第一章 遭遇ー16
伽月は重苦しいため息をついた。あたりはもう早い初冬の夕闇に沈み、兵舎の最奥、比較的暖かい彼の部屋にも冷気が染み渡ってきている。けれど、少し立って、そば近くの暖炉に火をくべる気になれない。彼は薄暗い部屋に座したまま執務机に沈むようにして頭を抱えた。また重いため息が零れ落ちる。
セーラの一件は朝方すぐに宰相から王の耳に入り、国の上層部は知ることとなったが、拐われたセーラ探索の命は出なかった。王が不要と判じたのだ。セーラの父の怒声にも似た猛抗議がいまだ耳に残っている。しかし、王は意を翻さなかった。
伽月は進言する前に王に遮られ、王都及び王城周りの警備の見直しと強化を命じられた。軍務卿へも地方から兵や部隊を呼び戻すよう命がくだっていた。王は外部の脅威を明確に意識している。
確かに、警備の厳重な宰相邸に入り込み、その娘を拐うなど、そう容易く出来る芸当ではない。手練れた者、それも単身ではなく組織的な力を疑うのは道理だ。だが、あくまでもこの件は、宰相の娘の誘拐ではないのだろうか。城下の警護体制に誘拐を許す不備があったと咎められればまさしくその通りであり、なによりそれを深く恥じ後悔もしているが、誘拐事件を明らかな国防強化へと結びつけるのは、飛躍しすぎに思えた。警護兵を増員する。巡回を増す。それは治安を維持のために必要だろうが、王城周りの警備増強の命は、そのあとに続いた詳細を聞けば、明らかに侵略を想定しての指示だった。
(セーラは、拐われただけではないのか……?)
犯人から残されたのは、ナイフに刺された紙切れ一枚。意味のない文言しか書かれておらず、宰相へ金銭の要求もなければ、国へ罪人の解放を求めるような声明もない。何を目的に拐ったのかすら、皆目見当がつかないのだ。
それは、もしかしたらという最悪の想定すら否応なく思わせる。もうすでに、彼女は無事ではないのかもしれない――それが過っては消えない。
伽月は握り合わせた手のひらをその爪が白むほどきつく結んだ。彼女が万一でも、冷たくその身を打ち捨てられていたらと思うと、心が凍り、目の前が怒りで揺らぎそうになる。もう二度とあの弾む声に、あの溢れる笑みに、この手が届かないというのなら――
(こんなところで、俺はなにをしてるのだろう……)
心が焼け切れそうに痛みに騒ぐのに――彼は、その席を立てずにいた。
自分でも驚くほど冷静に王の命令に応えて指示を出し、報告を受け、慌ただしい兵団長としての一日を終えた。どこか他人事のように自身の働きを見つめながら、いまここに座して動けずにいる。
すぐにでも彼女を探しに行きたいが、行けないのだ。立場と責任がある。それが振り払えるほど、身軽でも幼くもなくなってしまった。
(すべてを投げ捨ててでも……そう、思っているはずなのにな……)
国を飛び出た弟を思い起こして、乾いた笑みが漏れた。立つ位置も背負うものも違うが、情動のままに行動を起こした姿が少し眩しく胸を刺す。
そこへ、静寂を破って扉を叩く音が重く響いた。どうぞ、と虚ろに許可を示せば、それを開けたのは思いもかけない相手だった。
「母上?」
とっさに席を立って出迎える。だが、差し出された息子の手はとらず、彼女は長い衣装の裾を引き、黙したまま長椅子のひとつに腰かけた。
結い上げた長い髪は彼と同じ赤茶色だが、目尻の上がった大きな瞳は、伽月とは対照的にきつい印象を与える。事情を知らない者なら、そちらは弟さんが似て、というかもしれない。けれど、彼の両親と透夜に血の繋がりはない。
透夜は、ある日母がどこからともなく引き取った養子なのだ。大切な方からの預りものとの話だったが、それ以上のことは、聞くことも探ることも、彼の家では暗黙のうちに禁じられていた。だから伽月にとって透夜は、ある日突然弟として引き合わされた謎の子だった。初めて会ったのは伽月が十で、透夜が五歳ほどの頃だっただろうか。暗い目で、すべてを拒む顔つきで、ずっと泣きそうに彼は伽月や父母を睨んでいた。
取っつきにくいと思った。出来れば、もっと楽しい相手と遊びたいとも感じた。けれども、年長者として、兄の務めとして、彼へと声をかけ続けたのだ。それに不器用ながら親しみをのぞかせて、彼が応じるようになってきたのは、どれくらいした頃だったろうか。覚えてはいないが、いつしか後をついて歩くようになった弟に、初め責務として接していた少しの決まり悪さと、それ以上の嬉しさを感じるようになった。透夜と父母との折り合いは悪くはなかったが、両親は伽月に任せることにしたのか、彼と積極的に関わりを持とうともしなかった。それもあって、自然、家族の中では兄さん、兄さんと伽月を拠り所として慕うようになっていた。そうして彼は本当に、伽月の可愛い弟になったのだ。
