第14話 ルシアン・キャッツ

 兄から電話が来たのは、ふきのとうが綻び始めた頃だった。


「尊、うちの嫁が妊娠したんだ。お前、とうとうオジサンになるぞ」


「マジかよ? おめでとう、兄貴」


 三つ年上の兄は生真面目な男だ。俺がバーテンダーになったと聞いてあまり良い顔をしなかったが、最近では認めてくれるようになった。

 でも、その理由が「尊がやっと本腰入れて打ち込めるものができたなら」だという。彼から見ると、俺はかなりフラフラしているように見えたんだろう。


「ところで、お前の仕事はどうだ? 最近じゃ不景気で大変だろう」


「まぁ、雇われだけどなんとかなってるよ」


「そうか。子どもが生まれたら顔を出せよ。母さんが心配してた」


「わかったよ」


 携帯電話を切り、ため息まじりにベッドに寝転がった。


「あの兄貴がパパねぇ」


 堅実な性格の兄は、大学を卒業後、大手の会社に勤務し、大学時代に知り合った恋人と結婚した。俺は結婚どころか、惚れた女にぶつかっていく勇気も持てないままだってのに。同じ兄弟でも雲泥の差だ。


「オジサンか......嫌だな」


 子どもが生まれたら、絶対オジサン呼ばわりさせないぞ。そう決意し、寝返りを打つ。


 兄の知らせは、微笑ましく感じると同時に、ちょっと寂しくもあった。俺たちは仲の良い兄弟だったが、兄が結婚してからはちょっと遠のいてる。


 同じ血を分けた兄弟なんだけど、まるでよその家族みたいに感じるときがある。

 父親と母親の夫婦二人という家庭。兄夫婦とこれから生まれて来る子どもという家庭。そして俺は一人。


 それぞれが別なんだ。家族だけど、一緒じゃない。血が繋がった身内だろうが、踏み込めない見えない壁があるんだ。


 そう感じるとき、俺は独りなんだと思い知る。何故か無性に、取り残されたような、置いてけぼりにされたような気分だった。こういうのを寂しいというのだろう。


 その日、琥珀亭で真輝さんにオジサンになるという話をすると、「おめでとうございます」と言ってくれた。


「男だったら一緒にキャッチボールするのが夢ですけどね。女だったら一緒におままごとでもしようかな」


「尊さん、気が早いですよ」


 真輝さんが笑っている。だが、俺は違和感を覚えた。どうも彼女は心から笑っているようには見えなかったんだ。


「真輝さん、子ども好きですか?」


「嫌いではありませんけど、どう接していいのかわかりませんね。私の周りには子どもはいませんから」


 そう言われてハッとした。そういえば、正義さんと真輝さんには子どもがいなかったんだ。


「まぁ、今ではスモーキーとピーティーって家族がいますから、もう子持ちみたいなものですけど」


 そういえば真輝さんから家族の話を聞いたことがほとんどない。兄弟がいるのか、それとも一人っ子なのかもわからない。なにより気になるのは、両親の話すら耳にしたことがなかったことだ。彼女は家族と疎遠なのかもしれない。それとも天涯孤独の身なのだろうか。


 ずいぶん一緒に働いてきたような気がしていたけれど、俺は思ったより真輝さんのことを知らないんだ。そう気づいてまごついた。

 目の前の真輝さんが寂しそうに見えるのは、彼女に家族がいないせいなのか、それとも俺が寂しさを覚えているせいなのか。


 とにかく何か言わなきゃと思っていると、真輝さんが先に口を開いた。


「そうそう、尊さん。今度の日曜日、尊さんにお隣さんができますよ」


「へ? 誰か入るんですか?」


 この琥珀亭が入っているアンバービルの三階には俺が借りている部屋の他に、もう一つ空き部屋があった。そこに新しい住人が決まったらしい。


「どんな人ですか?」


「尊さんもよく知ってる人ですよ」


「まさか、暁さんじゃないでしょうね?」


「さぁ、どうでしょう?」


 真輝さんが悪戯っぽく微笑んだ。さっきまでの憂いだ光は、もう目から消えていた。


 日曜日、騒がしい物音と大勢の話し声で目覚めた。


「うるせぇ......」


 人の貴重な睡眠時間を邪魔しやがって。舌打ちしながら寝ぼけ眼で窓を開けると、下で段ボールを持つ引越業者たちが忙しなく動いている。


「あ、そういえば、新しい人が来るんだっけ」


 どんな人かな?

