アリの恩返し

福田 吹太朗

アリの恩返し

 とある日の昼下がり。

通りの向こうから人がやって来る。

その人の名前はKと言った。本名は分からない。特にこの物語には関係はないので、というよりむしろ彼の仕事や私生活に支障が出ないとも限らないので、ここは敢えて本名は明らかにしない方が良いのかもしれない。と、いうよりそもそも彼の本名など誰も知りはしないのだ。所詮そんな世の中である。他人の事など誰も気にしない。電車の座席で、隣に座った人間の事など、誰が気にするであろうか? むしろ知られる事の方が迷惑だという事すらある。個人情報やら、コンプライアンスが何やらだとか・・・個人情報ですらもはや、肝心な時に限って、その個人本人が見られなかったりする時代なのだ。

・・・話は本筋から大きく逸れてしまったが、とにかく、K氏は夏のうだるような暑さの中、この国のどこにでも存在しているようなごくごく普通の住宅街を割と早足で歩いていた。

ふと、物陰から、

「・・・あの、もしもし・・・?」

確かに彼に対しての問いかけのようだった。と、いうのもその道には彼の他には誰も見当たらなかったからである。

彼は周辺をキョロキョロと見回してみた。人に呼びかけるには、「・・・もしもし、」などというのは何だかいささかずれているというか、古臭いというか、電話ではないのだから・・・などとなおも辺りを見渡していると、K氏の前にはいつの間にやら一人のスラリとした、しかしどちらかといえば痩せ過ぎて、顔などは骨張っていて、やや色黒で、しかしながら顔の表情はとても温和でニコやかで、とても愛想の良さそうな紳士が一人、立っていたのである。

K氏は不意を突かれて思わず立ち止まってしまったのだが、これから大事な商談があるのである。ずっと立ち止まっている訳にもいかなかった。彼はその紳士に構わず歩きかけたのだが、

「・・・あの〜、Kさんですよね?」

なぜ私の名前を? K氏は少し薄気味悪くなって・・・慌てて立ち去ろうとしたが、

「・・・あの〜〜、1週間ほど前にあなたに助けていただいた、アリなのですけど・・・。」

「え・・・アリ!?」

紳士は相変わらずニヤついていて、

「・・・そうです。アリです。」

「・・・。・・・アリって、あのアリ・・・?」

どう見ても人間にしか見えないのだが、あくまでもその人物は言い張った。依然として物腰は柔らかいままで。

「・・・あ、はい。・・・あ、ホラ、今そこにもいますよね?」

その紳士の指差した先のアスファルトの地面には、確かにアリの隊列が規則正しく、一列に並んで歩いていたのであった。

「私をからかっているんですか? ・・・ちょっと急ぐものでしてね。失敬しますよ?」

きっとこの暑さで頭がおかしくなってしまったんだろう? K氏にはそうとしか思えなかった。

「いやいや、こちらは極めて真面目ですよ? ・・・先週の金曜日、夕方の5時ぐらいですかね? T区の工業団地の辺りを歩いていませんでしたか? ・・・確かパン工場の辺りでしたかね?」

・・・まさしくその通りである。その日、その時刻頃は、まさにお得意先の元を訪れた、ちょうどその帰りの頃なのであった。場所もおそらくその辺りであったろう。・・・なぜその事をこの男は知っているのか? 私は監視されているのか? K氏はますます気味が悪くなった。

「・・・でしょ? その時・・・多分気が付かなかっただろうなぁ・・・」

「・・・一体何の事です?」

K氏はますます一層不気味な心持ちになり、その紳士の顔、特になぜなのかは分からないのだが、眉間の辺りをマジマジと見た。・・・いや、無意識にではあるが、睨みつけていたのであった。

「・・・その時、私は・・・つまりは今のこのような姿ではない時だったのですが・・・」

「・・・まさか、アリだったとでも?」

紳士の笑みはさらに顔一面に拡大して、

「・・・えぇ、ええええ・・・さすが飲み込みがお早いですね。・・・つまりはそういう事です。」

K氏はこの人物が本当に頭がおかしいのか、はたまた自分自身がこの暑さで幻覚でも見ているのかと、余計に混乱してしまった。

「・・・まあ、訝(いぶか)るのも無理はありませんね。いきなりですもんね。・・・ともかく・・・」

K氏は腕時計を見た。

「あの・・・! 急いでいるものでしてね。」

「あのぅ・・・恩返しがしたいものでして・・・そうして今日はこうして、このような慣れない格好で、あなたの前に現れたのですが・・・」

K氏は歩きかけたのだが、少し立ち止まった。何だか少し興味が湧いてきたのである。

「恩・・・返し、ですか・・・?」

その自称アリである紳士は、あくまでも爽やかに、そして相変わらずニコやかなのであった。

「・・・ええ、まぁ・・・大した事は出来ないのですがね、実のところ・・・私の力では。実に申し訳ないです。誠に申し訳ない。いや、マッタク。」

そのアリ紳士は始めから反省しきりである。なぜかK氏はこの時ばかりは、少しだけではあるが同情したりもしたのであった。

「・・・ええと、私、何かしましたっけ・・・? ひょっとしたら・・・人違いって事も・・・?」

「いやいやいや、あなたに間違いありません。覚えていないのも無理はありません。ほんの些細な事ですからね。・・・人間にとってみれば。でも私のようなちっぽけな存在、アリのような存在にしてみれば、生命に関わるような大事な事なのですよ。」

