放課後のタルトタタン～穢れた処女と偽りの神様～

5 オール・ザ・キングスメン

　　　　　　＊　＊

　戦後、女子高等学校として生まれ変わったこの学校で、ある噂が立ちはじめた。

　戦時中に殺された少女の怨霊が自分の心臓を求めて学校の敷地内を彷徨ってる――ってな。

　何か実害があったわけじゃない。そういう記録はない。事件のことを知った誰かが広めた、他愛ない噂話みたいなものだったらしい。

　だから、そう――それは恐怖じゃなく、憐れみからはじまったんだ。

　事件のことを知ったある心優しい生徒がその怨霊を哀れに思い、鎮めることを考えたんだ。

　そう、それが――

　　　　　　＊　＊

　知佳が目撃したのは、手すりからずり落ちた少女が手すりをつかみ直す瞬間だった。

　しかし、身体はそのまま後ろに倒れ、地獄回りよろしくくるっと半回転して、片脚を手すりに引っかけたまま倒立する格好になった。知佳からは、逆さになった後姿が見える状態だ。

　ポンチョが捲れ上り、上履きが脱げて校庭に落下する。

　手すり根本に頭をぶつけたらしく、少女はもう片脚を手すりに引っかけながら「いてっ」という声を漏らした。

「だから言ったのに……！」

「いやー、猿も木から落ちるってな」少女は両脚で手すりにぶら下がったまま言った。「河童の川流れ。弘法にも筆の誤り。後はえーっと、ノンなら何て言うかな。神もサイコロを振る？」

「最後のちょっと違うから」知佳は言った。「どうすればいい？　足を掴んで引っ張ろうか」

「あー、いいって。無理だから」

「でも――」

「それより、ひとつ訊いていいか」

「何？」

「どうしても思い出せないんだ」少女は言った。「ごめん。誰だっけ」

「このタイミングで訊く！？」

「いやー、悪い」少女はたいして悪びれた様子もなく言った。「話してたら思い出すと思ったんだけどなあ」

　どうやら、知り合いだと勘違いされていたらしい。一連の会話はすべて話し相手が誰か思い出すための時間稼ぎだったのかもしれない。

「そんなこといいから、早く何とかしないと」

「ここまで出かかってるんだ。何かヒントくれよ。当てるから」

「初対面です！」

「え」

「え、じゃないよ」

「なんだ、どこかで会った気がしたのに」それから何かに気づいたように、「あれ、じゃあ、なんで屋上に」

「そういうのは全部後！　もう、足掴むよ」

「いや、危ないだろ」少女は言った。「いいから、下がっててくれ」

「でも――」知佳は一瞬、言葉を呑んだ。「死んだらそれっきりなのに」

「それには異論もあるけど、そういうことじゃなくてだな」少女は暢気に言う。「まあ見てろって」

「え」

　知佳はわが目を疑った。

　少女が手すりを掴んだまま踏ん張るようにして体を起こしはじめたのだ。

　そして、身体が地面と水平になったかならないかの瞬間、一気に脚を伸ばし、そのまま手すりを蹴飛ばして屋上の内側に舞い上がった。

　新体操でも見ているようだ。人間にそんな動きが可能なのか、知佳にはわからなかった。

　少女は屋上に見事着地を決めた。両腕はVの字に掲げられている。

「十点十点十点ってな」少女は淡々と言う。「だから言ったろ、大丈夫だって」

　それから、知佳の方に悠然と近づきながら、

「それより、りんごを持ってた理由を聞いてないよな。蒼衣と瑞月（みづき）はどうしたんだ？　おい。聞いて――」

　少女が続けることは叶わなかった。

　知佳の拳が頬を殴り飛ばしたからだ。

　知佳は力がある方ではない。顔を真っ赤にしながら握りしめても、握力計の針は二〇キログラムを下回る。ソフトボールは五メートルしか飛ばない。

　殴られたところでどうということはないだろう。そのはずだったが、少女は殴られた瞬間よろけるようにして後退し、そのまま床に尻餅をついた。

　驚いたのか、少し目を見開いているように見える。あるいは目が醒めたのか。色素が薄く、どこか猫を思わせる瞳に向かって、知佳は怒鳴りつけた。

「心配かけるな、この馬鹿！」

「これでもいろいろ言われる方だけど」少女は言った。「初対面で馬鹿なんて言われるのははじめてだな」

「わたしだって初対面の相手に言うのははじめてだよ！」

「あー、悪かったって」少女は頬をかいた。

「全然反省してない」

「あ、わかるか」

「わかるよ」知佳は絞り出すように言った。「似たような人を知ってるもん」

　――わたし、いつか彼に殺される気がする。

「向こう見ずで、危なっかしくて……ちょっと目を離すと風船みたいにどっか飛んでっちゃって――」

　――このままだと彼は壊れちゃうかもしれない。どうにかしたいよ。でも、どうすればいいんだろう。

「いるよな、そういう奴」少女は深く頷いた。

「他人事みたいに言わない！」

「ごめん」

　それがまったく悪びれているように見えなかったので、知佳は説教を継続した。

「だいたい、あなたなんなの？　人の話聞く気がある？　ホントにわけがわかんない。誰なの、アヤって！　ニコとかノンとかハルとか、ほかにもいたけど、こっちは一人も知らないから！」

　少女は何も言い返さない。黙って俯いている。

　さっきの一幕で被っていたフードが外れ、癖のあるショートヘアーと、二つのつむじが露わになっている。

　表情は見えない。横に流していた髪が崩れ、顔を覆っていた。まるで、眠っているようにも見える。

「ちょっと聞いて――」

「ぶえっくし！」

「え？」思わず間の抜けた声が漏れた。

「悪い」少女は鼻をすすりながら続けた。「終わるまで我慢するつもりだったんだけど。気にしないで続けてくれ」

　少女は髪を横に払った。水滴が滴り、あどけない顔の上を流れていく。表情が窺えない虚ろな瞳。よくよく覗き込んだところで、そこには唖然とする知佳の姿が映るだけだろう。

　知佳はため息とともに説教を打ち切った。

「夢路って子が足をくじいちゃったの。蒼衣って子はその介助。で、わたしは通りすがり」

「ん？」少女は怪訝そうな声を漏らした。だが、すぐに「あー、なるほど。了解した。それでか」と頷き、それからようやく立ち上がった。「本当に悪かったな」

　急にばつが悪くなり、知佳は少女から視線をそらした。黙っているのもいたたまれず、視界に入ったものについて尋ねることにする。

「それはそうと、あのりんごって？」