第13話 雪国に赤い月がまた昇る 後編

 その後、真輝さんは二日間寝込んだ。


 俺とお凛さんが交代で看病しに行ったが、真輝さんは「すみません」と繰り返してばかりだった。


 一方の俺はというと、真輝さんの目をまっすぐ見れないでいた。あのときの唇が思い出されて仕方なかった。だけど、それを必死で誤摩化した。


 三日目の夕方、出勤前の俺が見舞うと、真輝さんはカーディガンを羽織ってベッドに起き上がっていた。大分血色がいい。けれど、無理は禁物だ。


「真輝さん、念のため今日まで休んでください。店は俺がやりますから」


「すみません、尊さん。私の自己管理がなってないせいで」


 彼女はずり落ちかけたカーディガンを寄せ直す。その手がある胸元に目が吸い寄せられて、思わず視線をそらしてしまった。俺は平静を装って言う。


「いいんですよ。お粥、もっと作りましょうか?」


 最初は喉の痛みでお粥を飲み込むのも一苦労だったが、今朝から大分食べられるようになったみたいだ。


「今度は中華風にしましょうか? それとも卵粥がいいですか?」


「あ、じゃあ中華風がいいな」


 真輝さんがふっと笑う。本当に、この人はたまに子どもっぽい顔をする。

それが仕事のときの顔とはまた別人で面白かった。


「わかりました。開店前には持ってきます」


「楽しみです」


「その調子なら、明日には大丈夫ですね」


 ほっとした。でも、何よりほっとしたのは、あのとき俺が彼女の唇を触ったことを覚えていないことだった。


 あの翌日、俺は恐る恐る様子を見に行った。そのとき、彼女は部屋に戻って寝入ってからのことは全然覚えてないと言った。


 その言葉に安堵しながら、こんなにビクビクするくらいなら唇なんか触らなきゃいいのにって思ったけど、こらえきれなかったんだ。それに気づいたとき、俺の中で何かが首をもたげた気がした。


 その週の日曜、俺は暁さんの店にいた。

 最近では日曜になると『エル ドミンゴ』で夕食をとるのがすっかり習慣になっていた。料理の盛り付けも参考になるし、なにより美味いからね。


「暁さんって、真輝さんの部屋に入ったことあります?」


 なんとなく訊いてみると、暁さんは「あぁ」と素っ気なく頷いた。


「正義が生きてるうちは何度か遊びに行ったよ」


「じゃあ本棚の本、見ました?」


「本棚? それがどうかした?」


「いえ、実はこの前、真輝さんの本棚を見たときに......」


 そこまで言うと、暁さんが目をむいた。


「尊君、真輝の部屋に入ったの? なんで?」


「あ、変な意味じゃないですよ!」


 俺が慌てて弁解する。真輝さんが寝込んだときの様子や、もう仕事に復帰したことを話すと、暁さんの表情に安堵が浮かんだ。


「まったく、あいつは昔から無茶ばっかりして」


 なんだか、お凛さんと同じようなことを言っている。


「それで、本棚がどうした?」


「あぁ、それで彼女の本棚にある本って、シェイクスピア以外はジャンルも作家もバラバラじゃないですか。何を基準に選んでるのか気になったんですよ。暁さん、何か知ってます?」