「ほぅ・・・と、言いますと?」

K氏はにわかに興味が湧いてきた。

「・・・あの時、ちょうどパン工場の前辺りでしたかね? ・・・一台のトラックが通りましたでしょ?」

K氏は必死に記憶を手繰り寄せていた。えぇと、確か・・・。

「あぁ・・・はい! そうでした・・・! 私とした事が・・・! で・・・?」

そこから先はさっぱりなのであった。

「・・・あの時私たちは・・・つまりはアリの事ですが・・・道をまさに横切っている最中だったのですよ。・・・それはまあ、私たちの不注意と言えばそれまでです。そう言われてしまえば、それで片が付いてしまうのですが・・・その時ちょうどあなたが、そのトラックをよけるように・・・」

K氏にはにわかにその時の記憶が蘇ってきた。

「ええええ、確かにトラックが一台・・・まあ、割とスピードを出して向かって来て・・・でもそのまま特に何も無く通り過ぎて行きましたね。私は確か、ごく普通に道の端によけましたがね。・・・でも、それが何か・・・?」

アリ紳士は、その時初めてだろうか? 少しシリアスな顔付きになって、ただでさえその骨張った顔に、余計に幾つもの深い皺が、まるで雪山に突然裂けて出来たクレバスか何かのように縦にクッキリと何筋か出来たのであった。

「・・・あなた方人間にとってみればただの割と速いスピードで通り過ぎた一台のトラック、で済むのでしょうが・・・ちょっと想像してみてくださいな。私たちアリは人間で言うところの数センチ、いやたったの数ミリばかりですよ? それがあの巨大なトラックとくれば・・・お分かりでしょう? 何となくは。」

K氏には漠然とではあるが、話の流れというか、事の次第が分かってきたような気がしてきた。

「・・・我々にしてみれば、あなた方にとっては巨象、いや、戦略爆撃機か航空母艦、あるいは宇宙ステーションが、猛スピードで歩いているところに突っ込んで来るようなもんです。・・・お分かりですか?」

随分と大袈裟な例えを用いるものだな、というのと、アリにしてはその博識ぶりにと、その両方に驚きつつながらも、

「え、えぇ・・・」

と、K氏は曖昧な返事を返すので精一杯なのであった。

「でも、あの時あなたがよけて、つまりはその事によって私たちの列のうち、後ろの三分の一と前を歩いていた三分の二とが、あなたの靴を境い目にして分断されましてね・・・」

「はぁ・・・」

K氏にしてみれば、頭の中で想像している通常のイメージのスケールを、頭の中で縮小しながら、必死に話についていっている状況なのであった。

「・・・前を歩いていた仲間たちはトラックの車輪の下敷きになって全員亡くなってしまいました・・・」

アリ氏は神妙になり、

「・・・しかし、後ろの三分の一は命が助かったのです・・・! あなたのおかげでね・・・! もちろんその中に私も含まれています。・・・ですからここに、私がこうして、このような姿で現れたという訳です。・・・まあ、私が選ばれた理由は、一番歳を取っているというだけなのですが・・・。」

「はぁ・・・なるほど。」

K氏は何となくは納得はしたのであるが、何しろにわかには信じがたい話である。しかもこのうだるような暑さの中の事であるし、さらには、先方との約束の時間も刻一刻と近付いていた。

・・・しかしながら、この紳士の話した事は全て事実であったし、しかもあの場にいなければ分からないような情報ばかりを克明に話して聞かされた訳である。

まあ・・・不幸中の幸いか、道に迷ってはまずいと早目に会社を出て来たので、あとほんの少しは時間が大丈夫そうでもあった。

「それで・・・あの・・・」

やはりK氏にとってみれば、「恩返し」という誰しもが心躍るであろうラッキーワードが耳にこびり付いていたのであった。

「あ、はい・・・。」

アリ氏はまたもや申し訳なさそうな表情になり、

「まあ・・・先ほども申し上げました通り、私たちチッポケなアリごときに出来る恩返しで御座いますので・・・しかしながら、巣穴の仲間が全滅するところをお助け頂いたご恩も御座いますし・・・女王アリ様もそれはそれは大層感謝しておりまして、是非ともお礼をよろしくと・・・」

「それは何よりですね。・・・私の方からもヨロシク!、とお伝えください。」

「あ、はい・・・と、いう訳ですので、この手の話で良く耳にいたしますような、立派な御殿だとか、どこかの国の大統領になるだとか、お金も一億、百億などとはとても無理なお話でありまして、せいぜい百万ほどが限界かと・・・誠に申し訳ありません・・・」

