トカゲのしっぽ
不知火白夜
第1話 漫画
小学二年生の
しかし、母親の
雄和も怒られたくないので、幼いなりに頑張ってばれないように気を付けていた。
漫画は友達の家で読むだけにして、アニメや特撮は近所の特撮好きの友達と観るだけにしていた。
双葉は怒るととても理不尽で怖い人である。当然怒られるのは嫌だ。だから雄和も前述のように気を付けていたのだが――ある時、つい、友達に漫画を借りて、家に持って帰ってきてしまったのだ。
それは男子児童向けの漫画雑誌で連載されている野球漫画である。キャラクターたちが勝利を目指して必死に練習し、試合では必殺技のような技を繰り出すといった派手な演出が目立つ健全な漫画だ。
雄和はそれを友達に借りて読み込んでいたが、いい展開の途中で帰らなければならない時間が近づいていることに気づく。名残惜しいがまた今度来た時に続きを読ませてもらおうとしたのだが、雄和の様子を見た友達がこんなことを言う。
「それ貸すよ? その試合、この巻で終わるからキリいいし」
「えっ、でも……」
別に悪くない自然な申し出だが、それを素直に受け入れることは出来なかった。友達のものであっても漫画は漫画だ。双葉に見つかるとよくない。この間も夕方にこっそりアニメを観ていたことがばれてかなり怒られたというのに、また見つかったら大変だ。でも、続きを読みたいという気持ちはあるし、見つからないようにすればいいのでは? とそんな甘いことを考える。
――漫画だから机にも隠しやすいし……多分、いけるはず……。そんで読んでるときも周りに気をつけたら……。
雄和は弟と共同で使っている部屋を思い浮かべる。2人分の机に二段ベッド、それぞれの本棚などがあり、隠せそうな場所はいくつかある。机の引き出しとか戸棚の奥とか、そういったところをいくつか考えた。
「じゃあ、今日だけ借りてもいい? 明日返すから……」
「うん!」
おもむろに訊ねると、友達は短く頷いてくれた。もう一度ありがとうとお礼を言って、雄和は急いで荷物を纏めて帰路についた。だんだん冬が近づいている頃故にか、辺りは薄暗くなりつつあった。
帰宅後は急いで机の引き出しに漫画を隠した。自分の机で宿題をしていた弟の
自分が当番になっている家事をして、父親が主となって作ってくれた夕飯を食べる。その頃には双葉が仕事から帰ってきたので普段通りを心がけながら話をし、宿題があるからと部屋に戻る。
部屋に行くと、燕が机に向かって読書をしていた。手にしているのは幅広い世代に人気の児童文学シリーズ。雄和も読んだことがあるし、面白いとは思ったが、漫画を読んでいる方が好きだった。
――多分、漫画じゃなかったら変わった話でも、怒られないんだろうなあ。
漠然と考えながら、机に向かった雄和は漢字のドリルを開いた。
数十分後、宿題を終えた雄和は部屋の外を確認してから、友達に借りた漫画を手にする。燕は少し前に風呂に入ると言っていたため、すぐには部屋に戻ってこないはずだ。双葉だけでなく、父親や他の兄達に見つからないように気を張りつつ、ページを開いた。
そこから、雄和は漫画に熱中していた。主人公とライバルの駆け引きやチームメイトの葛藤、派手な演出の技、そういったものにぐいぐい引き込まれて、いつの間にか、周りの声が耳に入らなくなっていた。
だから気づかなかったのだ。いくら呼んでも雄和が返事をしないことに苛立った双葉が、部屋に向かってきていたことに。
「雄和! さっきから何回も呼んでるでしょ! 返事くらいしなさい!」
大きな声と共にノックもなしにドアが開く。その音で漸く現実に引き戻された雄和は、びくりと肩を跳ねさせた。顔を青くしながら慌てて漫画を閉じ、体の前に隠す。
おそるおそる首だけを後ろに向けると、そこにはあからさまに不機嫌そうな双葉が立っており余計に血の気が引いていく気がする。
――しまった、漫画に集中しすぎた……どうしよう。
緊張や恐怖により心臓の鼓動が激しくなっているのを実感しながら、できるだけ普段通りに言葉を返す。
「ご、ごめんなさい、お母さん、気づかなかった……えっと、なんだったの?」
「……雄和、あんた今何隠したの」
