62 イントゥ・ザ・ホワイト
記憶にあるかぎり、東京駅を訪れるのは二度目のことだった。
一度目は去年の十二月。東海道新幹線から、京浜東北線に乗り換えたときのことだ。市川家に向かう途中のことで、スマートフォンや関東圏のIC乗車券を持っていなかった知佳は料金表の前で切符の値段を何度も確認したものだった。
あのときはまさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった。
彩都市から乗ってきた京浜東北線の電車を降り、スマートフォンの決済で改札を通り抜ける。
新幹線の乗り口を目指した。乗車券はすでに予約済みだ。午前十一時発の便で新大阪駅を目指すことになる。
とはいえ、予定通り運行するかはわからない。この時期にしては異例の大寒波が西日本を襲っているからだ。大雪の予報も出ている。
「運休しないよね?」
雑踏の中、誰かの声が切実に響く。
知佳はお守りをぎゅっと握りしめた。実理にプレゼントされた学業成就のお守りを。
――一人で大阪に? どうしてまた。
おばさんは困惑したものだった。
――向こうを出るときはバタバタしてたから――いろいろと決着を付けないといけないの。
――それはお友達のこと?
――わたし、向こうに友達なんていないよ。だけど、そうだね。友達より重要な人かもしれない。
――よくわからないけど、どうしてもって言うなら止めないわ。ただし、おばさんもついて行くから。
――一人で大丈夫だよ。
――だけど――
――大丈夫。危ないことは――もう全部終わってるから。
《のぞみ》は予定通りの時刻に東京駅を発った。
二号車に乗り込み、窓際の空いている席に腰を下ろす。ほどなくして、隣の席が埋まる。北欧系の若い女性だった。雪など見慣れているのか窓には目も向けず、タブレットでエジプト文明に関する動画を見ている。
ピラミッドやミイラやアヌビス神の壁画といった見覚えのある映像が流れてくるのだが、再生速度が速く、英語なのでよくわからない。
一方、知佳は窓の外を気にしつつもスマートフォンで西日本の天気や電車の運行状況を確認していた。
西日本では次々に電車の運休が発表されている。SNSは雪の画像やそれに伴うトラブルの報告でいっぱいだ。それに、雪国のユーザーがまとめた注意事項が拡散されている。「雪だるま下手くそ選手権」というタグも大盛況だ。「三月の雪」がトレンドになっている。
「Awesome」隣のお姉さんは繰り返しそう呟いていた。「Awesome」
新大阪駅で降りると、駅構内は運休で立ち往生する人々が群れをなしていた。
人だかりを掻き分けて北口を目指す。
けっきょく、知佳が利用するつもりだった路線は運休になった。代替となるような路線もない。
目的地までは徒歩で一時間以上かかる。しかし、ただ待っているよりは早い。
知佳は出口で傘を広げ、大雪の中に足を踏み出した。
街は一面の銀世界だ。
こんな光景は見たことがない。見知ったはずの街が遠い異国のように思える。
駅前の広場、公園、ビルや団地までもが雪化粧だ。
雪は綿菓子のようなものだと思っていた。踏みしめるとほどよい弾力で押し返してくるものだと。
しかし、踏みしめると思った以上にしっかりとした質量があった。
おっかなびっくり踏み出すと、足がわずかに沈むだけで、弾力は感じなかった。押し固められた雪は氷のように固く、転べば痛そうだ。
積雪はおよそ五センチといったところだろう。なんとか歩いて移動できる。
車も走っているし、タクシーでも拾えば楽に目的地までたどり着くのかもしれない。
タクシーってどうやって捕まえるんだろ。
ふと思う。
ドラマなどでは手をあげれば画面の外からどこからともなく現れるものだが、見たところタクシーらしき車はない。
かといって、わざわざスマートフォンで呼ぶ気にもなれない。予算を無駄に費やすことにもなる。
やはり、このまま歩くしか――
そこでふと別の「足」に思い至った。
スマートフォンで調べたところ、最寄りのレンタルサイクルは新大阪駅の高架下にあった。
「やめとき、やめとき」受付のおじさんは言った。「滑るし、雪の下に段差があって知らず乗り上げたりもするから。電車が止まって動けないのはわかるけど、カフェとか図書館とか、どこかあったかい場所でやり過ごしな」
「お気遣いなく」知佳は言って、財布から料金を出した。「壊さないようにしますから」
