38 百合とチョコレート

      * * * * *


 その娘には婚約者がいた。両家の親が決めたことだった。いわゆる政略結婚だけれど――その娘は相手の男を幼い頃から慕っていた。結婚は本望だった。

 だけど、その相手には別に想い人がいた。娘もあるとき、そのことに気づいてね。その日は、泣き暮れたそうよ。

 男の想い人は、娘の親友でもあった。同級生だったの。その親友も男のことを愛していた。叶わぬ恋と知りながら。

 娘は思い悩んだ。このまま大人になれば自分は彼と結婚する。

 だけどそれは、彼も親友も不幸にする結婚だって。

 結婚して、子供ができればいつか彼も同じように自分を愛してくれるかもしれない。

 妻として、子供たちの母として――

 だけど、それは彼にとっても自分にとっても、本当に幸せなことだと言えるのかって。


      * * * * *


 巫女は何も毎日集まらなければならないわけでもないらしい。瑞月がレムリアの手伝いで休むこともあったし、カナが家事の分担があるとかで先に帰ったこともある。皆勤賞は蒼衣くらいのものだ。


 冨士野は週に二度ほど顔を出し、寛ぐだけ寛いで帰っていく。巫女時代のことはあまり語りたがらない。訊いても、はぐらかされてしまう。顧問を受けたがらなかった理由と関係があるのかもしれない。


 作法室での過ごし方は各々の自由だった。


 蒼衣はいつもにこにことしながら紅茶を淹れ、それが終わると、炬燵で静かに本を読む。父親の蔵書から無造作に持ち出してくるらしく、ジャンルは多岐に渡る。


 カナは先週の漫画雑誌を読むか、横になって眠っていることが多い。


 瑞月夢路はというと炬燵に頬杖をつき、無表情でスマートフォンをいじっていることが多い。瑞月が加入しているサブスクリプションサービスで現代の娯楽に触れているらしい。妙な話だが、茶楽部の面々では最も現代の女子高生らしく見える。


 もちろん共通の話題で盛り上がることはある。しかし、盛り上がるだけ盛り上がって、次の瞬間には各々の世界に帰ってしまうことも多い。


 突如訪れる沈黙に最初は戸惑ったものだが、すぐに慣れた。


 ここでは沈黙が忌むべきものではない。各々がしたいことをする。そしてときおり、それが重なり合う。それだけのことだった。

 これまで、知佳にそんな友達はいなかった。友達で集まれば絶えず誰かが話をしていて、それについていけなければ、ふるい落とされてしまう。そんな緊張感を伴う関係だった。


 この場所は違う。皆ほどよく無関心で、自立している。相手が自分と違うことをしていても気にはしないし、かといって話しかけられるのを厭うわけでもない。本当に一人になりたければ無理に来る必要もなかった。

 これはきっと彼女たちの付き合いが長いからだ。お互いに気心が知れているからこそ、多くの言葉を必要としないのだろう。自分はその輪の中に招かれ、受け入れられた。


 ときおり、自分が部外者であることを自覚させられるときもある。しかし、夢路というイレギュラーが存在することで、知佳だけが浮きすぎるということもなかった。


 この場所はあったかい、と知佳は思う。だからこうしていついてしまった。家までは遠い。学校から帰るまでの間に一息つける場所があってもいいだろう。


 そうしてだらだらと過ごしていたある日、バレンタインの話題が持ち上がった。




「バレンタイン?」知佳は訊き返した。「巫女って恋愛禁止なんじゃあ……」


 二月に入ってすぐのことだった。作法室でカナと動物モノマネを競っていると、不意にその話題になった。


 巫女には、バレンタインを祝う風習があると聞いたのだ。


「もちろん、巫女同士で交換するのよ」蒼衣は言った。「ちなみに手作り推奨です。絆をよりいっそう深めるためにね」

「半分くらいは、夢路がチョコ食いたいだけなんだけどな」カナは言った。「それより、知佳。さっきのゴリラもう一回見せてくれないか。家でやったら受けると思うんだ」

「あなたたち本当に子供よね……」夢路は呆れたように言った。「変に擦れてるよりはいいけど、少しは淑女としての嗜みを身につけなさい」

「夢路みたいに?」カナは問うた。

「そう、夢路みたいに」夢路はご満悦といった様子で言った。意味もなく髪を払って見せる。「意外とわかってるじゃない」

「そういえばクリスマスもパーティーしてたんだっけ」知佳は尋ねた。


 いま思えば融通無碍なものだ。いずれもキリスト教に由来する行事なのに。この調子だと、ハロウィンやイースターを祝っていてもおかしくない。


「ああ、終業式の放課後に軽くな。半分は忘年会みたいなもんだ。瑞月は途中で帰ったけど」

「しょうがないわよ。ご両親がゲリラ的に帰国して家族水入らずでパーティーをするっていうんだから」

「……あなたたち、そのこと妙に根に持ってるわよね」夢路が複雑そうな表情で言った。

「まあ、そんな感じでな」カナは欠伸を漏らした。「これは別に掟とかじゃないから、適当にやればいいんだ。まあ、茶楽部的にはこれを活動実績とすることになるんだろうけどな」


