第一章 遭遇ー7
「魔法がどのようなものか、か?」
「うん」
埃まみれになった服を脱いで身体を拭い、前の宿からこっそり引き払ってきた荷物にあった寝巻に着替えて、二人はいつでも眠れる体勢となっていた。しかしそれぞれの寝台の上に座り込んでの思いつくままの会話はずいぶんと長くなり、それはいつしか、魔法の話題へと及んでいた。
「魔法って、存在は知ってるけど、どこか遠い国の話みたいなもので、具体的なことはなにも分からないの。スティルは魔法なんて縁もゆかりもない国だったし、もしあの国に魔法使いがいたとしても、私が住んでいた地域は、そんな人がいるはずもない所だったから」
はるか昔に栄えていたとされる不思議な力。その隆盛時の話などは、衰退の一途をたどるいまとなっては、もはや夢物語のように響きさえする。例えば翼をもって鳥のように空を飛ぶ一族がいただとか、国ひとつをひとりで守りきる魔法使いがいただとか、魔獣と呼ばれる、人とは違う強い魔力を持つ種族が、平気で同じ大地を闊歩していただとか――。
遠い時代の魔法の遺物や魔法使いと呼ばれる者たちはいまだ存在するが、力の規模がもはや比べるべくもなく、まったく違う。そして、そんなささやかな魔法の残り香さえ、いままでのユリアの生活には縁がないものであった。おそらく、いまの世の多くの人々も彼女と同じだろう。
「ふむ……魔法の基礎も知らぬということか」
「うん。さっぱり」
そもそも基礎もなにもないのだ。魔法が身の回りに存在しないのだから。その部分が、魔法大国という閉ざした国で育ったピユラとユリアの魔法に対する認識の大きな違いだった。
「幻獣とやらのことは、わら……私にもよく分からないが、魔法のことであれば教えられる。ユリアが自身の力を知る助けになるやもしれぬ。教授しよう」
「それじゃあ、お願いしようかな」
どこか嬉しそうなピユラにつられて、ユリアも微笑んだ。実際、それはとても助かる申し出でもあった。魔法に連なる力であろう幻獣について知るために、魔法への理解が不要のはずがない。それについて教えを乞うのに、実際に魔法を扱う者に聞くより勝ることはないだろう。
「うむ。任せるがよい。一気に行くぞ」
どこら誇らしげに胸を張り、淀みなくすらすらとピユラは魔法の説明を始めた。
魔法とは、特定の血筋に宿る魔力によって、精霊を使役するのが基本であること。精霊とは、魔法の源ともいえる力の塊であり、生物に似て非なる、目に見えない存在であること――そこから始まり、彼女の話は過去の魔法の話題にまで及んだ。
ピユラいわく、古には、魔法を使える血族がいくつもあり、その数だけ、様々な魔法が存在したらしい。炎を熾し、水を生み、風羅のように風を招くような、自然を操る魔法は珍しくもなく、幻を見せたり、瞬時に居場所を移したりする、特殊な魔法も多くあったそうだ。そのうえ、魔力を持たぬ血筋の者たちも、魔法に似た技が使えたという。術式と呼ばれる、呪文を文字として起こした文様を組み合わせることによって、土地や他者の魔力を活用する方法があったのだ。だが、魔の血筋はその多くが滅び、廃れてしまい、術式も土地の魔力が減り、技法自体も伝わるものが少なくなってしまった。そのため、特殊な魔法を見ることも、魔法使い以外の者が魔法を活用することも、絶えて久しいのだという。
「――とまあ、概要はこのような感じなのじゃが、分かったであろうか?」
どこか嬉しそうに紡がれたその説明は、おそらく彼女自身が何度も聞かされていた内容なのだろう。輝く瞳の勢いに飲まれながらも、一生懸命耳を傾けなんとか咀嚼し、ユリアは頷いた。
「た、たぶん、なんとなく……。えっと、だから――いまの説明から考えると、幻獣は特殊な魔法ってことになるのかな? なんか、自然の力ではなさそうな感じの呼ばれ方だし。でも、それも結局は、魔法の血筋じゃないと使えないんだよね?」
「そうじゃ」
こくりと首を縦に振るピユラに、ユリアの眉が綺麗な八の字を描いて寄せられた。困り顔で腕を組んで、彼女はうなる。
「う~ん。私、たぶん絶対、そういう血は流れてないと思うんだけど……。なんで私が幻獣の力があることになっちゃってるのかなぁ……。あ、そういえば、ピユラちゃん、魔法使うとき呪文唱えるよね。あれはなにか決まりがあるの?」