 重い瞼をこじ開けて外を見つめる。段ボールの山の陰に、照り輝く大きな楽器のケースを見つけて、目をぱちくりした。


「なんのケースだろ?」


 ハードケースはギターにしては大きいし、幅もあった。入居者は音楽をたしなむ人らしい。演奏が下手でなければいいけれど。


 そんなことを考えていると、忙しなく動き回る人の中に、見覚えのある顔を見つけた。相手も俺を見つけ、大きく手を振ってきた。


「尊さん、おはようございます! よろしくお願いしますね!」


 そう元気に叫んでいるのは大地だった。


「新しい住人ってお前だったのか!」


 そうか、あのケースはチェロのケースか。

 一気に目が覚めた俺にとどめをさすように、大地がこう言った。


「はい! 家出してきました!」


「はぁ? なんだって?」


 大地は爽やかな満面の笑みで白い歯を見せた。


「親父と喧嘩して飛び出てきました。しばらく厄介になりますね」


 今日は目覚めのコーヒーは不要のようだった。俺は慌てて顔を洗って着替えると、大地のもとへ駆けつけたのだった。


 荷物を運ぶのを手伝ってやると、引越しを終えた大地は、挨拶代わりにタオルを持ってきた。


「上がれよ。コーヒーくらい出すから」


 俺が言うと、大地は「遠慮なく」と好奇心丸出しの顔で靴を脱ぐ。


「へぇ、俺の部屋と左右対称の造りなんですね! 面白いなぁ。尊さん、綺麗にしてるじゃないですか」


「そりゃ、どうも。そこらへんに座ってくれ」


 やかんを火にかけながら、俺は口を開いた。


「で、家出ってどういうことだ? なにかあったのか?」


「俺、今まで実家暮らししながら、板前修業してたんですよ。......でも実はチェロを弾き続けたいって夢があって」


 思い出した。そういえば真輝さんのお祖母さんがお凛さんの孫にもチェロを教えてたって言ってたっけ。


「高校を卒業する頃、本当は音大に行きたかったんですけど、親父が小料理屋を継いでくれって揉めたんです」


「いいじゃないか。板前も好きなんだろ?」


「好きですよ。だけど、チェロはどうしても捨てられませんでした。ばあちゃんみたいにオケで活動したり、子どもたちに教える生活にずっと憧れていたんです」


 なるほど。顔は似なかったが、中身はお凛さんに似たらしい。


「俺、親父に言ったんですよ。納得するまでチェロ弾かせてくれって。そしたら殴り合いの喧嘩になって」


 思わず、大地の父親の顔を思い出した。いかにも頑固親父という風貌だったが、物静かで温厚に見えたんだが。よほど揉めたということか。


「まぁ、結局はばあちゃんが間に入ってくれて、音大受験のチャンスをくれたんですよ。ただし、ばあちゃんの出した条件が受験は来年の一度きりってのと、一人で自炊生活しろってことだったんです」


「それでここに? ハードだな。生半可なことじゃ受からないだろ」


「そうですね。でも、俺はやりますよ。そのためにずっとチェロと並行してピアノも続けてきたんです。真輝さんがここでならいくらでもチェロを弾いてもいいよって言ってくれたし」