「なんだ、尊君、わからないのか?」


 彼は途端にいたずらを企む少年のような笑みを浮かべる。


「あれは元は正義の本なんだけどね、ちゃんと法則があるんだ。シェイクスピアは別格だから除くけど」


「法則ですか? てんでバラバラでしたよ」


「そんなこと真輝に訊けばいいだろ」


「なんか......正義さんの本なのかなって思ったら訊きにくくて」


「あぁ、そうだよな。まぁ、ヒントはあげるよ。謎解きみたいで面白いから、答えは言わないけど」


 そう言うと、彼はウオッカを取り出した。


「まぁ、ほとんど答えみたいなもんだけどな」


 やがて差し出されたのは、美しいショート・カクテルだった。


 グラスの縁を砂糖で飾るスノー・スタイルで、澄んだ色の酒だ。そのグラスの底には緑色のマラスキーノ・チェリーが沈んでいる。


「雪国というカクテルだよ。ウオッカ、ホワイト・キュラソー、ライム・ジュースをシェイクする」


 暁さんがレシピを教えてくれた後に、「ちなみに、これはサービスだから気兼ねなく飲んで」と笑った。


「このカクテルがヒントだよ。もう答えがわかるだろ?」


「全然わからないです。確かに本棚には川端康成の『雪国』もありましたけど」


「他に何の本があったか覚えてる? ヘミングウェイと、レイモンド・チャンドラー、あとは『ゴッドファーザー』もあったはずだぞ」


「そう言われてみれば、そんな気もします」


「尊君、これでわからなかったら鈍いなぁ。すごくわかりやすい本ばかりだと思うけど」


「そうですか? 普通わかりませんよ」


「じゃあ、千里ちゃんに訊いてみるといい。あの子は司書だから本に詳しいし。市立図書館にいるはずだから行ってみれば?」


「暁さん、答えを教えてくれてもいいじゃないですか」


「尊君の悩む顔が面白いからやめておく。それに、実際に本を読めば答えが書いてるはずだよ」


 むくれる俺は雪国を口に含んだ。スッキリしているけど辛くはない。


 砂糖のじゃりっとした感触を舐め取って、俺は首を傾げていた。

 きっと答えはなんてことないことなんだろうけど、無性に気になるんだ。彼女が大事に本棚にしまっておくということは、何かしら感銘を受けた本なんだろう。どういうところを気に入ったんだろう?


 我ながらおかしいとは思うけどね。ただ、知りたかったんだ。


 翌日、早速、市立図書館に出向いた。図書館は小高い丘の上にあり、坂道を登っていくと、駐車場から街の様子がよく見えた。ここに来るのは、学生のとき以来だ。


 しんと静まり返る館内で千里ちゃんを探したが見当たらない。お昼時だから、休憩時間なのかもしれない。


 とりあえず、俺は覚えているものだけでも、と本を探し始めた。

 だが、ちゃんと記憶しているのは川端康成の『雪国』くらいなものだ。あとはうろ覚えで、探そうにも難儀した。


 検索システムでなんとかなるかな。そう思ったとき、後ろから小声で名前を呼ばれた。


「尊さん」


「あ、千里ちゃん!」


 思わず大きくなった声に、慌てて身をすくめる。千里ちゃんは長い髪を結い上げ、エプロン姿だった。


「こんにちは。あのときはありがとうございました」


 深々と礼をされた。一瞬きょとんとしたが、回転寿司店で大地と千里ちゃんの分を俺と真輝さんが支払ったことを思い出し、「気にしないで」と首を振った。俺はすっかり忘れていたというのに、律儀な子だな。


「尊さん、今日は本を借りに? 読書が好きなんですか?」


「ううん、残念ながら普段は読まないよ。俺、千里ちゃんに訊きたいことがあって来たんだ」


 事情を話すと、彼女が腕組みをして考え込んだ。


「ヘミングウェイの作品はどれですか?」


「それが覚えてなくて。なんたらの島々とか書いてたような気がする」


「あぁ、それじゃ『海流の中の島々』ですね」


「すごい、即答だ」


「ヘミングウェイ、すごく好きなんです。おすすめですよ。それから、レイモンド・チャンドラーはタイトルわかります?」


「なんか、文庫本で青い背表紙だったことしか覚えてないよ」


「......多分、ハヤカワ文庫でしょう。実際に見てみましょうか」


 彼女は文庫コーナーに俺を案内しながら、小声で言った。


「ハヤカワ文庫のチャンドラーの作品は背表紙が青なんですよ。タイトルを見たら思い出せますかね? 有名どころでは『さらば愛しき女よ』とか『長いお別れ』あたりかな」


「あ、そんな感じ。『長いお別れ』っぽい」


「他には『ゴッドファーザー』ですよね?」


「うん。千里ちゃんは答え、わかる?」


 千里ちゃんはちょっと考えてから「多分ですけど」と断りを入れて首を縦に振る。『多分』なんて言うわりに自信がありそうな目をしていた。


「でもねぇ、これ、尊さんは気づくべきですよ」


「わからないから、真冬に坂道登って図書館まで来たんだよ」


 肩をすくめた俺に、千里ちゃんが声をひそめて笑う。


「じゃあ、お答えします」


「これ、全部お酒が関係してる本なんですよ」


「お酒が?」


 俺が目を丸くすると、彼女は「はい」と得意げに言った。


「ヘミングウェイはダイキリってカクテルを愛したことでも有名だし、この作品にはお酒がたくさん出てきます。レイモンド・チャンドラーの作品には『ギムレットには早すぎる』っていう名台詞があるんです。それに『雪国』と『ゴッドファーザー』はそのままカクテルの名前になっているはずですよ」


