎたせいだ、いかれちまった」

「ばか」

大狼は声に似合った少女笑みで笑って、目玉イノシシの足跡そばの加密列は、一段大きく生長していた。

加密列(かみつれ)の花が肥えたのを確認した大狼は遠く月を一遍見遣って、吹く風に合わせて体を振った。刀剣のように背に挿さった篠笛がその律動に反響して、そこら中に響き渡った。旋律は、風に溶けた霞が音孔に潤いを与えた為かひどく潤沢な音色で響き、どこか決意ある哀しさに満ちていて、泣きたくなるくらい心静かな心臓の奥で、5億の鈴が打ち鳴るかに奮うのを巨人は感じた。肥大した加密列たちも旋律に合わせて、その体躯を大きく揺らしていた。

旋律が繋がり、降る月光が大狼の貌を照らしたとき、大狼は立ち上がり旋律を保ったまま足場のない空中を駆け、月へ目指してすごい速さで昇って行った。目玉イノシシもすっと立ち上がりすぐに大狼を追い、空を駆け上った。大狼が遠くなるにつれ、旋律は音を段々弱く遠ざけて、遂には一音の途切れで終結した。大狼が空を駆け上る際、上空の氷点下に暴露された霞が凍てついたのか、キラリと光る粒が月光に反射し、巨人にはそれは星にも見えた。

「イノシシのあの行為は愛じゃないのかな」

大狼を追いかけて夜空を駆け上っていく目玉イノシシの後ろ目玉を見つめて巨人がそう言うと、

「あんなの愛じゃないわ、あれは恋欲よ。欲求だけの下品なイノシシ」

と、苦虫を噛み潰して吐出も嚥下もできなくなったような顔をして山姫が言った。山姫はそう言ったけれど、あの2人はお互い好き合っていて、目玉イノシシはそれをあけっぴろげに、大狼は恥じ忍んでいるように巨人には思え、そのお互い好き合うことを愛と呼んではいけないのかと考えたけど山姫には言わなかった。愛は我ら特殊な存在を崩落させるとついさっき山姫が口にしていなければ、巨人はそれを口にしたかもしれなかったけれど、もう巨人にはそれを口にすることはできなかった。

月天の虹は未だに光七彩を並べていて、山姫の山に点々と咲く木香茨(もっこうばら)の黄色が、虹を見過ぎたせいか点滅するように色をくるくるとさせていた。

山姫の山の麓の平野、人間たちが建てた穀物を蓄えておくサイロから、白鹿がひとつ、梭(ひ)の音かに現れ出て平野から巨人越しに月を見上げた。白鹿は化物のうちにも大変な賢者で、巨人も山姫も自然と頭を下げて挨拶をした。

「白鹿先生こんばんわ」

「あらきゃあ、白鹿先生、こんばんわ」

巨人が慇懃丁寧に、山姫も苦虫潰した顔を14乙女の愛らしさに戻しあいさつすると、

「やあ、巨人に山姫。なんだか難しいお話をしているね」

と白鹿は、月を見据えたままそう応えた。白鹿が先生と尊称されるわけは、彼が遍く化物どもの言語の先生であるからで、白鹿の生はもう無間の彼方までも永く続いてあったけれど、天馬もコブラも大狼も目玉イノシシも皆、白鹿に言葉を習ったそのおかげで、話すことができるようになったから、無間の生を飽くことはあるが倦むことはなく繋げることができていた。

白鹿は盲(めし)いの風合いで、月を見つめるひとみ瞼は閉ざされてあったけれど、瞼のひどく薄いためか物体の放つ光は白鹿の瞼皮膚を透き抜けてきちんと網膜に像を結び水晶体の調節も効いていた。見え過ぎる光を忌避した白鹿は、わざとひとみ瞼を閉ざしてあった。ために、白鹿がひとみ瞼を開いてものを見たときは、そのものは、放つあるいは反射する赤外紫外の光線までも白鹿に見透かされ、なんだか己の一切全てが見透かされてあるように、白鹿のひとみと相対するものはだから畏れを抱いた。

手桶いっぱいに注いだ黒天鵞絨(べるべっと)を殺風景にぶち撒けた空に浮かぶ月を、閉じたひとみで見つめる白鹿の白い体毛は、月光に照らされ寒冷紗の艶めきを放ってあった。