「――っ」
冷ややかな声が耳に届く。明らかに怒っているとわかる低い声だった。
雄和は漫画を持っていることがばれていると直感したが、できるだけごまかしたかった。見つかったら怒られるし、何をされるか分からないことも怖い。
――やっぱり借りなきゃよかった……。
今更過ぎることを考えながら、雄和は短く息を吐き双葉の前に立つと、小刻みに震えた手で漫画を差し出した。ごまかすことも考えたが、そんなことが通用する相手ではないし、そのごまかしや異変を見逃してくれる相手でもない。
「……ご、ごめんなさい……すみません、どうしても、読みたくて……」
思わず俯いた雄和の謝罪はだんだんと小さくなり、最後の方は殆ど発せられていなかった。双葉は目を丸くした後、漫画を手に取り装丁をまじまじとみつめたあと、一旦目を閉じる。そして、顔を上げさせ、なんの躊躇もなくその頬を力強く叩いた。嫌な音が響いて、叩かれた頬が赤く腫れる。
「……う」
思わず泣きそうになるが、それをぐっとこらえて双葉を見上げた。その先には、鬼のような形相で雄和を睨みつける彼女がいた。その視線の鋭さに、思わず身震いする。
「ご、ごめんなさい……」
「和室に行ってなさい」
「え、あ、はい」
説教でも罵倒でもない言葉に動揺するが、これはつまり『取り調べをするから大人しく待っていろ』ということである。頭が真っ白になっていく感覚を覚えながら、震えた足で階段を降り、和室の適当な位置に腰を下ろす。
綺麗に片付いた和室で、秒針の音を聞きながら、雄和はまるで死刑執行を待っている囚人のような気持ちでいた。
雄和の頭にあるのは後悔と、恐怖と、友達に対する申し訳なさである。
――僕はいっぱい怒られても仕方ないけど、でも、漫画だけはちゃんと返せるようにしないと……そのためにどうしたらいいんだろ……お母さん許してくれるかな……。
――ほんと、なんで借りてきたんだろ、それに、熱中しすぎたらだめじゃん……。
不安でいっぱいになりながら待っていると、漸く双葉が和室に来た。体感としては何十分も待っていたような感覚だが、実際には恐らく数分だろう。なぜこんな風に待たせるのかは不明だが、双葉が目の前に来た以上、余計なことは考えてはいけない。目の前の相手に意識を向けることにした。
雄和の前に不機嫌そうに正座をした双葉は、雑に漫画を畳の上に置いた。冷たい声が耳に届く。
「なんなのこれは」
「……ごめんなさい」
震えた声で謝罪を口にすると、僅かに眉間にシワを寄せた双葉に頬を打たれた。
「誰が謝れって言ったの。もう一回聞くけど、なんなの、これは」
更に赤くなる頬を手で押さえながら、雄和はぶたれた理由を理解し慌てて言い直す。
「……友達に借りた、漫画です。野球漫画です」
「そう。友達に借りたの」
「……そう、です」
双葉は雄和の返答にひとまず納得したのだろう。今度は手をあげずに会話を続ける。
「友達って誰に借りたの」
「同じクラスの、
「下の名前は?」
「
「そう。どのあたりに住んでる子?」
「えっと、学校近くの、
「ふぅん」
――なんでそんなこと聞くんだろう。
てっきり感情的に怒られるとばかり思っていたため、あれこれ聞かれると逆に怖くなってしまう。一応雄和の弁明を聞いてくれるつもりなのか、それとも、そのクラスメイトのせいにするつもりなのか、なんなのか分からないが、沈黙の中、雄和は双葉の言葉を待つ。余計なことを言ってぶたれてはかなわない。
双葉は黙って和室を出て、少しして戻ってきた。手にあるのは連絡網に使うクラスの名簿。確かにそこには雄和が口にしたクラスメイトの名前があるが、それを一瞥したあと、双葉は短く溜息をつくと、信じがたいことを口にする。
「……それで? この中尾って子のせいにして怒られないようにしたいってわけ?」
「……へ?」
「何よその反応。質問に答えなさい」
「いや、え、そんな、そんなこと……」
双葉の質問に、雄和は目を丸くして、思わず妙な声を上げる。『お母さんはなにを言っているんだろう』――そんなことを考えて、思わず口ごもる。
――中尾のせいにしたいってことって、なに? 僕の言うこと、信じてないの?