「うむ。精霊を使役する際に用いる。いわゆる、昔から伝わる精霊との約束の言葉、というやつじゃな。多少法則性がある。随分と覚えさせられたものじゃ。言葉は、力となる。こう、思いは伝えねばわからぬというか、頭に描くだけより、きちんと言葉にした方が考えが伝わりやすいじゃろ? それと同じじゃ。試しにひとつ、唱えてみよう。もう知っての通り、風羅の血は風魔法の血じゃ。この身に流れるのは、風の力持つ精霊と通い合える魔力なのじゃ」
ピユラは紫の瞳を煌かせ、柔らかに呪文を唇にのせた。まるで親しい友に呼びかけるように優しく、歌い奏でるかのごとくその声は紡がれる。
風がそっと渦巻き、ふわりと彼女たちの周りの毛布や枕が宙に浮かんだ。そしてそのまま、風を纏って空中でくるくると踊り出す。
「これは一番簡単な風魔法じゃな。とりあえず、風を起こすだけのものじゃ」
「それでも十分、私にはすごいよ。素敵ね。なんだか、寝具が踊っているみたい」
「そうじゃな。枕と毛布のダンスじゃ」
くすくすとふたりは楽しげに笑いあった。
そこへ、突然、扉が開かれるやや大きめな音が重なった。はっとしてふたりが振り返れば、閉まっていたはずの隣室への扉の前に、蒼珠が眉をひくつかせた笑みで立っていた。
「ピーユーラー」
低い声が怒りを潜めて床を這う。
「蒼珠! まだ起きておったのか!」
「寝てたっつの! それはこっちの台詞だ、馬鹿野郎!」
驚きをそのまま悪気なく口にするピユラに、蒼珠はこめかみを押さえ込んだ。
「お前ら、随分とお楽しみのようだが、調子乗りすぎだ。第一、ピユラはほいほい魔法を使うな。寝ろ、寝ろ。明日も早いんだぞ? ちゃんと体休めろ。透夜だってもう寝てんぞ」
「いまので起こされてるけどな……」
呆れた顔が蒼珠の後ろからユリアたちの部屋をのぞき込んだ。蒼珠もそうだが、外へと動けそうな衣服ながら、先よりはずっと簡易な装いになっている。首筋にはほどいた髪がかかっており、確かに寝ていた出で立ちだ。
「俺と蒼珠が横になってからも、寝ていないなとは思っていたが、本当にいつまで起きてる気だ? 朝になるぞ」
「ふむぅ……すまぬ」
「ごめんなさい……」
男ふたりの正論に、少女たちはベッドの上できまり悪そうにちょっと身を小さくした。
それに、蒼珠と透夜は甘くも肩を落とすだけにとどめて、本当に寝ろよ、と釘を差し、再び扉を閉めて引き払っていった。
今度こそはいわれたとおりにランプの灯を吹き消し、それぞれのベッドにもぐりこみながら、これで最後とピユラはユリアへ囁いた。
「すまぬな、ユリア。魔法を使ったゆえ、蒼珠に気付かれてしまった。あやつ、ちと魔力に敏感なのじゃ」
「そっか、蒼珠さんも風羅の人だもんね」
魔力の気配、というのは、まったくユリアには分からない。おそらく、魔力のある者にしか分からないものなのだろう。そう思っての返答だったのだが、布団からのぞくピユラの顔は少し複雑そうな色を示した。
「いや……その、まだ話していなかったが、奴は風羅に住んでおっただけで、風羅の民ではないのじゃ。ゆえに、魔力もない。だからあのように武器を多く持っておるのじゃ。確かに、本来ならば魔力がなければその気配は分からぬものなのじゃが、蒼珠は少しばかり特殊でな……」
歯切れの悪いピユラに、どうやら言いづらいことのようだと察して、ならばこれでこの話題は終わりとばかりにユリアは笑いかけた。
「そっか。じゃあ、そういうものなんだって、思っておくね」
「うむ。ユリア、すまぬな。感謝する」
ほっと和らいだピユラの空気にユリアは笑みを深め、薄闇の中、かすかうかがえる彼女を見やった。
「いいえ、おやすみ。ピユラちゃん」
「おやすみじゃ、ユリア」
まるで大事な秘密の合図のようにそう告げあって、ふたりはそのまま目を閉じ、疲れにいざなわれて瞬く間に眠りの海へと沈んでいった。
それに、隣室へと続く扉がきちんと閉まる、小さな音がした。ユリアもピユラも気づいていなかったが、薄く扉は開いていたのだ。
「よぉやく寝たぜ、お嬢様方」
透夜に囁き、蒼珠が肩をすくめて彼の向かいの長椅子に腰を下ろす。
「こんな遅くまで、なに話すことがあったんだ? あいつら」