「まぁ、普通のアパートじゃチェロなんて弾けないよなぁ」


「そんなわけで尊さん、よろしくお願いします」


「いいけど、俺が寝てる間は弾かないでくれよ」


「俺のチェロは良い子守唄になりますよ」


「そういう言い草がお凛さんそっくりだな」


 俺は笑ってコーヒーを差し出す。大地は美味そうにそれを啜った。


「千里も応援してくれてるんです。いつも支えてくれるんですよ。ありがたいです。千里のためにも頑張らなきゃ」


「そうか。いいな、夢があって。若さだな」


「尊さん、おじさん臭いです」


「もう正真正銘オジサンだよ。今度、兄貴に子どもが生まれるんでね」


 それから大地は音大のことや、千里ちゃんのことを顔を輝かせながら話していった。


 すべてがこれからなんだな。

 そう思うと、まだ二十代だというのに、自分がめっきり老け込んだ気分になる。


 夢を持ったことのない俺には、目標に向かってがむしゃらに突き進む彼が本当に羨ましく思えたんだ。


 うちの父親は会社員だし、自営業の事情はわからないけれど、それは大きな覚悟なんだろう。屈託なく笑う大地の顔が、やたら眩しかった。


「コーヒーごちそうさまでした。俺、ばあちゃんのところに挨拶行ってきます。これからいろいろ受験の準備をサポートしてくれるみたいなんで」


 大地がそう言って立ち上がったとき、音もなくピーティーが俺の寝室から出てきた。


「お、ピーティーじゃん! 元気だったか?」


 顔を輝かせて大地がピーティーの顎をさする。ピーティーは目を線にして喉を鳴らしていた。


「こいつ、なんでか俺の部屋に入り浸りなんだよな」


「鰹節の匂いでもするんですかねぇ?」


「そんなわけあるか。お前は料理人なんだから鼻がきくだろ? 今ここで鰹節の匂いがするか?」


 呆れ顔の俺に、大地が笑う。


「こいつ、毛並みが良くなりましたね。真輝さんが拾ってきたときはガリガリのチビだったんですよ。可哀想に、兄弟たちと墓地に捨てられたのを真輝さんが拾ったんです。助かったのはスモーキーとピーティーだけだったんですよ」


「墓地?」


「はい。多分、正義さんの墓参りで見つけたんですよね。スモーキーたちが来てからは、真輝さんは泣かなくなりましたよ。少なくとも俺たちの前では」


 大地は無防備に正義さんの名前を出した。どうやら、彼は俺が正義さんのことを知っているとわかっているようだった。


「あのときの真輝さんの顔、俺は絶対忘れません」


「どんな顔だ?」


「泣いてないのに、泣いてるような顔って初めて見ましたよ。こんなこと言うと叱られるかもしれないけど......ピーティーたちを抱いて『新しい家族が欲しかったから』って言ったとき、心底真輝さんを不憫だと思いました」


 俺は胸が塞がれる気がした。正義さんという家族を失った彼女は、鳴いているスモーキーたちを見て何を思ったのだろう。


 大地がすっくと立ち上がる。


「......喋り過ぎました。俺、いっつも口が軽いって千里に叱られるんです」


 そう言って、彼はバツの悪そうな笑みを浮かべた。


 翌日、店じまいを終えた俺と真輝さんは、カクテルの本を手にカウンターで話し込んでいた。今月のおすすめカクテルを選ぶミーティングだ。


「春らしいカクテルもいいですけど、いかにも琥珀亭って感じがするカクテルでもいいですよね」


 真輝さんがカクテルの本をパラパラめくりながら言う。


「いかにも琥珀亭って、琥珀色ってことですか?」


「ううん、そうなりますかね」


「春っぽい色のカクテルでもいいですよね。ベタだけど桜とか連想するような」


「チェリー・ブロッサム? スプリング・オペラは手がこみすぎかな」


「じゃあ、やっぱり、いかにも琥珀亭な路線のほうを狙ったらどうです?」


「琥珀色のカクテルならウイスキー・ベースかしら?」


「それか......スモーキーとピーティーを連想させるようなやつはどうですかね?」


「スモーキーとピーティーですか?」


「特にピーティーなんか、いつも店の前の自動販売機の上にいるじゃないですか。すっかり琥珀亭の顔ですから。猫を連想させるようなカクテルはどうです?」


 こうして、今月のカクテルは『ブラック・ルシアン』と『ホワイト・ルシアン』になった。


 ウオッカとコーヒー・リキュールで作る黒いカクテルが『ブラック・ルシアン』で、それに生クリームをかけると『ホワイト・ルシアン』になる。どちらも甘くて飲みやすいけれど、実はアルコール度数は強めのカクテルだ。


 それぞれに黒猫と白猫のイメージを重ねたのは、見た目の色だけじゃない。美味しいと思ってうっかり飲みすぎるととんでもない目にあうところが、一筋縄ではいかない気まぐれな猫みたいでいいねという話になった。


