第3話

 六月に入り、一年も折り返しに差し掛かった。

 激しい雨粒が車窓を叩き、車内に響く雨音のセッションを聞きながら後、半年で不要になる赤いランドセルの中から図書室で借りた本を眺める。

 学校帰りはいつも小百合と一緒だけど、学級委員の仕事があり、帰りが遅くなるということで小百合は先に帰った。

 車内は雨だというのに私以外の乗客はいなくて、外の雨模様も相まってどこか寂し気な雰囲気がありました。

 こんな時に隣に小百合が居てくれたら、少しは寂しさを紛らせたのだろう。

 だけど、ありえないことを考えても仕方がない。本で必死に寂しさを紛らわせ、バスに揺られること約三十分。ようやく最寄りのバス停に降車した。

 傘を開き、雨の中、自宅に向かって歩き出す。

 雨ということで、外出している人は一切見当たらなくて、孤独という恐怖が背中を撫でる。

 さらに学校で見た不審者対策の映像がまさにこの状況と酷似していて、もしかして、どこかで不審者に狙われているのかと思ってしまい、さらに恐怖が増す。

 でも、この恐怖は杞憂に終わり、何事もなく自宅に着くことができた。

 私はほっと胸を撫でおろす。

 この時、私はまだ本当の恐怖に襲われることをまだ知らなかった。

 「ただいま」と言いながら、ゆっくりと戸を開けた。

 私はここで違和感を覚えた。帰宅の際はいつもなら母や小百合の「おかえりなさい」という声が返ってくるはず。だが、この時は声一つも返ってくることないどころか家の中は生活音一つ聞こえず、しんと静まり返っていて、まるで廃墟のような不気味な空気が漂った。

 もしかしたら買い物にでも行ったのかもしれない。

 いや、それはないか。なぜなら玄関に母の靴があり、ついでに小百合の小さな革靴も並べられている。

 別の靴で出掛けたにしても、それなら戸締りをしないのはおかしい。いくら人の少ない田舎とはいえあまりにも不用心だ。

 それにもう時計の短針は五を指している。そもそも黒澤家は大体六時頃に夕食を摂ることになっているため、今の時間に夕食を準備していなければ間に合わない。

 買い忘れでもあったのかと考えられるが大雨の中、わざわざ買い物に向かうのは一苦労。そもそも生真面目な母がそんな間違いを起こすとは思いませんでした。

 数多の不安と違和感を胸に抱きながら私は靴を脱ぎ、家に上がりました。

 奥へ奥へと歩を進める度に木製の廊下が軋む音が響く。額から汗が流れ、首が絞めつけられるような息苦しさを感じたのです。肌に触る不気味な風。呼吸音一つ聞こえない空間。そして、微かに漂う焦げ臭さ。 

 脳裏に最悪の事態が思い浮かび、慌てて台所へと向かう。

 廊下と台所を繋ぐ、引き戸を開けると顔に黒い煙が当たり、煙の臭いが染みて、むせる。

 私はポケットからハンカチを取り出し、口に当て、急いで煙の元へと向かう。そして、コンロの栓を締め、次に予め開いていた換気扇と窓を全開にして、空気を入れ替える。

 煙が外に逃げていき、段々と台所の惨状が明らかになっていく。

コンロに置かれた丸焦げで黒くなった四匹の魚の塩焼と網。隣にはグツグツ煮え切ったみそ汁の入った鍋があった。

 ふうと一息つき、額の汗を手の甲で拭う。危うく火事になるところだった。特に木造住宅の天海邸なら一瞬の内に火が燃え広がり、大惨事になっていただろう。

 それにしても、火事一歩手前まで料理を放っておいて、母はどこに行ってしまったのだろう?

 真面目な母が家事を放っておくとは思えない。一酸化炭素中毒で倒れてしまっているのかと思っていたが、台所おろか隣接する居間に母の姿はない。そもそも全開でないにしろ換気扇が回っている時点でその可能性は低い。

「それにしても……お父さんも小百合も見当たらない……」

 母が見当たらないのも心配だが、先ほどから先に帰っているはずの小百合も父がいないのも気がかりだ。

 普段なら父は五時前に帰宅しているはずだ。

「もしかしたら……」

 一つ心当たりを思い出す。父はあまり居間にいることはなく、自室で仕事や読書にふけていることが多い。

 私は恐る恐る父の部屋へと向かう。

少しだけ足が震える。というのも黒澤家には父の部屋は許可しに入ってはいけないとルールがある。仕事に関する重要な資料があり、時には大事な商談をする部屋ということで見栄えよくするために綺麗にしておきたい、邪魔にならないようにするために決められた。

 だから、父の部屋に入るのはいつも緊張するし、抵抗もある。でも、こんな非常時に悠長な事を思っている場合ではない。

 いよいよ、父の部屋の前に着く。

 一つ深呼吸して、ゆっくりと戸を叩き、

「お父さん、失礼します」

 と部屋に向けて、声をかける。

 しかし、部屋から一切返事はない。

 おかしいと直感が告げる。いくら厳格な父とは言っても、娘を無視するほど冷たい人ではない。

 戸に耳を当てて、音を聞いて、存在を確認するが、一切聞こえない。部屋にいないのだろうか。なら、どこにいる。

 寝ているのだろうか。もしくは一酸化炭素中毒によって倒れてしまったのか。

 もしそうなら一大事だ。私は意を決し、戸を開ける

 その瞬間、私は絶句する。

「えっ……あぁ!」

 膝からガクッと力が抜け、尻餅をつく。思わず目を開いて、その有様を凝視してしまう。

 本当にこれは現実なのだろうか。夢ではないのかと疑いたくなり手の甲を強く抓る。

 残念なことに痛みが感じられた。

 私の目の前に広がる光景は地獄。そうとしか言いようがなかった。

 私にとって馴染みのある和室。中心には漆塗りの机が置かれ、床の間には綺麗な生け花が飾られ、有名な画家が一筆し掛け軸がかけられている、障子や襖、畳といった日本の良さが表された、奥ゆかしい空間。

 しかし、そんな空間に似合わない赤黒い染みが畳や壁、さらには天井にまで付着している。

 畳の青臭さ、お香の香りは全くせず、代わりに鉄の臭いが充満している。

 何より、目を引くのが部屋の中心で仰向けに倒れて

いる者と壁際にもたれ掛かるうつ伏せに転がる二人の遺体。

 壁にもたれ掛かっているのは母だ。憧れている腰まで伸びる黒髪の先端は血で赤くなっている。周辺に血と引っ張られたのか黒髪の束が幾つか落ちている。

 首には横一線に深い切り傷がついており、傷口から流れたであろう血によって首回りと鮮やかな桃色の着物は赤黒く染まっている。

 そんな母の前でうつ伏せに倒れているのは恐らく父だ。顔は見てないがあの大きな背中を見間違えるわけがない。

 そんな大きな背中には三つ程、小さな穴が空いており、そこから血が滲み、藍色の着物を黒く染めている。

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