10. 三十六計逃げるに如かず
「この世の終わり……?」
「そうだ」
青年はその不可思議な色の瞳に深い色を浮かべて、歌うように続ける。
やがて、その日には全ての封印と
「
ふっと、世界が揺らぐような感覚の後、彼らは丘の上に立っていた。既に日は沈み、あたりは闇に包まれていたが、空には満月までは数日足りないが、鮮やかに丸い月が
その先にあったのは深い穴だった。暗くどこまでも続くような闇の底に、だが何か小さく光るものが見えた。同時に、低く恐ろしい獣の唸り声が響く。その声を聞いて、青年はなぜだかひどく楽しげに笑った。
「……一体何がいるの……?」
「俺の子だ」
「子供……?」
「そう、巨大な美しい灰色の毛並みの、これ以上なく邪悪な生き物さ」
その声に応えるように、もう一度、地の底から低い唸り声が響く。明らかにそれは人の聲ではなかったが、あの八本足の馬がこの青年の子だという話が真実なら、この地の底の気配が彼の子だというのもまた、ありうることなのかもしれない。
「あの声は何?」
「フェンリル——灰色の巨大な狼。やがてこの世界の王を喰らい尽くす者だ」
「あなたの子供が……? なぜ?」
「さあ? そう定められているから、としか」
肩をすくめながらそう言う様子は、どこか面白がる風だった。自分の子が誰かに害を為すことを、何とも思っていないように見える。
「それで、どうして私たちをここに?」
「これが、世界の終わりの始まりをもたらす。だが、お前がいれば、それを回避できる」
じっと見つめる眼は何かを企んでいる。それが何かはわからなかったけれど。
「世界の終わりなんて、そもそも本当に来るの?」
「俺が、望めばな」
飄々とした表情も声もそのままなのに、その響きだけが凍えるように冷たい。口の端を上げて、優しげに笑っているのに、その眼はエルを見ているようでもっと別の何かを見据えているようだった。
世界の終わりをもたらす方法など想像もつかなかったが、この青年にはそれを叶えてしまうだけの何かがあるのだ、と漠然と信じてしまいそうなほどには、その気配は不穏だった。同時にジークが低い唸り声を上げる、今度ははっきりと、敵意を込めて。
「あなたが、望むの? 世界の終わりを?」
「そう、その一人だ。退屈なこの世に飽きるのか、あるいは、何かの復讐なのか。だが、お前がいれば、きっと俺はそんなものを望まずに済む」
エルの頬に触れ、顎を持ち上げる。
「お前は無垢で美しい。俺のそばにいろ。俺がこのまま永遠を望むように。お前の中にある力を、俺が導いてやる」
空いていた手が、エルの胸元にかけられた指輪に触れる。ふわりと風が吹いた気がした。ゆっくりと何かが身体の中から湧き上がり、同時に風がエルの銀の髪を舞い上がらせる。優美な手が襟元から滑り込んで、指輪に直接触れると、さらに光が強くなり、そこから光と共に何かが溢れ出していく。くらりと目眩がしてふらついた体を、いつかのように青年がひどく優しく抱き止める。
「大したものだな。確かにこれだけで、街一つくらいなら一瞬で灰にできる」
恍惚とした声で呟かれたあまりに物騒な言葉に、エルは我に返ってその腕から逃れようとしたが、エルがいくらもがいても、青年は今はもうその拘束を解こうとはしない。その不可思議な色の瞳に、冷ややかな光を浮かべて、それでも声だけは優しく告げる。
「言っただろう、俺はお前を手に入れる」
「離して」
「そのせいで世界が滅びてもか?」
「そんなこと、起きるはずがない」
狼の姿にさえなれない、何の力も持たないエルがこの世界の行く末を左右するなど。エルを包み込む腕は、ひどく温かかったけれど、だからと言ってその腕に自らを委ねる理由も衝動も湧いてはこない。
