第4話

 朝の太陽光が窓から指す頃には、二人とも出発の準備を進めていた。ニービスは少し落ち着きが無く、先程ベッドに小指をぶつけていた。一〇秒丸テーブルに手をついては、ぶつけた方の足を床から離していた。

「師匠らしくないですね。何かあったんですか?」

「いや、三日前に蘭舞がここを立ち寄っているって情報を聞いてな。今頃は鍾乳洞にいるんじゃないかと思って、急ぎたいんだ」

「でも今から出発したとして、馬車を使っても丸二日は掛かりますよね? どうやって追いつくんですか?」

「一つだけ、手段はある」

 人差し指をぴんと立てて、ニービスはさらに続けた。

「空を使うんだ」

「空、ですか?」

「私の知り合いに鳥類を飼育する奴がいてな、ヴェティを囲む森を抜けた先で牧場を経営してるんだ。まあ会えたらの話だが」

 当てにならないニービスの口達者に溜め息しか出なかった。きっと会えなかった時のことは考えていないのだろう。

 階下の食事処では、開店前の清掃が行われていた。昨日のカウンターの女性が居たもので、挨拶を交わした。

「昨日は世話になったな」

「いえ、こちらこそ。お弟子さんがシチューを美味しそうに食べていたものだから、私まで嬉しくなっちゃいました」

「また食べに来ます」

 オルヒデアはにっこり笑顔でカウンターの女性と言葉を交わす。カウンターの女性は何かを思い出したかのように裏へ行き、包みを渡した。

「お二人が部屋へ戻られた後に作ってみたんです。よかったら旅のお供にどうぞ」

「助かるよ」

 カウンターの女性は宿屋の入り口まで二人を見送った。先程貰った包みを大事に抱えるオルヒデアを見て、ニービスは、まだまだ子供だな、と思いながら道を急ぐ。

 通り雨で水を吸った水だが、不思議なことにそこまで泥濘は無く、まだ歩きやすかった。新緑を撫でる風が火照った体を涼め、思った以上に森を早くに抜けられそうだった。上り坂の後の下り坂は足に答え、痺れて感覚が無くなる程歩いた頃、ようやく森を抜け切って開けた場所に出た。

「見ろ、オルヒデア!」

 ニービスの声の先に目をやると、そこには大海原のように広がる清々しい青い空と綿雲。そして爽やかな黄緑が広がる草原。まさに何もない大自然が広がっていた。

「あの奥に見えてる山岳地帯の西側に、サングイ・フラトゥリス海がある。そこで海水を箱庭に入れて、鍾乳洞にいるあいつに届ける」

「その前に、師匠のお知り合いさんを見つけないと、ですね」

「そうだな」

 再び、草木が無い砂利道を歩き始める。オルヒデアは時折花を見つけると、いくつか摘んできた。

「師匠。この花、箱庭の飾りにどうでしょうか?」

 根っこから抜かれた小さな青い花と、それより少し大きめの橙色の花をニービスに見せた。

「あーあ、根っこから抜いちゃって……。でも彩は少しでもあった方がいいな。よし! これを小さくして箱庭を飾ろう」

 ニービスはその場で箱庭の包みを解き、オルヒデアの持つ花をその横に置かせた。そして胸元のポケットから眼鏡を取り出した。花の真上で空中に何かを書くと、花は一瞬にしてミニチュア模型のような大きさに変化した。眼鏡を外して花を隅に飾ってやると、オアシスのような風貌を纏った。

「うむ、我ながら上出来」

「すごい……そんなこともできるんですね!」

「この拡大鏡も、私が開発したんだ。脈の一部を拡大して性質を書き換える。これによって色を変えたり、大きさを変えたりすることができる」

「じゃあ、僕の身長を伸ばすこともできますか?」

「残念ながら人体実験はやっていない。お前が実験台になってくれるなら、試してやってもいいぞ? フフフ」

「え、遠慮します」

 怪しい笑みを浮かべながら迫るニービスに、オルヒデアは恐る恐る答えた。

 箱庭を包み直して先を急ぐ。上空に何かが通ると風が一瞬強く吹いて、オルヒデアは荷物を支えきれず尻餅をついた。上空を通った正体はとても大きな鳥だった。

「あいつだ! 丁度帰ってくるところみたいだ。ほら行くぞ!」

「ああ、待ってくださいよ、師匠!」

 唐突に走り出すニービスと、それを追いかけるオルヒデア。一心不乱に鳥を追いかけた先には柵で囲われた牧場があった。看板には『レーニス牧場』と書かれていた。ぶら下がっているドアベルを煩い程鳴らすと、優しい顔つきの男性が走ってくるのが見えた。

