ヤマギシさん

百舌鳥

******

ずる、ずる、と。着物が床に擦れる音がする。


 零した酒に女将が注意をとられた隙に、コップに睡眠薬を混入させた。ややあって意識を失った女将の身体は重い。それでも、なんとか店の入り口までは引きずってくることができた。不自由な左手に体重をかけて居酒屋の扉を押し開ける。


 二台の車がぎりぎり行きあえる程度の細い道を挟んだ向かい、降りたシャッターの向こうに女将を横たえた。眠りが浅かったのか。血のような紅を塗った唇からかすかな呻きが漏れる。――大丈夫だ。意識はまだ戻っていない。手早く済ませてしまおう。


 再び道路を渡り、居酒屋の店内に戻る。日付も変わった深夜とはいえ、路上に眠る女将が通行人に見つかって邪魔をされても厄介だ。幸い、店の扉は内側からは簡単に施錠できる仕組みだった。かちり。自分ひとりきりになった店内に響く、錠前の落ちる音。



 さあ、早く、早く。探さなければ、あの箱を。



 箱の所在には目星をつけてあった。民俗学者と偽っての、女将との会話の中。何度か水を向ければ、時折ちらちらと女将の視線が向いていた方向がある。辞した前職で身につけた技術をここで使う皮肉に、唇の端で嗤う。

 果たして踏み入った厨房の奥には、小さな扉があった。施錠されているのは想定内だ。先ほど、意識を失った女将の懐から拝借しておいた鍵束を試す。三本目の鍵でシリンダーが回った。


 扉の先は、事務室めいた小さな部屋だった。出納帳だろうか、片袖机の上には数枚の書類とファイルが放置されている。時間に余裕はない。家捜しのやり方は知っている。戸棚を開け、小物入れをひっくり返し、鍵束を試していく手つきは我ながら慣れたものだった。


「――あった」


 鍵のかかった引き出しの、さらに奥に保管されていた小さな鍵。それが、部屋の奥に鎮座していた耐火金庫の鍵だった。金庫の上には小さな瓶子が置かれている。屈みこめば、白い陶器からかすかに日本酒の香がした。

 開いた扉の中にあったのは、いくばくかの札束。そして、古ぼけた木製の――。



 痛い。痛い。いたい。いたい。いたい。イタイイタイイタイイタイイタ――。



 眼球もろとも脳を奥底まで抉り抜くような鋭い頭痛。床に転がり、必死に箱から目を逸らす。とても正視できない。正視してはいけない。思い出してはいけない。

 間違いない。探していたもうひとつの箱だ。

 一年以上にわたり、ぽっかりと記憶が欠落する直前。最後に目にしたあの箱よりもやや古ぼけている。

 ひゅう、ひゅうと荒い息と共に立ち上がる。箱を直視しないようにして金庫の中に手を差し入れた。三本だけ指の残された左手が疼く。指先に触れる、乾ききった木の感触と、ずっしりとした重量。鳥肌に覆われた腕でなんとか箱を取り出す。せめてもの気休めとして、部屋の片隅にあった風呂敷を用いて手探りで箱を覆った。


 がさり。箱の中、乾ききった何かが動く音。聞き覚えのある響きに、再び背中が総毛立った。

 生まれたての鹿かと思うほどに震える足を叱咤し、箱を抱えて部屋を出る。がさり。がさり。一歩踏み出す度に鳴る音が、耳の底にこびりつく。

 

箱をカウンターの上に置き、自分は再度店の奥に向かう。目的地は厨房だ。シンクの下部を探すと、鈍い銀色をした一斗缶を見つけた。手に取ると、半分以上の中身は残っている。――十分だ。


 カウンターにとって返し、箱の上に一斗缶の中身をぶちまけた。どぽ、どぽと風呂敷が菜種油を吸い込み、カウンターの木材に染みこんでいく。


 ふと、引き戸の先、通りを挟んだ向かい側で眠る女将の顔が浮かんだ。女手ひとつでこの店を切り盛りしていると告げた顔と、油の匂いが充満した店内。これからしようとすることを思えば、たちまち罪悪感が胸を押しつぶそうとする。頭を振って、それを振り切った。


 全てはこの箱から始まった。もうひとつの箱と同じく、なくしてしまうべきなのだ。この箱も、この箱によって得られたものも。


 かなり軽くなった一斗缶を持ち上げる。頭上で逆さにすると、ぬるつく感触がたちまち髪から肌へ伝わってくる。油の匂いが一段と濃くなる。油の最後の一滴まで被ったのを確認して、缶を床に置いた。いよいよ、ポケットに右手を差し入れたとき。


「ヤマギシさん」


聞き覚えのある、声がした。


「ヤマギシさん」


 今度は真後ろから。背にはっきりと息づかいを感じる。


「ヤマギシさん、どうして」


 ひどく哀しげな声が、胸を刺す。お前は、そんなになってまで俺を案じてくれるのか。小さく頭を左右に振って、背後に感じる気配へ振り返る。


 ――自分が守ってやるべきだった、守り抜いてやれなかった後輩がそこにいた。


「左の箱は、もうありません。ヤマギシさんが持ち帰れば、きっと」


 ああ、と。歪んだ唇の端から皮肉な嗤いが漏れた。違うんだ。俺がここに来たのは、そんなことのためじゃない。


「俺は、箱を継がない。お前と同じように、ここで終わらせる」


 だから。お前も、もう楽になれ。


 ポケットから手を抜き出す。油にまみれた指で、握ったライターのスイッチを押した。

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