第一部 供物
1 濡れた果実
* * * * * *
なあ、知ってるか。心臓の取り出し方。
* * * * * *
相合傘が気に入らなかったらしい。
血濡れのように真っ赤なそれは高校生のカップルを引き裂くようにして、歩道の真ん中を転げてきた。
傘の下で、少年が慌てて飛びのき足を滑らした。少女が腕を掴まなければ、そのまま車道に倒れ込んでいただろう。カップルはまるで見えないトラックが通過するのを見送るようにした後、ようやっと背後を気にする余裕を得た。
赤――
真っ赤なりんごだった。
こんな早朝から登校して何をするつもりだったにせよ、まさか果物ひとつに恋路を阻まれるとは思いもしなかったらしい。振り向いたふたつの顔は、楽園を追われたアダムとイヴのように不安げな表情を貼りつかせていた。
りんごがカップルの視線を気にした様子はない。縁石や塀にぶつかる度、軌道を変えながらゆっくりと転がってくる。
まるで猫の散歩のように自由気ままな足取り。
ニュートンやラプラスの悪魔だって、あの軌道は予測できまい。たとえ本格的な通学時間であっても、無数のスニーカーやローファーの間を縫いながら悠々と坂を下りてきただろう――
どうしてりんご?
知佳は鼻をすすりながら思った。坂の上で青果店のトラックでも横転したのだろうか。
いや、だとしたら、りんごひとつ転げてきたのは奇妙だ。もし、そんなことが起こったら、いまごろ野菜と果物の坂下り競争になっていただろう。
スイカ、トマト、みかん、じゃがいも、玉ねぎ、一番早く坂を転げるのは何だろう。
レインウェアのロードサイクル乗りが知佳を追い越していった。気のせいだろうか、一瞬こちらに目線を寄越した気がする。
気を取られた一瞬の間に、りんごは知佳のすぐ目前まで迫っていた。
慌てて捕球体勢に入った。右手は折れた傘でふさがっている。左手を使うしかなかった。
焦ることはない。
ソフトボールの授業ではないのだ。ダブルプレーを狙う必要はなく、俊足のバッターランナーもいない。
りんごを捕ることだけに集中すればいい。そう自分に言い聞かせた瞬間、二回目のくしゃみが出た。
くしゃみの勢いで頭がぶれ、りんごが視界から消えた。
どうしてこんなときに――泣きそうになりながら立ち上がると、手の中にりんごがすっぽり収まっていた。
知佳は驚きとともに手の中を見つめ、三回目のくしゃみをした。
どうしてりんご?
りんごは雨に濡れててらてらと輝いていた。偽物とすぐにわかる、不自然な光り方だった。
きっと、紙粘土にニスを塗っただけの代物だろう。食品サンプルにしては安っぽく、小学生の自由工作にしてはよくできている。
中空になっているらしく、持ってみると意外に軽い。どうりで不規則な動きをするわけだ。
貯金箱だろうか。知佳はりんごのくぼみに指を這わせた。粘土細工と言えば貯金箱だ。知佳も夏休みの宿題でペットボトルに紙粘土を貼りつけペンギン型の貯金箱を作ったことがある。しかし、りんごに穴は開いていない。
じゃあ、いったいなんだろう。
どうしてりんごなんだろう。
問いかけに答えるようにして、四回目のくしゃみが出た。
誰かに噂されているのかもしれない。誰だろう。
この街には引っ越してきたばかりだ。自分を知る人間はほとんどいない。だからきっと、前の学校の誰かだ。
――
誰だっていいじゃないか。知佳は自分に言い聞かせる。そうだ、
――もちろん、うわべだけの友達だって悪くないよ。友達だから腹を割って話さなきゃいけないなんて法はない。ただね、知佳ちー、そういう友だちはいざというとき守ってくれないよ。
胃から酸っぱいものが込み上げてくる。今朝の朝食はヘーゼルナッツペーストを塗りたくったパンケーキだった。それにブレンドコーヒーが一杯。それらと胃液の混合物がせり上がってくるのを感じる。
――だから、知佳ちー。こうしない? わたしと親友になるの。そうしたら、わたしが守ってあげる。世界中を敵に回しても、知佳ちーに味方するよ。
口元を抑えようにも、両手が塞がっている。折れた傘と偽物のりんご。まるで案山子だ。現代アートと言い張るほか何の役にも立たなさそうなガラクタを両手に抱えて突っ立つ案山子。
――もし断るなら、
りんごを手放すべきかと思った刹那、
――これから先、何が起こってもわたしは知らないよ。
坂の上から悲鳴が聞こえてきた。
「どどどどどど!」
りんごから目線を上げると、坂を駆け降りる少女と目が合った。
縦に長い少女だ。長い黒髪を振り乱し、一直線に向かってくる。
「どいてええええ!」
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