目の前で、双葉が何か言っているが、耳に入ってこないほどに衝撃を受けながら、雄和は思わず顔を伏せる。確認程度に聞かれるならともかく、最初から決めつけるような物言いに、雄和は更に怖くなった。フルネームを聞いたのは、連絡網で確認するためだったのだろう。自分が口にしたクラスメイトの存在すら疑われていたことなのだろうか。そう思うと、恐ろしくて仕方ない。
すると双葉の怒号が耳を貫き、慌てて顔をあげた。当然だが、母は見るからに激怒している。
「雄和、私の話聞いてた?」
「……あ、ご、ごめんなさい、聞いて、なかった、です」
殴られるだろうなと思いながらも、か細い声で言葉を返したら、案の定ぶたれた。同級生相手でも殴られたら痛いのに、成人男性の平均身長よりずっと背が高く、結構力持ちな双葉に殴られるのはものすごく痛い。頭がじんじんと痛みを訴えるが、何とか涙は堪える。
気が立っていることを一切隠さない双葉は、畳に置かれた漫画を叩いて口を開く。
「適当なごまかしは通用しないってわかってるでしょう。正直に言いなさい」
「……いえ、あの、本当に友達に借りたものです」
「こんなくだらないことにお金使ってんじゃないわよ。どこで買ったの、いつ買ったの、レシートなりなんなり出しなさい」
「ありません、友達の漫画なので、ありません」
「正直に言いなさい」
「正直に言ってます。なんで、信じてくれないんですか」
思わず泣きそうな声で訊ねると、双葉は心底嫌そうに表情を歪めたあと、声を荒らげる。
「私の言うこと全く聞かないのに、こういうときだけ信じてもらえると思ってんの?」
予想だにしていなかった言葉に、雄和は思わず硬直する。
確かに雄和は母の言いつけを守らないことも多かった。こっそり漫画を買ったこともあるし、アニメを観ていたこともあるし、その話をしたことだってある。母である双葉が毛嫌いするものを何度も楽しんでいたわけだ。見つかって怒られて、場合によっては捨てられて。そういったことを何回か繰り返しているのに、今回のようにまた同じようなことをやっている。だから、雄和の言っていることが、怒られたくないための嘘のように思えて、信用できないという。
更に双葉の話は続く。
「そもそも、これが借り物かそうじゃないかなんてどうでもいいのよ。こんなもの読んでる暇があるなら勉強しなさい! ただでさえあんた国語の成績酷いんだから。誰々の必殺技がどうとか覚えてる暇があるなら一つでも漢字を覚えたらどうなの」
「……はい、ごめんなさい」
「これでクラブの成績がいいとかならまだましなんだけど、他の子と大してタイムも変わらないし。背は高い癖になんにも活かせてないし。こんなくっだらないことに現を抜かしてるからダメなのよ!」
「……ごめんなさい」
怒りと呆れが混ざったようなとげとげしい声が雄和に突き刺さる。聞いているだけで辛いし身が縮こまる思いになる。悪いのは自分であると理解しているが、泣きそうになってしまう。
それでも、漫画だけはちゃんと返してもらいたかった。信用されていないらばそれはそれで諦めるが、なんであれそれはクラスメイトの中尾のものだ。今まで自分の小遣いで買った漫画を捨てられたことがあるが、もしこの漫画を捨てられてしまっては困るどころの騒ぎじゃない。クラスメイトとの仲に亀裂が入るのは確実だろう。何でもするから捨てないで、とそこだけは抵抗すると決めていた。
正直、それを口にするのは怖い。また怒鳴られるかもしれない、殴られるかもしれない。それでも、その漫画はクラスメイトのものである。名前は書いてなくても、それは紛れもない事実だ。
胸のあたりが痛むことや、長時間の正座により足がしびれているとか、体が震えて居るとか、そういったことに気を取られている場合ではない。
双葉に対する怯えなんとか取り払って、雄和は、恐る恐る顔をあげた。
「お母さん、あの――」
その時、書物が破れる音が響き、どさ、と何かが畳の上に落ちた。
え、と短い声を零して落ちたものを見つめる。そこにあったのは、先程まで畳の上で鎮座していた漫画の単行本――の、半分。主人公が特訓の末に身に着けた派手な技を使った大ゴマが見える。
何が起きたか理解ができなくて、いつの間にか立ち上がっていた双葉の方を見上げると、母は、単行本のもう半分を手にしていた。
それを見た雄和は、漸く、漫画が破られたのだと理解して、今まで堪えていた涙をぼろぼろ零しながら思わず叫ぶ。叫んで、畳に置かれた半分を凝視して、蹲って悲鳴のような声を上げた。うるさいと怒られたが、怒られたことよりも破かれたことが信じられなくて、怖くて、混乱した頭で双葉を見上げる。
「なんで、なんでやぶくの、なんで……」
「あんたが学習しないからよ」
「でも、それ、っ、なか、なおの……ぼくのじゃ、なくて、なかお、の……」
「もうそれいいから。いつまでもそんなくだらない嘘ついてないで、反省しなさい」
「だって、でも、それ、っ、なんで、なんで、なんでぇ……」
双葉の手から離れたもう半分がさらに破かれて目の前に叩きつけられる。ページはビリビリになっていて、復元は困難だろう。
テープで張り合わせたら何とかなるだろうか? いや、そんなレベルじゃないし、テープで貼り合わせるのは良くないし、仮に何とかなったとしてもこんなの返せない。
破かれたページが畳の上に広がっている。少し前まで読んでいたシーンや、まだ読めていなかったシーンの切れ端に、涙がぽたぽたと落ちて滲んでいく。
自分の漫画が捨てられた時もとても悲しかった。でも、それ以上に、どうしようもない後悔と絶望と、クラスメイトに対する申し訳なさとでぐしゃぐしゃの感情を抱え込みながら、殴られたときよりひどい胸の痛みを感じながら、そこで暫く泣いていた。
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