34 カフェ・ド・マンサーの告白

 知佳は奥の席に案内された。瑞月を待ちながら、壁のタペストリーに目をやる。


 《Lemuriaレムリア


 かつて存在したとされ、後に存在しないことがわかった場所。


 どうしてそんな店名をつけたのだろう。


 この店は天羽夫婦が立ち上げたものではないらしい。彼らはあくまで二代目の店主であり、この店は引退した設立者から引き継いだものだそうだ。屋号や内装、それに常連客も。


 スマートフォンで調べると、この店を紹介する記事がいくつか見つかった。個人のブログもあれば、地元のメディアが取材したものもある。


 地元で愛されるむかしながらの純喫茶。


 それがレムリアを評するテンプレートらしい。


「コーヒーの味ももちろんですが、お客様の求める『喫茶店』の雰囲気を守ること。それが先代から変わらない方針です」


 現店主は地元メディアの取材にそう答えている。続きを読もうとしたところで、瑞月がトレイを手にやって来た。


「少し時間をもらってきた」


 カップと皿を並べながら言う。二人分のタルトタタンとコーヒーだ。


「驚いた?」瑞月は知佳の対面に座り、言った。「のボクが出てきて」

「うん、まあ」知佳はスマートフォンをしまって言った。「人見知りって聞いてたし」

「そうなんだけどね」瑞月は自嘲するように笑んだ。「でも夢路さんのときに話してるでしょ。それで、市川さんのことも少しはわかったし――それに、これでもウェイターだからね。カナや蒼衣からどう聞いてるか知らないけど、ボクだって少しは成長するよ。むかしほど他人を怖がったりしない」


 そう言いながらも、視線は伏せられたままだった。目を合わせるのはまだ怖いらしい。知佳の胸元に向かって喋っているように見えた。


「で、カナたちはなんて?」


 瑞月は自分のタルトタタンを切りながら言った。


「だいたい見当はつく。ボクの言うこと真に受けてないんだろ?」瑞月は拗ねたように続ける。「わかってるよ。めんどくさいって思われてることくらい。それに、あんなその場しのぎの言い訳して最低だって」


 なんと言っていいかわからず、知佳はフォークでタルトタタンを切り崩しにかかった。一口大にして、口に運ぶと、煮詰めたりんごが口の中でほどけた。鼻からバターと焦げたりんごの香気が抜けていく。


 二人はしばらくの間、黙々とタルトタタンを切り崩す作業に没頭した。店内には相変わらず曲名がわからないピアノの旋律が流れている。


「戻る気はないの?」知佳は尋ねた。

「戻る……か。戻っていいのかな……。カナたちにどこまで聞いた?」


 知佳はカナたちから聞いたことを要約して伝えた。


「そう、ボクと蒼衣は姉さんのこと信じてなかった」瑞月は言った。「ボクは誰より姉さんに近い立場だったのに、信じてあげられなかったんだよ」

「話を聞いたら、しょうがない気がしたけど。先輩ってだいぶ変わった人だったみたいだし」

「そうだね。それもわかるんだ。あれを信じろっていう方が無理があるっていうのも。だけどさ、大事な人が消えて、そんな風に割り切れる? 道徳的に非がないからって、悔やまずにいられる?」


 そこまで言って、瑞月は我に返ったように「ごめん」と詫びた。


「それで依代に志願したの?」

「鋭いな」瑞月は苦笑した。「そう。償いみたいなものだった。いまさら何の償いになるのかわからないけど、それ以外に自分にできることなんてなかったし。それに――変わりたいって気持ちもあった。夢路さんを演じることで自分も変われる気がしたんだ」