「誰かと思ったらニービスじゃないか! 久しぶりだな。大学以来じゃないか?」

「そうだな。レーニスも元気そうで何よりだ」

 ニービスの方を何回か叩くレーニス。余程嬉しいのか、笑顔が絶えなかった。

「レーニス。嬉しいのは分かるが、痛いぞ」

「ああ、すまんすまん。動物たちの世話をしている内に筋力がついて、力加減が分からなくなってきてさ。でも珍しいな。お前、クアに住んでるんじゃなかったのか?」

「ちょっと野暮用でな。それで、お前の鳥でサングイ・フラトゥリス海へ運んでほしい」

「それはいいが、今散歩から帰ってきたばかりなんだ。少し休憩がほしい」

 ニービスは一言、分かった、と言い、その間は牧場を案内してもらった。オルヒデアは動物たちに囲まれてじゃれ合い、ニービスはレーニスと温かい紅茶を啜りながら雑談を楽しんでいる。暫く会話を楽しんだ後、レーニスはエディと名付けられた大きな鳥を引き連れて二人を籠に乗せた。

「さあエディ、サングイ・フラトゥリス海へ向かってくれ」

 大きな翼を雄大に羽ばたかせ、気流を掴んだ後はとても早く感じた。オルヒデアは空から見下ろす大地に目を輝かせ、レーニスに声を掛ける。

「すごい! 毎日空を飛んでいるんですか?」

「いや、天気が良い日だけさ。雨の日はこいつもしょぼくれて、一日中寝てる。昨日の通り雨で飛べなかったから、こいつも大はしゃぎさ。な、エディ?」

 大空に響き渡る鳴き声は、とても嬉しそうに感じられた。下を見ると、手を振る通行人がいたり、野生の獣たちが走っているのが見えた。そんな空の旅は、あっという間に終わってしまった。

「帰りはいいのか? こいつだったらクアまで飛ばせるぞ?」

「考えておく。ありがとう」

「今度またゆっくり話そうぜ」

「ああ、そうだな」

 二人の間を割って入るように、オルヒデアはレーニスにお礼を言う。

「レーニスさん、空の旅、楽しかったです!」

「またいつかおいで」

「はい!」

 レーニスを見送った後、サングイ・フラトゥリス海をの砂浜に降りる。ニービスはまたしてもオルヒデアに指示し、マトゥラック海の時と同じように海水を掬って見せた。一度だけではまだ緊張しているように見えたが、どこか安心感もあった。

「さすがに昨日の今日で、少しは慣れたか?」

「そんな簡単に言わないでくださいよ……」

 後始末まで済ませると、オルヒデアは石の階段のところに座り息を整える。その間にニービスは箱庭のオブジェクトを整理する。突然、オルヒデアが反り返って空を見上げると、ニービスに質問する。

「師匠、なんで心を持つ者たちは、こうやって自然を箱の中に閉じ込めるんでしょうか」

「らしくないな」

「何となく思ったんです。自然って時間の中で生死を繰り返すからこそ美しいものだと。それを僕たちエルフや人間の手を加えて、永遠のものにしてしまうのは、傲慢じゃないかって」

「ふむ。確かに自然を摘み取って箱の中に『永遠のものとして納める』のは、実に傲慢的かつ私たちの欲望を満たすだけの最低な行為かもしれない。けれど、それでお前は生きることに対して満足できるか? 毎日同じように、朝起きて、食事をして、仕事をして、風呂に入って、寝る。単純なルーチンワークに、お前は満足できるか?」

 オルヒデアは首を横に振った。

「それだけで満足できるなら、僕は今頃、店に籠もって修理をしていると思います」

「そうだろ? お前は優しいから、そういう考えができる。でも『犠牲』で成り立つのが世の中の常というものだ。美味しいものを食べたければ、一生懸命育てては殺し、綺麗なアクセサリーを作りたければ、金属を溶かして形を変える。髪の毛だって整えなければ見窄らしい姿になる。そうやって『心を満たす』ことは、実は残酷なことなんだ。まあ、要するに、生物に対する犠牲は残酷だということだ」

「なんか、嫌になりますね」

 ニービスは箱庭を仕舞って、オルヒデアの横に座る。湿っぽい雰囲気を飛ばすかのように、ニービスは笑顔になって言葉を続けた。

「じゃあ、おまじないを教えてやろう」

「おまじない?」

「謝罪と感謝を忘れないことだ」

「謝罪と、感謝?」

「そうだ。口に出さなくてもいい。心を持つ者たちが何気ない時間を過ごすことができるのは、彼らに生かされている。だから例外なく、彼らも讃えられるべきなんだ」

「――なるほど!」

 オルヒデアはニービスの笑顔に釣られて、にっこりと笑った。

「さて、あまりのんびりもしてられない。もうすぐ日も暮れ始める頃だ」

「行きましょう! せっかく箱庭も、二つの海が集まったことですし!」

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