39 ビタースイート・メモリー

   * * * *


 娘は思い悩んだ。

 彼と相思相愛の親友を妬ましいとも思ったそうよ。

 だけれど、同時に気づいてもいた

 自分さえいなくなれば、万事うまくいくのだと。

 彼は婚約から解放され、親友と結ばれることができる

 二人は幸せになれる。

 自分だってこの苦悩から解放される。

 だけど、簡単に死ねるものでもなかった。

 自分が死ねば二人が悲しむのもわかってたし、自分一人が犠牲になるなんて馬鹿らしいとも思っていた。

 あるいは、そうして答えを出さず引き伸ばすことで流れに身を任せようとしたのかもしれない。

 放っておけば、自分は彼と結婚する。その未来を無意識に支持したのかもしれない。

 そうして均衡が保たれていたある日、それは起こった。

 その親友が失踪したの。唐突に、何の前触れもなく。まるで神隠しに遭ったように。


   * * * *


 二月最初の日曜日だった。


 知佳は午後の一時ごろ、蒼衣の家に向かった。市川家から見て、北西。むずかしい読み方をする名前の町だ。

 関東大震災の折、文化人が移り住んだことから芸術の町とされているらしい。落ち着いた雰囲気の住宅地で、高層建造物が目立つ駅前の隣町とは打って変わって空が広い。


   今年は二人を見返してやろうと思うの


 蒼衣はそんなメッセージを送ってきた。


 チョコ作りの秘密特訓を手伝ってほしいらしい。


 カナたちに気取られないため、一緒には行かず、知佳が一人で蒼衣の家を訪ねることになっている。


 地図アプリと家の写真を頼りにたどり着いた。ぐるりと石塀と生垣が巡らせてある。出窓が目立つ、洋風の一軒屋だ。人気作家の家だけあって、風格がある。「岬」の表札を確認し、塀を回り込んだ。


   裏口から入ってね


 そんなことも言っていた。大袈裟だとは思うが、蒼衣がこういう芝居じみた遊びを好むこともわかりつつあった。さすが作家の娘と言ったところか。


   着いたよ


 ほどなくして勝手口を見つけ、メッセージを送った。


   ちょっと待ってね


 そう返信があったかと思いきや、すぐに勝手口が開いた。すぐ裏で待機していたらしい。

 髪をおさげに結わえた蒼衣が出てくる。丸襟のニットにマキシ丈のシフォンスカート。制服のときよりもぐっと大人びて見える。


「いらっしゃい」蒼衣はそう言って、知佳の手首をつかんだ。「さあ、早く上がって。誰かに見つかったら大変だわ」


 いつもにまして芝居がかっている。休日だから浮足立っているのかもしれない。


 このときはそんな微笑ましい想像をしたものだ。


 二階のキッチンに通される。モッズコートとフライトキャップを脱いで、蒼衣に預ける。リュックを足元に下ろしてパーカーとスキニーパンツだけの格好となり、リュックから持参したリネンエプロンを取り出す。

 一方、蒼衣のエプロンはチェック柄で、肩紐や裾にフリルがあしらわれていた。頭には三角巾。準備万端だ。


 並んでキッチンに入る。システムキッチンだ。三口のIHコンロに備え付けのオーブン。まるで、モデルハウスのようにきれいだ。

 あらかじめ用意するよう言っておいた、ボウルとヘラ、クッキングシート、板チョコが作業台に用意されている。


「ではお願いします。教官」


 蒼衣は知佳に向かい合う格好で敬礼をした。


 知佳は咳払いをして、


「いい? お菓子作りは化学なの」

「イエス、マム」蒼衣は軍隊風に応答した。

「とにかくレシピに忠実であること。化学の実験みたいにね」知佳は続ける。「分量や時間を正確に守らないと、まともな形にすらならなかったりするし――逆に言うとそこさえ間違えなければ初心者でもそうそう失敗しない」

「イエス、マム」

「……じゃあ、とりあえず今日はチョコを湯煎して固めてみようか」

「イエス、マム」


 蒼衣は威勢よく返事をしたものの、どこかしょんぼりした顔をしている。


「どうしたの?」

「……市川さんはロシアで行われてた刑罰を知ってる?」もはや軍隊ごっこに飽きたらしく、普通の口調で言う。

「何、急に」

「囚人に穴を掘らせるの」蒼衣は続ける。「半日かけてね。もちろん手抜きは許されない。能う限り大きく深い穴を大地に穿たなければならない。そうしなければならないの。なぜだと思う? その穴を何に使うと思う?」


 もう半日かけて埋め戻させるのだ。

 どこかでそういう話を聞いたことがある。生産性のない無意味な労働は人間の精神を摩耗させる。


「言いたいことはわかるけど……」

「そもそもわざわざ溶かして固めたチョコを交換し合うなんてシュールなイベントよね」

「イベントの根幹にアンチテーゼ突きつけるのやめて」

「思うに、お歳暮文化の延長線上なのよ。我が国にバレンタインがここまで定着したのは」

「考察もいいから」知佳はため息をついた。「夢路さんも言ってたでしょ。大切なのは気持ちだって」

「そうだけど、それを言い訳に手を抜きたくないの」蒼衣は言った。「だって、そんなのおもしろくないじゃない」


 蒼衣はおそらく凝り性なのだろう。退職してそば打ちをはじめるタイプの人間だ。


「もちろん、その気になればアレンジはできるよ。レシピだって検索すればいくらでも見つかるだろうし」

「作れるの?」蒼衣は目を輝かせた。「オペラとかブラウニーとかザッハトルテとか」


 食べるのは好きらしい。すらすらと名前が出てくる。


「そういう凝ったのはむずかしいだろうけど――」知佳は苦笑した。「ほら、トリュフチョコとかあるでしょ。クッキーとかマフィンも簡単だし。生クリームとかの材料はいるけどね。冷蔵庫に何かないか見ていい?」

「いいけど――」


 冷蔵庫の一番大きい扉を開けた。冷気が溢れ出る。豆乳やジャム、ペースト類、そしてチルド室に肉の塊が見える。


「ごめんなさい。うちは誰も料理しないから」

「夕食とかどうしてるの」

「いまは色々あるから」


 知佳はキッチンの片隅に目をやる。ピザの空箱が重ねてあった。


「ちなみに、小麦粉とかベーキングパウダーは……」

「山椒とかケイジャンスパイスならあるけど」なぜかスパイスの名前が出てくる。「何にかけてもおいしくなるのよ」

「……今日は溶かして固めるだけにしようか」


   *** ***


 どこからどこまでが仕組まれたことだったのだろう。


 知佳にはわからない。

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