アリ氏は心から申し訳なさそうにややうなだれてさえいたのだが、当のK氏にしてみれば、今の仕事、環境で十分満足というか、充実した毎日を送っていたので・・・家は、見晴らしのいい高層マンションの最上階の部屋をつい先日、貯めた預金で購入したばかりであるし、権力者になる気などは毛頭なかったし、お金も・・・今の商談が上手くまとまれば、数千万、いや、下手をすると億を超える金額の取り引きが成立する事になるだろうし(もちろん、自分の懐に直接入ってくる訳ではないのではあるが・・・)それに比べたら、百万など、ゼロの数が、余りにも・・・。

K氏はふと、考えあぐねて空を見上げた。カンカンと暑苦しい太陽が、これでもかと照り付けている。ふと腕時計を見る。もうあまり時間はない。それにしても暑い・・・額から容赦なく汗が吹き出し、垂れてきて、眼鏡のツルに、まとわりついて・・・。

アリ氏はそういう体質なのか、一切汗などはかかず、澄ました、涼しい顔でその場にじっと立って待ち構えていた。

K氏はふいに、何か思うところがあったのか、

「あの・・・! 体の、一部を変えるとか・・・は出来るんですか・・・!?」

「まあ・・・内容にもよりますけどねぇ・・・」

アリ氏は妙に落ち着き払ってそう答えた。

K氏は、その時のK氏にはどうしてもこの暑さとタラタラと流れ出る汗の不快感が許容出来ない範囲を超えていたのであった。そして慎重に、なるべく後々まで得をするようにと考えを進め、おもむろにこう言ったのであった。

「あの・・・目を・・・視力を良くしてもらう事は可能ですか・・・?」

「あ・・・はい。それ位の願い事でしたら。・・・1.0程で大丈夫でしょうか? もちろん両目ですよね?」

「・・・一応1.2にしとこうかな? ・・・え? もちろんです。・・・いやぁ、正直申し上げますと、近眼ならまだマシなのですが、極度の乱視ときてましてね。なかなかしっくり来るコンタクトが無くって・・・かといってこの暑さでしょ? さっきからずっと、このメガネと肌の当たるらへんが気になって仕方がなかったんですよ。メガネはこれだから困る。・・・ちいちゃな願いで申し訳ありません。」

アリ氏はニッコリと微笑むと、

「いえいえ、むしろその位の願い事で正直、ホッとしているところで御座います。・・・良く分かりました。・・・しかしながら・・・」

アリ氏は一瞬僅かに動きが止まったかのように見えたが、またすぐに話し始めた。

「実は・・・ほんのちょっとだけ時間差と申しましょうか、その・・・わたくしが今の姿から、本来の姿に戻って、さらには自分の巣穴に戻らなければ、叶えられないものでして・・・」

しかし、意外にもK氏は冷静に、腕時計を見て、

「・・・それは何時間後ぐらいになりそうですか?」

「あ・・・ハイ、そうですね・・・今からキッカリ、1時間後ではどうでしょう? その方が、あなた様もタイミングがお分かりになって、よろしいかと・・・」

「あ、はい。分かりました。よろしくお願いします。・・・私は、これから重要な予定が控えていますもので。これで失礼しますよ?」

と、腕時計をもう一度確認して、取引先との待ち合わせ場所の方向へと、ようやく歩き出したのであった。

そしてふと、数歩歩いてから足を止めて振り向き、

「・・・私は、何か特別な事をしたつもりはなかったのですが・・・あなたと、あなたのお仲間の命が助かって何よりです。亡くなってしまったお仲間は・・・お気の毒と言う他言葉が見つかりません。ご冥福をお祈り致します。私もこれからは・・・地面を良く確認しながら歩く事に心がけますよ。正直、今までそんな事、一度も考えた事はありませんでしたが。・・・あなたもこの暑い中、大変でしたでしょう。慣れない姿で・・・色々と私なりにも勉強になりました。・・・ありがとうございました。」

と、今さらながら、深々と頭を下げるのであった。

数メートル向こうでは、アリの痩せた紳士がこれ又深々と頭を垂れているのであった。

もしはたから第三者がこの光景を目にしたならば、さぞや奇妙に映った事であろう。二人の大の大人が(一人は人間ではなかったのではあるが)少し離れた距離でお互い頭(こうべ)を垂れているのである。

しかし幸か不幸か、あるいはこれは真夏の暑さによるまぼろしであったのだろうか?・・・誰も目撃している者などはいなかったのであった。


・・・そのちょうど1時間後、K氏は大事な商談の真っ只中であった。ふと腕時計を確認すると、一言断って、一旦座を外してトイレへと向かった。

戻って来ると、K氏は眼鏡を外していた。

取引先の担当者は、

「アレ? コンタクトに変えたんですか?」

などと少しだけ驚いていたが、

「ええ、まあ・・・。」

などと余裕の表情のK氏なのであった。

商談が無事成功したのは言うまでもない事である。K氏は、アリという今まではちっぽけな存在としか考えてはいなかった命あるものの存在を改めて思い知ったのである。

突然視力が良くなったのは・・・まあ、きっとこの暑さのせいだろう。



終わり

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