2 北北西に進路を取れ

      * * * * *


 

 去年の梅雨入りするかしないかって時期に、そういう事件があったよな。

 大阪の竹林で少女のバラバラ死体が発見された事件。

 警察がいくら探しても、身体のが見つからなかった事件。

 だけが見つからなかった事件。

 犯人がと供述している事件。

 いわゆる快楽殺人ってやつだ。

 殺したいから殺す。

 そうするのが気持ちいいから殺す。

 そういう衝動を持った奴の犯行だ。

 そういう奴はいつの時代でもいる。どこにでもいる。

 たとえば、八〇年前のこの街にも。


      * * * * *


 空を見上げるのはいつ以来だろう。


 ――都会じゃ星なんて見えないよ。


 分厚い雲に覆われた、一月の空。太陽がまだ低いのだろう。雲の隙間から、淡い橙色が覗く。


 ――見えるさ。月だって星だし、冬の大三角だって。


 雪になりそこねたような冷たい雨がぱらぱらと頬を打つ。


 ――だとしても今日は曇り。何も見えないよ。


 かあかあ、と澄んだ声のカラスが上空を横切っていく。


 ――でも、そこにある。なら、感じる。プロキオンやシリウスの白い光、それに――


「あなた、マゾなの?」


 不機嫌そうな声とともに、知佳の視界が影に覆われた。


って言ったわよね?」


 影に焦点が合うと、それは少女の形になった。ナイフで裂いたような切れ長の目が知佳を見下ろしている。逆光だからかほとんど真っ黒に見える、暗い色の瞳だ。


「それに距離もあった」少女は知佳に覆い被さる格好で続ける。「十分避けられたはずでしょう? どうして正面からぶつかることになるのかしら?」


 ――どいてってええええ!


 ぶつかる直前、知佳は少女を受け止めるべく腰を落として踏ん張った。

 しかし、予想外のことが起こった。

 雨に濡れた坂道をあんな勢いで駆け降りたらどうなるか予想すべきだったのだ。


 ――ぎゃん!


 少女は知佳のすぐ手前で足を滑らせた。

 何が起こったか把握する間もない。タイミングを外された知佳は、慣性に引っ張られて突っ込んでくる少女になす術なく押し倒された。


 ――あっぐ!


 リュックがクッションになったものの、背中に強い衝撃が走る。知佳が思わず苦痛の声を漏らすと、それに被せるようにして少女が短い悲鳴を上げた。


 ――ぐふぅ!


「なんとか言ったらどうなの」少女は問う。知佳に覆い被さり、上半身だけを起こした状態で。傍から見れば、少女が知佳を組み敷いているように見えるかもしれない。


 少女は大判のストールを巻いていた。ぶつかった拍子にほどけたらしく、いまは長い黒髪ともに知佳の体にかかっている。少女が身動きする度、頬と首が撫でられ少しこそばゆい。


「避けない理由がないじゃない。ねえ」少女はそう言って知佳の頬を片手で挟んだ。「意味がわからないわ。気持ち悪い。誰も得しないじゃない。見知らぬ他人を押し倒してしまったこっちの気にもなりなさいよ。気まずいじゃない」


 頬を押さえつけられては、何も答えられない。

 背中に雨を受けているだろうに、少女は知佳の上からどこうとしない。だんだん興が乗ってきたらしく、おもしろがるように頬をこねている。


「それにしても――あなた、中高なかこうでしょう? 本当に高校生? こんな赤ちゃんみたいなほっぺして高校の門を潜っていいと思ってるわけ?」


 そこでようやく、少女の首元に目が行った。臙脂色のリボン。知佳と同じ学校、それも同じ学年の生徒らしい。

 それを少し意外に思う自分に気づいた。見た目や喋り方から、無意識に年上だと思っていたらしい。


「ねえ、どんなケアしてるのか教え――」


 少女が言いかけたところで、上から声がかかった。


「ずいぶんと楽しそうね」


 耳に心地よい、澄んだソプラノだった。

 なのに、どうしてだろう。少女は体をぴくりと震わせ、知佳から手を離した。

 心なしか青ざめたようにも見える。慌てたように体を起こし、体をどけた。


 開けた視界に声の主が飛び込んでくる。


 不審者だった。

 白いケーブル編みのスヌードに、不敷布のマスク、サングラス、イヤーマフ。顔のほとんどが何かしらに覆われており、明るいグレージュのロングヘアーがかろうじて女性性を主張している。

 首から下はダッフルコートに制服のプリーツスカート。タイツにローファーという一般的な登校スタイルだ。リュックの肩紐も見える。右手に傘を、左手にビニールバッグを持っていた。