 こういった行事ごとは、あくまで「夢路のご機嫌取り」の一環らしい。あんまり疎かにするとどうなるかわからないが、少なくとも一回や二回やらなかった程度では祟りの対象にはならないらしい。


「いちおう、バレンタインはその中では重要な行事なんだけどね」

「バレンタインなのに?」


 そもそもは女子が男子に告白するイベントだ。巫女とは最も縁遠い行事に思える。


「だからだよ。周りが浮かれるわけだからな。それに流されないよう、巫女の使命を思い出させるって意味合いもあるし――まあ、せめてもの慰めでもあるな。せめて巫女同士楽しくやろうってことだ」


 バレンタインが日本に定着したのは七〇年代半ばごろと言われている。製菓業界によって作られたキャンペーンが発端だ。諸外国では見られない、女子が男子にチョコを送るという風習はこのとき生まれた。


「ちょうど、学校側に黙認されるようになった時期ね」蒼衣は言った。「その頃にはもうあった風習らしいから、けっこう伝統があるのよ」

「そうよ。いまでは当たり前になってるけどいわゆる友チョコだって元はといえば夢路が考えた文化なんだから」夢路は威張った。「これを機にいっそう絆を深めることね」

「まあ、見方を変えればなんだけどな」

「そうね。いわゆる相互監視」蒼衣は苦笑した。「こっそり男の子にあげたりしないか互いに圧力をかけ合う行事でもあるらしいわ」

「それは巫女同士が勝手にやってるだけよ」夢路は弁解した。「夢路が望むのは、あくまであなたたちが男とどうこうならないこと。まあ、あなたたちは一蓮托生だし? わかるわよ。そうやってみみっちく、監視し合うのも。だけどね、あんまりぎすぎすされるとこっちとしても困るの。素直に、同性同士の友情を謳歌しなさい。それがいわゆる《尊いもの》なんだから」


 始業式の日、カナが使ったフレーズだ。


「それも慰めみたいなもんだけどな」カナは寝転がりながら言う。「まあ、実際ここを卒業してからも友達関係が続いたりするらしいけど。建前は建前だけど、本当のことにもできるってことだな」

「そう思いでもしないとやってられないってことでもあるけどね」蒼衣は言った。「好きな人ができたってどうこうできないんだから」

「むしろ何もできなくても言い訳になるからある意味楽かもしれないってユキは言ってたけどな」

「でも、向こうから告白して来ても断らないといけないんでしょ?」知佳は言った。

「ユキは付き合って幻滅することもあるとも言ってたな」

「天羽先輩は森野さんたちに何の話をしてるの……」

「まあ、ゆーさんは物書きだしそういうひねくれた見方もしたくなるんでしょう」

「それ蒼衣が言うことか」


 たしかに、作家の娘が言う台詞ではないかもしれない。


「とにかく、十四日は各自手作りチョコを用意すること」夢路は言った。「別に、出来は期待してないわ。大切なのは気持ちだもの」


 その日はほどなくして解散となった。といっても、稲荷坂の交差点までは並んで歩くことになる。


「しかし、バレンタインか」カナが昇降口でふと呟いた。「何もなきゃいいけどな」

「どういう意味?」


 不穏なことを言う。「適当」でよかったのではなかったのか。


「だって、なあ」カナは瑞月に視線を送った。

「そうだね、カナとボクはいいんだけど……」瑞月が言った。「市川さん、料理は?」

「え、普通だと思うけど」


 母子家庭だったから、それなりのことはできる。


「まあ、三つまともなのがあれば大丈夫だろ」カナは言った。

「あら、四人いるのに三つだなんて変な話ね」蒼衣がにこにこと言った。


 まさかと思い、カナと瑞月を見やる。二人とも無言で頷きを返した。


 なるほど、らしい。


   *** ***


 なんてことのない日常の一幕だった。


 でも、それは罠の入り口だったのかもしれない。

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