伽月について回ってくるせいで、気づけば彼の幼馴染であるセーラにも友達として補足され、その顔立ちからよく彼女のドレスの着せ替え人形にされて、顔を赤くして怒っていた。それも、いまとなってはとても懐かしく、暖かな記憶だ。ふたりとも彼のそばにはいないという現状が、それゆえ余計苦しく、伽月の胸にのしかかる。
「母上、このようなところまでどんなご用ですか?」
口を開かぬまま、正面を見据えるようにして彼を振り向かない母に、戸惑いながら伽月は問う。
セーラの一件で、安全のため護衛兵も詰める城へ夫に呼び出される貴族の妻子も多くあった。なので、母が城にいること自体に不思議はない。だが母は、城に滞在する折はたいてい夫とともに割り当てられた居室におり、伽月の部屋まで赴くことはほとんどなかったのだ。
「先ほど、宰相殿の元へ参りました」
重苦しく降る沈黙に、所在なく立ち尽くしていた伽月へようやく声がかかった。
「此度のあなたの不始末を詫びましたが、とても許せる失態ではないとお思いです。明日、明後日にも宰相殿の名で、今回の警備不行き届きの責をとるため、正式に護衛兵団長の解任と国外退去を命じられるでしょう」
告げられた言葉に、伽月は静かに目を見開く。先の弟の件に引き続いての不始末だ。処罰がないとは思っていなかった。むしろ、望んですらいた。しかし、それほど重い処遇となるとは予想だにしていなかった。不満ではなく純粋な驚きに襲われ、思考が追いつかない。
「国外退去、ですか……?」
「ほぼ決まったも同然のこと。覆すことはあなたの父上でも出来ないでしょう。ですから――もうお行きなさい」
問い直す伽月を母はなお、見ようとはしない。彼の位置からはかすか横顔が窺えるばかりで、その表情は灯をともしてすらいない部屋の暗がりに影となり、ようとしてわからなかった。
「必要なものは揃えたつもりです。外に馬とともに用意があります。廊下に連れてきた従者を待たせていますから、彼に案内させなさい」
「それは……その、母上にはお手間を取らせましたが……」
口ではその場しのぎに適当に返答を紡ぎながら、伽月はあまりの事の進みの早さを訝しむ。宰相の命には、自身への処罰というのを差し引き、客観的に見てみても、公的な判断とは言い難い部分があろうし、それを抵抗なく受け入れる母の対応も違和感を拭いきれない。彼女は家の格式を重んじ、不名誉を嫌う。そもそも、先にその話をしたばかりといいながら、もう支度を整えているというのはどういうことだろうか。
(むしろ最初から、出ていくことありきの――……)
伽月の戸惑いを母はどう受け止めたのか、動かぬ息子にその背は言葉を重ねた。
「あとのことが気がかりなのならば、心配はいりません。副兵団長にあなたのいなくなったあとも滞りなく事を進められるよう、宰相殿からも我が家からも助力いたします。軍務卿にも必用とあらばお力添えいただきます。ですから、もう、お行きなさい」
冷たく響いていながらふと最後は乞い願うように、かすか切実さを滲ませて、それは消えた。
ああ、なるほど、と伽月は優しく苦く微笑む。いつでも持てるよう備えている剣を取り、外套を羽織る。
母が随分と不器用な人なのは知っていた。あまり表に感情を出すのをよしとせず、いつもどこか一歩引いて家族を見ていた。けれど、その視線に、たまに伸べる手に、抑えきれない愛情が溢れていた。家の名誉を重んじるのも引いては家族のためだ。
距離をより意図的に取っていた透夜へも、それは同じだった。いつだったか、まだ幼い彼が流行り病で寝込んだ時、気遣わしげに彼の部屋の前を理由をつけてうろうろしていたのを伽月は知っている。その時の表情は、誰かの預かりものを案じる顔では断じてなかった。
母のその不器用さに気づいたのは伽月とて大きくなってからであったし、透夜はしかとは気づかぬまま国を出たであろう。けれど、彼がなんだかんだと家に留まり、父母と顔を合わせて食事を取り、日々を過ごしていたのは、母から滲むなにかを感じ取っていたのかもしれない。
「セーラ殿を見つけられましたら、宰相殿に顔も立ちますでしょうか? その時には、恥ずかしながら、戻って参ります」
柔らかに、伽月はそう母の背に声をかけた。
宰相へと話を通して、あとの憂いなく行ってこいと母は伝えているのだ。考えてみれば、宰相方とてそれは願ってもない申し出だったろう。王はまるで彼の娘へ目を向けなかったのだから。伽月が旅立つ表向きの理由を整えるのに、力を惜しまないはずはない。そうした方々の思いをしかと受け取ったと、これで母に伝わるだろうか。