 真輝さんが手早く作って、二つのカクテルをカウンターに並べて見せる。


「ふふ、この発想はありませんでした」


 真輝さんが愉快そうに笑った。


「そういえば、ピーティーはすっかり尊さんに懐いてるみたいですね。いつも部屋にお邪魔してるみたいで、すみません」


「いえ、いいんですよ。俺も家族が増えたみたいで嬉しいです」


 何気ない一言に、真輝さんの笑顔がひきつったのを俺は見逃さなかった。


「真輝さん、訊いてもいいですか?」


「なんでしょう?」


「どうして、スモーキーとピーティーって名前にしたんです?」


 俺はちょっと躊躇した後にそう訊いた。夫の眠る墓地で拾った猫の名前にどんな想いをこめたのだろう。


 言葉を詰まらせた後、彼女はふっとため息をもらした。


「私の悪いクセです。あまり自分のことを話したがらないので、壁を作っちゃうんですよね。尊さんにはなるべくありのまま話そうって決めたのに」


 真輝さんがブラック・ルシアンを口に含んだ。


「あの子たちの名前は、元々は主人が学生の頃に飼っていた猫たちにつけていた名前です。正義はウイスキーが好きでしたから、いかにもって感じの名前ですけどね」


 なるほど、『スモーキー』も『ピーティー』も、ウイスキーの味を表現するときによく使う言葉だ。

 真輝さんがふっと消え入りそうな笑みを浮かべた。


「正義の墓参りのとき、墓地であの子たちを見つけたんです。そのとき、正義が天国から自分の飼っていた猫たちを送り届けてくれたように感じました。少しでも私が寂しい想いをしないようにって」


 こんな話題をふったことを後悔した。真輝さんの顔があまりに寂しそうで、見ていたくなかった。


「墓地であの子たちを見つけたとき『私の家族になる?』って問いかけたんです。そうしたら、あの子たちは必死に鳴き続けました。だから、連れてきたんです」


 そう言って、真輝さんはふっと自嘲するように笑う。


「そりゃあ、猫だもの、鳴きますよね。私はずるいから、答えがわかっているのにそんな質問をしたんです」


「そんな、ずるいだなんて」


 俺が眉をしかめると、彼女は首を静かに振った。


「スモーキーたちを連れ帰ったとき、大地が『この子たちの命の恩人ですね』って言ってくれたんです。でも私は『新しい家族が欲しかったから』って答えました。私は自分が可愛いだけでした。別にスモーキーたちの命を救おうと思ったんじゃない。自分の寂しさを埋めることだけを考えていました」


「そんな卑屈にならなくてもいいじゃないですか。結果的にはあいつらを救ったんだし、家族が欲しいって気持ちは変じゃないですよ。俺だって欲しいです」


 すると、真輝さんが静かに言った。


「尊さんなら、きっと良い家庭を築けますね」


 やめてくれ。そんな他人事みたいに言わないでくれ。俺は......真輝さんがいいんだ。

 だけど、それは言葉にできなかった。目に見えない壁で拒絶されたような気がして、それを踏み超える勇気も勢いもなかった。


 立ちすくむ俺に、真輝さんがこう言った。まるで吐き捨てるように。


「言ったでしょう? 私はずるいんですよ。尊さんが思ってるより、ずるくて我がままです」


 強く拳を握りしめ、声を張った。


「俺はそう思いません」


「いつか、尊さんも気づくと思います。尊さんは優しすぎるときがありますから」


 訳がわからない。ただ、真輝さんの口調がおかしいのはわかる。なんだってこんなに突っかかるんだろう? いつもより情緒不安定で、どこか自棄になっているようにも見えた。


「真輝さん、変ですよ。なんでそんなこと言うんです?」


 真輝さんは唇を噛んだ。


「私は怖いんです。いつか尊さんに軽蔑されそうで」


「......しませんよ」


 呆気にとられる俺に、彼女は乾いた笑みを浮かべた。


「そうだといいです。......本当に」


「もう、真輝さん! またすぐに一人で溜め込むんだから。悪いクセですよ」


「それって、尊さんのせいでもあるんですよ?」


 彼女は困ったように言うと、蝶ネクタイをポケットに押し込んだ。


「今日はもう寝ます。おやすみなさい」


 彼女は俺の返事を待たずに琥珀亭を出て行ってしまった。

 取り残された俺は、呆気にとられてしまう。


 俺のせいでもある? 俺、一体何をした? まったく、女心ってやつは猫の気持ちよりもわからない。


 俺はやりきれない思いで、目の前のカクテルを見た。二匹の猫に例えたカクテルが、冷たく光っていた。

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