7.早朝の惨事

 叫び声が夢の世界のものではないと気付いたのは、早朝のことだった。


 ベッドの上で目を醒ました俺は、壁越しからうっすらと響き渡る悲鳴に思わず身を起こした。


 完全防音でないにせよ、普通なら隣の家から物音なんて聞こえないはずなんだけど……。


 枕元の時計は五時十一分を過ぎていて、朝日がカーテンの隙間から漏れ出している。


 まどろみの中で迎えた一日の始まりは、次の瞬間、はっきりと聞こえた声によって打ち壊された。


「みうっ! みうちゃんってばぁっ! これどうしたらいいのぉっ!? 黙って見てないで助けてようっ! 助けてってばぁ!」


 かのんの叫び声だ。こんな朝早くに何があったのだろうか?


 ――もしかすると、かのんの身に危険が起きていているのでは?


 そんな思いが瞬時に頭の中を駆け巡る。湧き上がる心のざわつきを抑えきれず、俺は勢いよく立ち上がると、そのまま玄関に向かって走り出した。


***


 三〇二号室のチャイムを何度も鳴らし、ドアを激しくノックする。


「かのんっ! 星月さんっ! 俺だっ! 岡園だっ! 声が聞こえたけど、二人とも大丈夫かっ!?」


 ドアを叩きながら声を上げていると、やがてバタバタという足音が近づいてくるのがわかった。


 そして玄関が開かれたと思いきや、中から星月さんが現れたんだけど、問題はその格好で。


 コットン生地の部屋着の上からパーカーを羽織り、ガスマスクを着用しているというアンバランス極まりない姿に、俺は言葉を失うのだった。


 アレだ、戦争モノの映画とかでよく見るタイプのヤツ。


 とにかく首から上はいかつい装備のまま、星月さんは頭を下げた。


「おはようございます。早朝からお騒がせしてすみません」

「それはいいけど、これ……ゲホッ……、なにがあったんだ……っていうか、それ……」

「ああ、これですか? ある程度予想しておりましたので、万全の備えをしておこうかと」


 しゅこーしゅこーと呼吸音を漏らしながら、星月さんは部屋の中を示した。


「とにかく中へどうぞ。こうなった理由はすぐにわかると思います」


***


 大惨事だった。


 キッチンに通された俺を出迎えたのは、流し台へ山と積まれた調理器具と、黒煙が立ち上るフライパン、薬を調合している魔女の鍋を思わせる紫色をした液体で満たされた鍋、そして涙目のかのんだ。


 なるほど、把握した。


 惨事を生み出した張本人はといえば、ようやくこちらに気付いたらしく、何度も青い瞳を瞬きさせては動揺の声を上げている。


「へぅぁ!? れ、れ、れ、蓮くんっ!? ど、ど、どうしてウチにっ!?」


 涙目のまま右往左往するかのんに、ガスマスクを付けた星月さんが頭を下げた。


「私がお通ししました」

「部屋へ上がるのは悪いとは思ったけどさ、朝っぱらから悲鳴が聞こえたんだ。どうしたのかって心配になるだろ?」


 フォローするように続ける俺を見やって、かのんはバツの悪そうな顔を浮かべている。


 ……はあ。話を聞くにも、ひとまずこれをどうにかしないとな。


 詳しい事情は片付けをしながらと肩をすくめ、俺は魔境と化した台所の掃除を始めたのだった。


***


「つまりはこういうことか? 料理なんかしたことないけど、いいところを見せようと思ってお弁当作りを名乗り出た、と」


 ようやく洗い終えた食器類の水気を布巾で拭き取りつつ、俺は大きくため息をついた。


「昨日の自信満々って感じは何だったんだ、おい」

「し、仕方ないじゃない! でっ、できると思ったんだもん!」


 煙まみれの部屋着から制服に着替え、身だしなみを整えたかのんが反論すると、そこへ星月さんも加わった。


「ふふん。驚きましたか? 計画に能力が伴わないという、かのんお嬢様のダメダメな行動力!」

「いや、わかってたんなら止めろよ」


 自分の主が大惨事を招いたっていうのにメイドがドヤ顔とか、一切わからないんだけど。


 まあ、昨日、星月さんが言っていたポンコツとか、ダメダメって意味はなんとなくだけどわかった気がする。


「だって……だって……」


 すっかりと落ち込んでしまったのか、かのんは青い瞳を潤ませ、小さく声を漏らした。


「ずっと会いたかった蓮くんと、ようやく再会できたんだもん……。頑張っていいところ、見せたかったんだもん……」


 ポツリポツリと呟く姿は胸を締め付けるに十分すぎるものだったけれど、黒髪のメイドにとっては日常茶飯事だったみたいだ。


「大丈夫ですよ、かのん様。そんなに張り切らなくても、いつも通りのお姿をご覧に入れたらいいではないですか」


 優しく励ます様子にいいこと言うじゃんと思ったのも束の間。星月さんは更に言葉を続けた。


「良く言えば無鉄砲、悪く言えばへっぽこなそのお姿も、岡園殿は受け入れてくれますよ。……たぶん」

「どっちも悪口じゃないっ!」

「スミマセン、つい本心が」

「むー!! なによぅ! 助けてくれなかったクセにぃ!!」


 そして始まるかのんと星月さんの小競り合い。なにを見せられてんだ、コレ?


 ともあれ、だ。


「二人とも、そこまで」


 朝っぱらからケンカは良くない。いや、ケンカかどうかはわかんないけどさ。


「星月さん。人には不得手なことがひとつやふたつはあるんだからさ、そんな風にポンコツとかダメダメとか言うもんじゃないよ」

「……申し訳ありません」


 諭すように声をかけると、星月さんは素直に反省し、そしてかばったことを嬉しく思ったのか、かのんは瞳を潤ませて俺を真っ直ぐに見やった。


「蓮くん……」

「かのんも」

「へぁ?」

「気持ちは嬉しいけれど、無茶な真似はしないように。刃物だって使うんだ、慣れないことで怪我をしたら大変だろ?」

「……ゴメンナサイ」


 しゅんと肩を小さくするかのん。うーん、そんなつもりはなかったけど、場が暗くなってしまったな。


「……とにかく」


 俺は強引に話を打ち切り、そして努めて明るく二人へ語りかけた。


「みんなで朝ごはんにしよう」

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