「立てる?」


 不審者はビニールバッグを傘の柄に引っかけ、自由になった手を知佳に差しのべた。


「うん」


 知佳は手をつかんだ。トナカイ柄のミトンに覆われた手を。

 立ち上がると、すぐ間近に不審者の顔があった。柑橘系の甘い匂いがする。不審者の背丈は高くもなければ低くもないが、小柄な知佳は少し見上げなければならない。

 マスクや前髪の隙間からわずかに覗く肌色は、いっそ病的なほど青白い。髪は暗い空の下でも光って見えるほど明るい色で、重力を無視したように軽やかに波打っている。

 しかし、知佳が目を留めたのはビニールバッグだった。何かのショッパーを改造したものらしい。黒地に白いアルファベットが並んでいる。問題は中身だった。りんごだ。おそらくさっき拾ったのと同じ偽物のりんごがいくつか入っている。

 

蒼衣あおい」少女は皮肉とわかる口調で言った。

「そういう夢路ゆめじさんはご機嫌みたいね」不審者こと蒼衣はおっとりと言った。「お姉さん、びっくりしたわよ」

「目が節穴なの?」今度はストレートに罵った。夢路は近くに落ちていた自分の傘を拾いながら続ける。「いまの夢路がご機嫌なら、お不動様だってご機嫌よ」


 蒼衣はそれを流して、知佳に顔を向けた。


「ごめんなさいね。うちの子が迷惑をかけて」蒼衣は軽く頭を下げた。「りんごを見なかった? わたしが落しちゃったの。それをこの子が追いかけて――」

「ちょっと、何謝ってるのよ」夢路は不満そうに言った。「避けない方が悪いのよ。こっちは避けろって言ったし、それだけの余裕はあったんだから」

「わざと避けなかったんでしょう?」蒼衣は知佳の方を向いたまま言った。「避けなかったらこの子が車道に飛び出してたかもしれないから」

「はあ? 何を言って――」夢路は言いながら、坂道の下を見やった。それまでの威勢はどこへやら、絶え間なく横切る自動車に思わず息を呑んだように押し黙る。

「ありがとう」蒼衣は言った。「この子に代わってお礼を言うわ」

「待ちなさいったら」夢路はふたたび食ってかかった。「それは夢路の台詞でしょ。夢路は何も間違えないから謝らないけど、世話になったら礼くらい言うわ」それから、知佳に向き直って言う。「ふん、いちおう言っておくわね。ありがとう」

「別に」知佳は目をそらして言った。「わたしはただボーッと突っ立ってただけ。たまたま、進路上に立ってただけだよ。逆に、自分から止めに入らなければならない状況でも同じようにボーッと突っ立ったままだったと思う」

「あなたね」夢路は呆れたように言った。「人の謝意は素直に――痛っ」


 足を動かした瞬間、夢路は短い悲鳴を漏らした。体勢を崩し、近くの電柱に掴まる。


「大丈夫?」蒼衣は夢路に歩み寄った。

「転んだときひねったみたい」

「なんで早く言わないの」蒼衣は心配そうに言った。「歩ける?」

「肩を貸してくれれば」

「それはいいけど――」

「わかってるわよ。二人とも手が塞がる」


 蒼衣は左手にビニールバッグを提げていた。もう片手には傘。夢路も右手で傘をさしている。肩を組んで支えるなら、手が足りない。


「相合い傘する?」

「ささなくても、傘は持たないといけないでしょ」

「それもそうね」蒼衣は困ったように言った。「そういえばりんごは?」

「あの子が拾ったわよ。ぶつかったとき手放しちゃったみたいだけど」


 そういえば、気づいたらりんごを手放していた。反射的に辺りを見回すが、見当たらない。


「じゃあ、いまごろ坂の下ね」

「いいわよ、別に。ひとつくらい」

「だといいんだけど」

「落としたりんごより、いま持ってるりんごよ」夢路は蒼衣のバッグを示した。「このバッグ、どうするの?」

「そうねえ、コートだから肩にかけてもずり落ちてきちゃうし」

「まったく、元はと言えばそれが元凶なのよ。あのとき、りんごを落とさなければ――」

「落としたりんごより、いま持ってるりんごよ」

「……そうね。で、どうするの?」

「そうね、どこかに余分な腕があるといいんだけど――」

「あの――」知佳が声をかけると、二つの顔が振り向いた。


 知佳ソフィ知佳ソフィと、脳内でアラートが鳴る。


 また厄介ごとに首を突っ込む気じゃないだろうね。それどころではないはずだ。そうだろう?

 夢路とぶつかったのも、りんごを落としたのも、君の過失ではない。恩も負い目も感じる必要はないんだ。


 なのに、知佳ソフィ、いったい何を気にしている?


「何、あなた、まだいたの?」

「もしかして」蒼衣は人差し指を立てた。「空いてる腕に心当たりがあるのかしら?」

「え、うん」

「まあ、それはどこにあるの?」


 知佳は自分の左腕を示した。


「ここに」

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