「さぁてね。お嬢さんってのはお話好きが多いからなぁ」
「……確かにな。凄まじく思い当る奴がいる……」
重く深い透夜の一言と憂鬱そうな顔に、思わず蒼珠は彼をのぞき込んだ。
「ユリア……じゃねぇな。なんかやべぇ顔だぞ。誰?」
「兄の許嫁……」
短い一言に、そういや次子っていってたな、とか、兄の許嫁のなにが彼にそこまでうんざりとした顔をさせるのか、など色々な感想が一気に蒼珠の脳裏を駆け巡っていったが、触れない方がよさそうだ。蒼珠は、そうか、とだけ、よく分からないまま同情を示して頷いた。
「俺のことは別にいい……。とてつもなく面倒だったってだけで、たいしたことじゃない。それより、お前こそ、大丈夫か?」
額に手をあてがって抱え込んでいた頭を少し上げ、蒼珠を紫黒の眼差しが見つめ上げた。
「さっきから若干、顔色が悪いぞ」
「そうか? いや、疲れかもしんねぇな」
かすか瞬かせた金の瞳を笑みに細め、蒼珠はごろりとその大きな体を椅子に横たえた。
「さっさと休むに限るな、こりゃ。あっちも寝静まったし、こっちもまた眠っちまおうぜ」
「ああ……そうだな」
目配せされてしまえば、それ以上の追及もはばかられ、透夜もそう答えて椅子へと横になった。
やがて聞こえてきた彼の浅く寝ついた呼吸に、蒼珠は溜息をひとつつく。
(いやぁ、目敏い……)
ピユラには魔力の気配に気づいただけという体で隠しきれたが、どうも隣で眠る少年には悟られてしまったようだ。
(最近、ちょっとやべぇ時があんだよなぁ……)
蒼珠の身体は、魔力に触れると少しばかり内で変化が起きる。その度合いは触れた魔力の大きさや彼の体調にもよるのだが、必ず不快感や苦痛を伴った。先のピユラの魔法はささやかなものではあったが、寝ていていわずか無防備になっていた蒼珠の身体には、やや刺激が残るものだったのだ。なんとなくいまも腹の奥の方で、鈍く重い感覚が渦巻いている。
(だが……厄介だとしても――この力はきっと必要だ)
彼の身体の変化は、彼の持つ特殊な力の裏返しなのだ。そう無暗に頼れる力ではないが、いつか、いざという時にピユラを守れる力になればと思っている。
(いまはまだ御しきれねぇ、付き合いづれぇ力だが……)
蒼珠はつい、ひとり苦笑を零した。
(あの面倒な親父譲りらしい力だよな……)
彼の父は、彼が風羅に住まうようになる前、ちょうど透夜ほどの年の頃だった時、突然その母と共に姿を消した。何の前触れもなく、ただ己は母と二人で旅に出るゆえ、蒼珠もひとりで見聞を広めに旅に出ろという趣旨の手紙と旅支度を残して。
(今頃どこで、何してんだかねぇ――)
なにより母を大切にしていた男だったので、たいていの父の行動は母に起因していた。なのでおそらく、魔法を使える母に関わるなんらかの事情により、唐突に姿を消したのだろうと想像はついた。そしてきっといまも変わらず、彼は母と睦まじく、元気にやっているのだろう。だが、蒼珠としてはなんとも複雑なところだ。
(それなりに大きくなってたとはいえ、いきなり説明なく息子を置いてくかぁ……?)
横の椅子で眠る透夜をちらりと視界におさめて、まだその成長しきっていない細い肩の線をどこか懐かしく思う。自分もちょうどあれぐらいで、ひとり残され、あてもなく外の世界へと旅立つことになったのだ。
(こいつには、幸か不幸か、ユリアっていう存在がいやするがな。ま、まだあの頃の俺と同じ、ガキには違いねぇ)
凛と立つ背は頼もしくもあるが、そう気張るなよと声をかけてやりたくもなる。しばらくは同道の身だ。年長者として庇護してやりたいというのは、きっと彼にはお節介だろうが、つい、あの日の自分を振り返ってしまう蒼珠としては望んでしまう。
(どっかの誰かみてぇに、道を踏み誤まんねぇように……)
左耳にひとつ光る白銀の耳環を、手持無沙汰にいじる。その指先に苦く笑み、彼はそれを隠すように、腕を枕代わりに頭の後ろに回した。
(お兄さん、気張んねぇとなぁ。――馬鹿親父。せっかくの力、俺にも少しは活用させてくれよ……)
いずくともしれない父へ願うように、蒼珠はその金色の目をそっと閉じた。
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