「でも、つらくなった?」


 瑞月は頷いた。


「自信がなくなったっていうのもあるかな。市川さんが来るまで、相手はカナたちだけだったから、まだやりやすかったんだけど――ああ、これは市川さんのこと責めてるわけじゃないから。でも……やっぱりカナたちは気を遣ってくれるから、何でもないやりとりだけですんでたんだ。だけど、市川さんみたいな第三者が来たとき、改めて祟りのこととか姉さんのことに触れなければならないでしょ。それを思い知ったんだよ。そしたら、うまく夢路さんを演じる自信がなくなっちゃって……やっぱりどうしても小太刀瑞月としての感情が出ちゃうんだ。揺らいじゃうんだよ。だから、きっと、逃げたくなったんだと思う。少なくとも、市川さんに諸々の説明が済むまでの間は同席したくなかった」

「復帰するつもりはあったってこと?」

「そりゃあね。ボクのせいで二人が消えたりしたら、今度こそ悔やんでも悔やみきれないよ。姉さんのときにそれは思い知った。だから――二人に甘えたんだと思う。連れ戻しに来ることを期待して、逃げたんだと思う」

「二人には相談しなかったの?」知佳は訊いた。「ここまでしなくても、小太刀さんの負担が少ない形を考えてくれたと思うけど」

「そしたら、二人が悔やむと思ったんだ。ボクに依代を任せたことに」


 瑞月なりに気を遣ったということらしい。実際、蒼衣は悔いている様子だった。


「だからやめるのにも違う口実がほしかった?」

「そうだね。もちろん、男になりたいっていうのもまるっきり嘘ってわけでもないんだけど……いまさら女の子らしい喋り方をしろって言われても困るし。制服もできればスカートじゃなくてスラックスがよかったなって思う。でも、体そのものに違和感があるかって言うと――人並みにコンプレックスがあるだけだろうし。はは、変だよね。こんな長い髪して」

「そこはあんまり関係ないと思うけど」知佳は言った。「小太刀さん、髪きれいだし伸ばしたくなるのもわかるよ……背も高いし、かっこいいと思う」


 知佳は小柄だからロングヘアは似合わない。髪が伸びる呪いの日本人形のようになる。


「ありがとう」瑞月は照れるようにして言った。


 話している間にタルトタタンを食べ終わる。からんからんとカウベルが鳴り、「天羽のおばさん」と思しき女性が応対に向かう。


「ねえ、小太刀さん」知佳は呼びかけた。「それならもう戻ってくるんでしょ。わたしもたぶん知るべきことは全部知ったと思うし、二学期までと同じようにやればいいんだよ。わたしが適当に説得したことにすれば自然に戻って来れるでしょ?」


 瑞月は何も答えない。俯いたままカップのハンドルを握りしめている。


「まだ何か気になるの?」

「……カナは最初から姉さんのことを信じてた」瑞月は口を開いた。「姉さんのことを知らないからだって思ってたけど、実際には逆だった。姉さんのことをわかってなかったのは、ボクの方だった」


 知佳は続きを待った。瑞月はいま何かを吐き出そうとしている。話がどこに向かうかは予測できないが、邪魔するべきではないだろう。


「カナは純粋だよ。物事を真っ直ぐに見てる。バカってわけじゃない。何も考えてないわけでもない。ただ、信じるべきことを信じられる心を持ってる。タイプは違うけど、姉さんに通じる何かがあるんだと思う。あの二人には、ボクや蒼衣にはわからない特別なつながりがあった気がするんだ。尤も、これはボクの見方にフィルタがかかってるかもしれないけどね。カナが自分にないものを持ってるのはたしかだから、余計に眩しく見えるんだと思う。妬ましいくらいに」


 瑞月は続ける。


「責められればいっそ楽だったかもしれない。だけど、カナは責めなかった。ボクや蒼衣が信じなかったことについて責めようとしなかった。だからこそ、せめて依代になろうって思ったんだ」瑞月はそこで一旦カップを持ち上げ口に運んだ。「だけど、どんな顔をしてカナの隣にいればいいんだろう。どんな立場で夢路さんを演じればいいんだろう。姉さんを信じなかったボクがいったいどうして、他人に信じることを求められるだろう」