「あぁ、そうか!」


 またもや大きくなった声に、慌てて口を塞ぐ。


「ありがとう、千里ちゃん」


「いいえ。これ、借りて行きます?」


「そうしようかな。まだまだ勉強不足みたいだから、俺」


 苦笑いして手にあった『長いお別れ』を彼女に託した。その後、彼女は驚くほどスピーディーに他の本も探し出してくれた。


 なるほど、暁さんがカクテルを飲ませてくれた訳がやっとわかった。いかにも琥珀亭のバーテンダーらしい所蔵だったわけだ。


 妙にすっきりした気持ちでアパートに戻る。出勤までの時間に、俺はとりあえず『雪国』のページをめくった。

 あの有名な書き出しが、無知な俺を待っていた。


 読み始めてすぐ、ページをめくる手が止まった。こんな言葉があったからだ。


『なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ』


 これを目にした途端、あの夜が甦った。まだ大学に入ったばかりの夏の夜だ。赤い月に照らされた真輝さんの横顔がよぎる。


「なんとなく好きで......」


 俺は口に出してみる。

 そうか、そういうことだったんだな。


 ひとり納得し、俺は目を閉じた。あの夜に戻った気分になる。


 だが、すぐに「違う」と感じた。だって、俺はまた出逢ってしまった。赤い月のひとに。『なんとなく』で終わらせたくないし、終わっちゃいけない気がしているんだ。


 俺はすぐ、携帯電話を取り出した。選択したのは暁さんの番号だ。


「暁さん、俺、わかりましたよ」


「なに? あぁ、あの本のこと? 簡単だったろ?」


「はい。......簡単なことでした」


 俺は息を深く吸う。

 そう、とても簡単なことだ。ただ、俺が気づいてなかっただけのことだった。


 その後、琥珀亭に出勤すると、おしぼりを畳む手を休めて、真輝さんが顔を上げた。


「あ、尊さん。今日もよろしくお願いします」


「はい。よろしくお願いします」


 俺の返事に微笑むと、彼女はまたおしぼりに手を伸ばす。その横顔を見つめ、俺は実感した。


 俺、この人が好きだったんだなぁ。


 でも、気づかないようにしていたんだ。正義さんに立ち向かう勇気がないのを認めたくないばかりに、選ばれない恐怖と惨めさから逃れたんだ。就職活動の辛さから逃げたときと同じように。


 いつまでたっても、臆病者で無力なままだ。せっかく琥珀亭という新しい世界に飛び込んだというのに、肝心なところは何一つ変わっちゃいないなんて、情けない話だ。

 こんな俺に一体、何ができるだろう? あの暁さんでさえ敵わない正義さんに勝てる気がしない。


 でも、現実は残酷だ。俺は気づいてしまった。彼女に触れたい。彼女に隣にいてほしい。そんな自分がいることに。


 それだけはわかるけど、あと一歩踏み出す勇気がない。暁さんみたいに、気持ちを曝け出すのが怖かった。今になって、暁さんの勇気がどれほどのものかわかる。


「別れた後ってそうらしいわ」


 頭の中で、『雪国』の駒子が俺にそう話しかけてきた。


 いや、違う。こうして、またこの人と会っているんだ。俺は駒子じゃない。好きだと言わずに別れたくない。


「なにしたらおしまいさ。味気ないよ」


 今度は『雪国』の島村がそう言ってくる。俺は拳を握りしめた。俺はどうしたって、彼女との毎日を終わらせたくないんだ。


 ずっと、手を取り合っていたいんだ。ただ、それだけを願っていた。なのに、手を出す勇気も持てないんだから、自分でも呆れてしまった。心底、自分の勇気のなさが情けなかった。

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