「なら、理由を作るまでだ」
不穏な笑みを浮かべた青年は、エルの胸元に下げられている指輪を握りしめる。そこから、さらに何かが奔流のように溢れ出す。その力を、青年は穴の底に向ける。
「さあ、出てこいよ。
そう言った瞬間、穴の中から何かが飛び出してきた。土埃と血の匂い。全身に銀色の柔らかそうな紐が絡みつき、走り出そうとする体を押さえつけ、ぎりぎりと締め上げている。そして、大きなその
巨大な灰色狼は血走った眼でエルと彼女を抱きしめている青年を睨み据える。その眼差しは敵意に満ちていて、ひとかけらも親子の情愛など感じさせない。
「……子供、じゃなかったの?」
「まあ、あいつをあんな風に捕えるのを、俺も手伝ったからな」
エルは驚きのあまり目を見開いたが、青年は事もなげに笑う。
「そうしなければ俺が捕えて縛り上げられていた。俺には選択肢なんてないのさ」
言いながら、青年はなおもエルの中から何かの力を引き出し、指先を灰色狼へと向ける。それと共に、大顎に嵌り込んでいた剣が中ほどから折れ、その口がようやく閉じられる。ぎり、と歯軋りまで聞こえそうなほどに灰色狼が牙を剥く。
「さて、お前の牙は解放された。次は
何が楽しいのか、その口に優美で酷薄な笑みを浮かべながら、なおも青年はエルの力を引き出す。エルは背筋が怖気立つのを感じた。
このままではいけない。あれの戒めを解いてはいけない。
あの獣がどんなものなのか、どんな性質を持ち、何を望んでいるのかはわからないが、それを解放してしまえば、とても恐ろしいことが起きる。彼女の中に眠る何かがそう警告する。
「嫌だ、やめて」
「どうして? 壊したって、新しいものが生まれていくだけだ」
灰色狼は自身の身体に巻き付いた銀の紐を噛み切ろうと牙を立てるが、柔らかく繊細に見えるその紐はわずかな傷さえもつかない。それでも、青年が向ける指先から、少しずつ、その銀の紐が緩み始める。ジークが低く唸り、青年の足に噛みつこうとしたが、何かの壁に阻まれでもしたかのように弾き飛ばされる。その身を案じる間もなく、灰色狼に絡みついていた紐がいっそう緩み、今にもこちらに跳びかかろうと身構えた。襲いかかられることよりも、その不吉なモノが解放されるというその事実だけで、全身が震えるほどの恐怖を感じる。
「だめだ……! 助けて……ロイ‼︎」
本当にそれが届くと信じていたわけではない。けれど、まだ子供で、無力な彼女の頭に浮かんだのは、誰よりも彼女を庇護してくれていたその人の名を呼ぶことだけだった。
その瞬間、不思議な花の香りを含む風が巻き起こった。青年が一瞬怯み、腕の力が緩んだその隙に、力強い腕がエルを抱き寄せる。それから、聞き馴染んだ声の、かつて聞いた事もないほどの厳しい怒声が響く。
「呼ぶのが、遅ぇんだよ!」
左腕でエルを抱きしめたまま、剣を構え、青年に相対するその顔を見上げて、けれど、明らかな違和感にエルは首を傾げる。それが、月の光でさえもはっきりとわかる青紫色の瞳のせいだと気づいた。エルが知っているその人の瞳は、真冬の空のような澄んだ青い色をしていたはずなのに。
「ロイ、その瞳……」
「その話は後だ。ジーク!」
呼び声に応えて、ジークが彼らのそばに駆け寄ってくる。ロイはエルの胸元から今なお淡く輝く指輪を、鎖ごと引きちぎると、ジークのその傍らに押しやり、腕を離す。
「これは、返すぜ」
指輪を青年に向かって放り投げ、剣を突きつけたまま、視線を灰色狼へと向ける。銀の紐はまだ絡まったままだが、狼は身を捩り、緩んだところからその紐を引き剥がそうとしている。