 瑞月は黙り込んだ。コーヒーを飲み干したらしい。カップを握りしめたまま動かない。しばらくしてまた口を開く。


「ごめん。べらべらと。こんなこと蒼衣たちにはなかなか言えないからさ」瑞月はぎこちなく笑った。「自分でもまだ気持ちの整理がついてないんだと思う。だから考える時間がほしかったのかも」


 知佳はカップを口に運んだ。残ったコーヒーをゆっくりと味わうようにして飲み干す。


「でも市川さんもよく付き合ってくれるよね。こんな胡散臭い話なのに。根っから信じてるってわけじゃないんでしょ?」

「そうだね」知佳はカップを置いた。「でも、何を信じるかってそんなに重要かな」


 瑞月は一瞬、意図を図りかねたように間を置いた。


「どういうこと」

「前から気になってたんだけど」知佳は訊いた。「この辺の公立高校って願書の提出はいつ?」

「二月上旬だったけど」

「先輩が消えたのは二月下旬。願書の提出よりも後になるね」

「え、うん」

「小太刀さんたちは揃って中高に進学してる。夢路さんのことを知ってた三人が揃って、先輩が消える前から願書を提出していた」知佳は続ける。「小太刀さんは先輩のことを信じてなかったかもしれない。でも、どっちにしても同じ学校に行くつもりだったんでしょ? 最初から巫女になるつもりだったんじゃない?」

「それは……そうだけど」瑞月は認めた。「でも信じてたわけじゃない。そういうのがあるとしたらって頭の片隅で思ってただけ」

「それでも、選んだんでしょ。先輩の嘘か本当かわからない与太話に付き合うことを。なら、信じるとか信じないなんて関係ないよ」

「でも信じないことで、誓いを破ってしまったら」

「信じてなかったら約束も破る?」知佳は尋ねた。「関係ないよね。気にしない人もいるかもしれないけど、小太刀さんは違うでしょ。小太刀さんたちは信じる信じないは別として先輩と一緒にいることを選んだ」

「でも――」言葉にならないのか、瑞月は言葉を切った。

「誰も心の中で感じたことまでは責められないよ。大事なのは、実際に手を差し伸べられるかどうかなんじゃない?」


 瑞月は不思議そうに知佳の手元を眺めている。そして言った。


「……それって市川さんの持論?」それから慌てて、「ごめん、ボクを説得するために考えたんじゃないかって」

「たとえそうでも、何か変わる?

「それは――」


 瑞月は言葉を切った。それと同時に、また新しい旋律が店内に流れはじめる。まるで聞き覚えのない導入だ。なのに、どこか懐かしい感情が呼び起こされる。


「あとは小太刀さんが考えて決めればいい」知佳は言った。「わたしはまだいちおう部外者だしね。約束した以上のことに責任なんて持てない。だから最後にもうひとつ頼まれごとを果たしたら帰るよ」

「まだ何かあるの?」

「占い」知佳は言った。「森野さんたちが改めて部活のことを占ってほしいんだって」

「……昨日の今日でうまくなんてならないよ」

「じゃあ、練習台にして。それでいいって森野さんも言ってた」


 瑞月はしばし考え込むようにした後、ひとつ咳払いをした。目付きが変わる。


「かしこまりました」


 瑞月は知佳のカップをソーサーごと引き寄せた。昨日と同じように、カップをひっくり返し、何か念じるようにしながらソーサーの上で回す。やがて、ふたたびカップをひっくり返しテーブルの上に置いた。


「どう?」


 瑞月はカップの底を示した。縁に沿うようにして跡が残っている。三日月と半月の間のような形だ。


「月の形がよりはっきりと残っています。雲は存外早く流れていったようですね。それにこれはお客様から見て上弦の形になります。満月に近づいているということです」

「つまり?」

「きっと万事うまくいくでしょう」

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