「むずかしいお話をしているね。巨人。山姫。答えはわかったかい?」

閉じたひとみを月に向けたままに、丸屋根に赤漆を喰ったサイロの出入り口から8歩の位置で白鹿がもういちど言った。

山姫は、

「わかってるわよ。愛なんて識(し)ってはいけない。そうでしょ?先生」

と応え、巨人は、

「わからない。でも望んじゃいけないってことはわかるんだ」

と言った。

「識っちゃいけない。誰が言った?望んじゃいけない。誰が言った?もしくは誰か言ったからどうだい?識っていいのさ。望んでいいのさ」

白鹿は月を見据える蟄眼(ちつめ)のまま、黒天鵞絨の先にある色を見るかに言った。

「でも、識ったら崩落しちゃうわ。それはだめ」

「そう、それはだめだ」

山姫と巨人は、意見合わせてそう言った。

「崩落はだめってのはなぜだい?」

白鹿は、賢者なのに疑問符だらけで山姫と巨人に言葉を繋げる。

「あたしたちは特殊な存在だから、いなくなったら困るでしょう?」

山姫がそう返すと、

「いなくなったらなぜ困るんだい?」

と白鹿はまた疑問符でそう言った。色んなことを知っているものはみんなそういう僻があるなと巨人は思った。

「山姫って存在物が崩落したらもういなくなるのよ?面白くないじゃない」

巨人は黙ったまま、山姫がそう言うと、

「形を変えて残ればいいさ」

と白鹿は、山姫と巨人に閉じたひとみを移しそう言った。山姫の山の東の端っこに実った、星の金貨と名付けられた林檎の実がひとつ、べろべろと地に落ちた。

「言ってる意味がわかんないわ、先生」

山姫はそう言ったけれど、巨人にはその意味がぼんやりとわかった。

「永く一個の形で存在しているとね、過去と未来が混ざり合うのさ。私らは存在を知覚したときから同じ様姿だろう。始めは極稀に、君らよりもずっと永く存在しているわたしなんかはもうしょっちゅうさ。今がどこだかわからなくなる。他の繁多な生命をご覧。生まれたては幼生で、成長して老いるだろう。素晴らしい刻過だ。過去と未来と現在とが完全に明確だ。過去に想いを寄せ、未来に希望を抱く、正に彼等は生きている。私らは違う。ずっと不変で退屈な存在だ」

白鹿はなんだかとても怒ったような語気でそう言って、聞いていた山姫も巨人も白鹿先生のそんな気配は見たことがなかったから、言葉を呑んで沈黙した。

「形を変えたいのさ。私は」

白鹿はそう言うと、閉じてあったひとみ瞼を開眼し月を睨んで言葉を続けた。

「あいつになりたいな。あいつになって、君たちが空を見上げる理由になれたらいい」

開眼した白鹿のひとみは、闘気とも形容すべき透明なけぶりを纏って、色を失った白眼玉が月を睨み続けていた。青みがかかった闘気は白鹿を一切にくるんで、四方八方辺り一面を音殺しの静寂へと変環させた。

「先生、月になんてなれるの?」

音の殺された世界で山姫が発した言葉は静寂のなかに一際響いて、東の端っこで林檎がもうひとつ、べろべろと崩れ落ちた。

「どうかな。ちょっとやってみるとするよ。じゃあさようなら。山姫。巨人」

白鹿は、色を失ったひとみでそう言って、まるで硝子体でできた階段でもあるみたいな足取りで、黒天鵞絨の夜空を月へ向かって昇っていった。その様子を眺めていた巨人と山姫は、白鹿の姿が月光に呑まれて見えなくなったと思った途端、それまで黄ばみがかっていた月が、全面を白鹿の毛並みのような真白に変えたのを見て、白鹿が月になったんだと感得した。

「白鹿先生、月になっちゃったわ」

山姫が真白に光り出した月を見ながらそう言うと、巨人は蟠(わだかま)りでも解けたのか窪んだ眼を重力を必要としない涙でも磔いたようにきらきらとさせながら、月を見つめていた。

「ねえ山姫。僕もあんなふうに変わりたいな」

山姫と巨人の生息している土地は、どこも夜空は満天の星空で、毎夜が穫れたての魚が鱗を光らせ並ぶ獺祭(だっさい)のようで、初めて満天の星空を見たときと同じ輝きのひとみを以て巨人はそう言った。望むことは強い意志だ。強い意志が世界を変容させるとは星が教えてくれる生命の輝きで、山姫はもう、何も言わなかった。

巨人が強く望んでから、24の呼吸が吐かれた経過ほど、満天の星々から光芒の矢が一斉に巨人に向かって降下し、巨人の岩石のような体は木っ端微塵に砕かれて散らばった。光芒が降下する直前、山姫はふわりと巫女のように空に舞い、木っ端微塵に砕けてゆく巨人を、ただ近くで眺めていた。星々が24の呼吸を待ったのは、さよならを告げるための星がくれた間隙で、砕ける前、巨人は窪んだ眼でたしかに笑っているのを、山姫は見た。

木っ端微塵に砕け散った岩石のような巨人の体屑のひとつひとつに、雲端に架かった虹が、星々の光芒震動で夜具の光波長に励起され、木っ端微塵になって火山噴水のように吹き上がりながら散らばる巨人の欠片のひとつひとつは、光波長が無限の模様と色に染めた石粒となって、春の夜の大地に光り咲いた。

「ぴかぴかね。巨人」

そう呟いた山姫は、自身の山のことごとくを平らに潰して、巨人の欠片たちを一切土の中に埋没させた。巨人の欠片が発香した、研削も被膜もされていない色石が、砕け散りながら迸(ほとばし)るなまの美は、空気に触れ酸化して色匂いを鈍く失う前に山姫の土に閉じ込められた。人間たちがそれを掘り起こして、宝石と崇めて装飾したり神に捧げたりし始めるのは、もう少し先の話。

空は月天。巨人の欠片たちに自身の色味をすべて与えた空の虹は、雲端のどこからも消え失せて夜の空に灰色を加えていた。両膝を抱え込んで14乙女らしい体勢で空の床几(しょうぎ)に座った恰好の山姫は、しばらく自分が平らに均した大地を見つめたあと、他の化物たちと同じように天高くへと昇っていった。

天の途中、ひとつ振り返った山姫が再び天へと顔を戻した際、きらりと光る青白銀の粒がひとつ、重力へ向かって零れていった。氷点下に凍てついたそれは、たぶんさよならに及んで山姫が零してくれた涙だろうと、ばらばらになったぼやけてゆく意識の中で巨人は、粒に仄かな愛を感じて、形を変えてよかったなって、少しだけ眠ろうと思った。



                    巨人と山姫

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

巨人と山姫 円窓般若桜 @ensouhannya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る