「そういう問題やないんやけどねえ」おじさんは困ったように頭を掻いた。「まあ、こんな大雪ははじめてのことやし、おじさんもどうすべきかわからんねやけどな。個人的な見解を言わせてもらえば、今日はもう閉めた方がいいんちゃうかって思うんやけど――」
「なら、そうなる前にお願いします」
おじさんは呆れたような顔になり、それから白髪交じりの髪を後ろに撫で付けた。やや俯き加減のまま知佳に視線を戻して言う。
「ほいな、おおきに。気ぃつけてな」
おじさんの言葉を背にレンタルサイクルの駐輪場を出る。
ブレーキが効くのを確認して、股がる。少しサドルが高いが、気にせず漕ぎ出した。
知佳の地元は都心と川を挟んで隣接するベッドタウンだった。
新大阪駅から見て北北東といったところだろう。知佳はまず市境で東西を横切る川を目指して北へ北へと向かった。
橋の位置はよく覚えていないが、川に近づけば見えてくるだろう。
北へ、北へ――
道中で何度か転倒した。
おじさんの言う通りだった。慎重に漕いでいるつもりでも、ブレーキやカーブのタイミングで不意にタイヤが滑る。うまく止まれずそのままバランスを崩して道路に投げ出される。
少し雪が積もっただけで、いつもとは勝手が違ってくるらしい。
そもそも、なぜ自転車に乗れるようになったかもわからないのだ。
漠然と、感覚で乗り方を理解しているだけ。条件が異なればこうしてバランスを崩すのも不思議ではない。
自転車だっていつもとは違う。青いフレームの、シティサイクルだ。不意に、彩都市に残してきたミニベロが不意に恋しくなる。
地面に手を着いたとき捻ったらしい、手首が痛む。
赤信号で止まる度、不意に自分はいったい何をしているんだろうという疑問が沸き上がってくる。
早く変われ。
そう念じながら赤信号を睨めつけていると、声がかかった。
「知佳ちー?」
声の方を振り向く。
葛城だ。
それに、かつての同級生たちが二人。みんな傘を差している。
「なんでおるん?」葛城は大阪弁で尋ねた。
「忘れ物を取りに来たの」知佳は答えた。
「そう。なんか知佳ちーらしいね」葛城は冷静になったのか今度は標準語で言った。「でも――よかった。ずっと謝りたかったから」
「謝る?」
葛城は頷いた。信号が切り替わり青になる。
「わたしたちはあれをやったのか誰かなんて知らない。新聞記事のことだけど――ほとんどの子はそうだと思う。でも反応を楽しんでたのも事実だから。知佳ちーは何考えてるかわからないところがあったから」
――だから、知佳ちー。こうしない?
「そう」
――わたしと親友になるの。
「帰って来ないの? 復学するのは無理かもしれないけど――」
――そうしたら、わたしが守ってあげる。
「悪いけど、信号変わるから」
――世界中を敵に回しても、知佳ちーに味方するよ。
「待ってよ、知佳ちー」葛城は叫んだ。「どうして。ねえ、どうして責めないの。わたしのこと」
知佳は足を止める。信号は再度切り替わって赤になった。
「わかってるんでしょ。わたしはずっとわかってた。知佳ちーのこと知ってた。弟のことも。あの事件だって、ニュースでは報じられなくても犯人の名前を知ろうと思えば簡単だった。だから――」
「わかってる」知佳は背を向けたまま言った。「新聞記事のことはわからないけど、操緒のことは葛城さんがみんなに話したんだって」
「じゃあ――」
葛城はすがるように言った。まるで知佳に責められるのを期待するかのように。それでなにかが帳消しになるとでも言うように。
「……いつか言ってたよね。わたしは他人に興味がないって」知佳は言った。「その通りだよ。あのときもいまもそれは変わらない。どうでもよかったの。だから謝らないで。葛城さんは悪くないよ。わたしに歩み寄る気がなかっただけ」
「知佳ちー」
「この件はもうそれでおしまい。お互い忘れよ。もう会うこともないんだし」
信号が再び青になり、知佳はそのまま自転車を漕ぎはじめた。背後からかかる声を気にも留めず、漕ぎ続ける。
「《ともえ》はあんたのこと親友と思ってたのに!」
葛城の名前らしい。「ともえ」とはどういう字だったろう。そんな疑問が一瞬だけ脳裏にちらつき、雪のように儚く消えた。
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