「宰相殿に、顔は立ちましょうが……戻らずとも、よいのです。そのまま、どうか――……」
「母上?」
震えた彼女の声を訝しめば、母は首を振るった。
「いえ……お行きなさい。すべて、すべて終わるまで、決して戻ることのないように」
ようやく伽月を見て、彼女は告げた。祈るように、縋るように――そこには、伽月が汲み取れたと思った以上のものが潜んで見えて、不安がふと彼の胸を過っていった。しかし、それを掬い取ることを彼の母は許さないだろう。
「母上も、どうぞ――お変わりなく」
せめてもの心からの願いを込めて伽月は母の手を取り、その指を飾る家紋の入った指輪に唇を落とした。母の無言に微笑み、静かに背を向け、部屋を出ていく。
扉の閉まる音と、少し言葉を交わして従者と遠退いていく気配に、彼女はほっと体の力を抜いた。
あなたこそどうか変わりなく、と、なんの立場で返せただろう。息子の愛しい人がなんのために消えたか、いまこの国で彼女だけが知っている。宰相の気持ちを利用し、息子の思いを惜しみなく使って、彼を国から追い出した。その真意は、彼が立場に囚われずにセーラを探しだせるためでは、決してない。
(――この国は、もう終わってしまうから……)
この騒ぎで貴族の妻の多くが城に呼び集められた。おかげで、城内にその姿があることを不審がる者はいなかった。彼女の身分もあり、動き回ることを咎める者もほぼ皆無だ。普段邸にいる貴族の妻が城にいることさえ不自然ではなければ、外への守りの備えにただでさえ慌ただしい城内で、動くことは容易かった。
城の奥、はるか階下へ繋がる扉は、魔法に守られているのをいいことに、重要な場所と悟られないよう警備はない。託された術式を用い、扉を開き、結界の核へと辿りつき、それを正しく壊す。
多少時間はかかったが、驚くほどそれは呆気なく、邪魔ひとつ入ってはくれなかった。
この国を守っていた結界はもう壊れた。
大切な人のために、それをしないという選択を彼女は選べなかった。だから、せめてもと、息子を国外へ逃がしたのだ。
(大切に、愛していながら……出来なかった……)
最初から、そのためにこの国へ嫁いできた。帝国との国交の中で他にも幾人かスティルの貴族たちと縁を結んだ者はいるが、それは疑惑の目を分散させるために過ぎない。この任を与えられ、知るのは、彼女だけだ。いつか時が来たらと命じられた。体の芯に刻みこむようなその命に抗えるほど、強くはなれなかった。
そっと彼女は顔を覆う。その時、ふと、ノックもなしに扉が開いた。驚いて振り返れば、先に送り出した息子とよく似た穏やかな黒の瞳を微笑みに象って、彼女の夫の姿があった。
「先ほど、外へと向かう伽月の姿を見かけたよ」
「そう、ですか……」
歩み寄って、彼は彼女の隣へと腰掛けた。その顔を見ることが出来ず、彼女はうつむく。
「――ずっとね、貴女には何かあると思っていたんだ」
自身を見ない妻を気にせずに、穏やかに彼は口を開いた。身を固くした彼女に、優しく続ける。
「いまも、それがなにかは分からない。ただね、随分と頑張って、距離を取られているな、とは思っていたんだ。最初は政略結婚だったからかと思っていたが――それはきっと違ったね」
それは彼の言う通りだった。初めて引き合わされ、出会った時から、その柔らかな瞳に心を許してはいけないと、務めゆえ、いつかそれを傷つけることになるのならと、ずっと離れようとしていたのだ。それなのにいつも静かに寄り添うようにいた彼に、とうに無駄なことだったと、気づきかけてはいたのだが――。
「なんとなく、いま告げておいた方がいい気がしてね」
部屋に満ちた冷たい冬の空気を溶かすように、彼が笑んだ気配が感じられた。
「私はきっと、この先なにがあっても、貴女の隣にこうしているのが大好きだよ」
彼女は弾かれたように彼を振り仰いだ。その頬に伝った涙をそっと拭われ、年甲斐もなく、まるで幼い少女にするようによしよしと頭を撫でられて、彼女はたまらず彼の胸に顔を埋めた。
(どうして……出来なかったのかしら……)
彼の服をぎゅっと子どものように握りしめる。
(こんなにも、貴方を慕ってやまないのに――)
押し寄せる後悔を噛み締める。それでもいまなお、抗う決断ができたとは思えないのが虚しかった。ただ、せめて――
「私も……こうしているのは、嫌いではありませんでした」
それだけは伝えておこうと、ようやく彼女は、長い間秘め続けた言葉を唇にのせた。
凍てついた冬の三日月が、ゆっくりと空から王都を照らし出していた。
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