「あれは……
「ご名答」
楽しげに答えた青年に、ロイはさらに厳しい眼差しを向ける。
「あんなものを解放したら、この世界が滅びるぞ」
「俺が知らないとでも?」
肩をすくめた青年に、ロイはさらに険しい表情になる。灰色狼は、今にもその銀の紐から抜け出しそうだった。
「戒めを戻せ」
「どうやって?」
「あんたならできるだろう。何だか知らんが、エルから力を引き出した今なら」
「実は、
平然と言い放つ青年に、ロイは何かを考え込むように視線をさまよわせたが、次の瞬間、小さく何かを呟くと、驚くほどの早さで剣を振るった。ごとり、とその音でエルが我に返った時には、青年の左腕が地に落ちていた。むせ返るような血の匂いがあたりに漂う。
「ロイ……⁈」
「次はその首だ。たとえ神族でも、首を落とされれば生きてはいないだろう」
ロイの構えた剣が淡く光っている。その様子を見て、青年が目を丸くしながらも、どこか楽しげに言う。
「へえ、その剣……それにお前のその瞳——魔力を飛躍的に増大させる
死ぬ——その言葉に驚いてエルがロイの顔を見つめたが、彼はただ不敵に笑って、剣を構えたまま、神族の青年を睨み据える。
「あいにくと俺は往生際が悪い上に、薬師なんでな。本業に口出しは無用だ」
「大した度胸だ」
左腕を斬り落とされたというのに、青年は顔色ひとつ変えず、残った腕をひらひらと振る。
だが、そちらに気を取られている隙に、灰色狼がロイに襲いかかった。
「ロイ!」
振り返ったロイが、ぎりぎりでその牙を剣で受け止める。銀の紐は穴の底へと続いており、それが枷になってそれ以上は近づけないようだった。だが、緩み続ける紐が解けるのは時間の問題のように見えた。
「ロキ、銀の紐を戻して」
「嫌だと言ったら?」
灰色狼の牙は今にもロイの喉元に食らいつこうとしている。エルは、そのそばに駆け寄って、剣で開かれた顎に自分の左腕を差し入れた。
「早く、戻して」
まっすぐに睨み据えるように言ったエルに、青年は呆れたような目を向けて、残った右手で髪をかき上げながら、深く息を吐いた。
「腕が千切れたって、お前を抱くことはできるんだぜ?」
「……本気で言ってるの?」
「まあ、お前を傷つけるのは本意じゃない。仕方ねえか」
言って、ふわりと青年が残った右手を閃かせるのと、ロイが強い力でエルを抱き寄せて、灰色狼から飛び退くのがほとんど同時だった。目を向ければ、銀の紐は再び強く狼を締め上げ、その拍子にその大きな顎を食いしばる。あと一瞬遅かったら、エルの腕は食いちぎられていただろう。
銀の紐はさらに獣をぎりぎりときつく締め上げ、やがて、下の穴の中に引き摺り込んだ。後には怒りに満ちた咆哮だけが響き渡る。
最悪の事態は避けられたのだ、とエルはほっと息を吐いたが、ロイは懐から何かの小瓶を取り出すと、栓を抜いて、それを口に含んだ。その瞬間、エルでさえはっきりとわかるほどに、強い魔力の気配が満ちる。
「ジーク、来い!」
その声に弾かれたように黒狼が駆け寄り、ロイがエルをきつく抱き寄せた。見上げたその瞳は、先ほどよりもさらに濃い紫色に染まっている。
「ロイ、何を……」
「逃げるに決まってんだろ」
ニヤリと笑って、それから呆然とした様子の青年に視線を向ける。
「こいつらは返してもらう」
「お前……死ぬ気か?」
「余計なお世話だ、と言っただろう?」
ロイはなぜだか不敵に笑って、そうしてエルを抱く腕に力を込めた瞬間、視界は白く眩い光に包まれた。
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