第12話 雪国に赤い月がまた昇る 前編

 北国の冬は呆れるほど長い。年が明けても雪は我が物顔で街に居座り、道幅を思いきり狭めている。


 その日は雪が降らず、冷え込みの厳しい夜だった。キンと尖った空気が道行く人々の頬を容赦なく刺す。鼻毛まで凍りつく勢いだ。雪が降ってくれたほうが暖かいものだが、雲は僅かで、澄んだ星空が広がっていた。入って来るお客様の誰もが鼻を真っ赤にし、温かいおしぼりにほっとした表情を浮かべる。そんな夜だった。


「真輝さん、大丈夫ですか?」


 店じまいが終わった俺は、部屋に戻る前に真輝さんに訊ねた。今日の彼女は喉風邪をひいて声を枯らしていたからだ。


「大丈夫、喉だけですから」


 声を出すのがやっと、という有様だが、彼女は気丈に振る舞っていた。


「お大事にしてくださいね。ちゃんと薬のんでくださいよ」


「大丈夫ですってば。ありがとう。おやすみなさい」


 気にはなったが、彼女の笑顔に少し安堵して部屋に戻った。


 ところが、部屋で寛いでいると突然お凛さんの大声がした。同時にドアを力一杯叩き付ける音が響く。


「尊! ちょいと! 尊、来てくれないか」


 ただごとじゃない。俺は急いで鍵を開けてドアを押し開ける。そこには珍しくすっかり取り乱したお凛さんが立っていた。インターホンを鳴らさずにドアを叩きまくってるんだから、相当な慌てようだ。


「どうしたんですか?」


「ちょっと来てくれるかい? そこの階段のところで真輝がうずくまってるんだよ」


 駆けつけてみると、店から二階に上がる階段の途中で真輝さんがぐったりへたり込んでいた。


「真輝さん、大丈夫ですか?」


 肩をつかんで上体を起こすと、真輝さんは朦朧としていた。そこにお凛さんが追いついて、真っ先に真輝さんの額と首筋に手を当てた。


「あぁ、こりゃ病院だな。この子、扁桃腺持ちなんだよ。朝会ったときは喉風邪とか言ってたけど、やっぱり熱があったんじゃないか」


 お凛さんは「まったく、強がりなんだから」と舌打ちし、俺を強く睨んだ。


「尊、救急に連れてくよ。抗生物質でないと効かないだろうからね」


「は、はい!」


 慌てふためきながら、俺は車の鍵を取りに走っていた。


 俺が車を用意している間に、お凛さんがぐったりする真輝さんから部屋の鍵を受け取り、保険証の場所を聞き出した。


 二人掛かりで真輝さんを支えながら後部座席に乗せる。お凛さんもその隣に寄り添うように座った。真輝さんは何も喋らず、ぐったりとしている。


 車を走らせる中、お凛さんが呆れたような口調で運転席の俺に話しかけた。


「まったく、尊は何も気づかなかったのかい」


「すみません。風邪を引いているのは知ってましたけど、ここまでひどいとは思ってなかったんです」


「別に謝ることじゃないけど、この子は何も言わないタイプだから気をつけて見てやってくれ」


 お凛さんが真輝さんの髪を撫でて言った。


「私が飲みに出てたら、もっと早く気づけたんだけどね」


 この頃、お凛さんは多忙のようだった。演奏会を控えているらしく、この日も琥珀亭には現れなかったのだ。


「演奏会のプログラムを印刷し終わって部屋に戻ろうとしたら、真輝がへたりこんでるじゃないか。一仕事終わったと思ったらコレだよ。まったく、ただでさえ残り少ない寿命を縮めないで欲しいわ」


 お凛さんのため息を黙って聞きながら、猛烈に後悔した。彼女がおかしいことに早く気づくべきだった。


 今思えば、仕事中に何度かグラスを落としそうになったり、やたらオーダーを聞き返したりしていた。いつもの彼女だったら、絶対にしないことだ。おそらく、そのときから熱が高かったんだろう。


 俺は彼女のことを何も見ていなかった。自分の仕事にばかり必死になって、見逃しちゃいけないものをまんまと見逃してしまったんだ。こんなに近くにいるはずなのに、情けない。


 なんだか申し訳ない気持ちで、お凛さんの肩に頭をもたれる真輝さんをバックミラー越しに見た。辛そうに俯く顔に、胸が痛んで仕方なかった。


 病院に着いて受付を済ましたものの、他にも大勢の患者がいてしばらく待たされた。


 早く診てやってよ。そんな焦りに唇を噛んだ。ぐったりとしている真輝さんの姿を見ていると、代われるものなら代わってあげたいとさえ思う。


 結局、診断は扁桃腺炎だった。

 抗生物質に解熱剤、胃薬が入って膨らんだ薬袋をもらって帰ってきた俺たちは、真輝さんを部屋に連れて行った。


 真輝さんの服をお凛さんが着替えさせてから、俺も手伝ってベッドに横たえる。


「すみません」


 絞り出した掠れ声でそう言った真輝さんに、お凛さんが半ば叱るように言い放った。


「まったく、無理するんじゃないよ。かえって手こずらせるんだから。まぁ、インフルエンザじゃないだけマシかね」


 言葉はキツいが、安堵の入り交じった響きがあった。

 お凛さんは、「ほらよ」と、俺に部屋の鍵を手渡す。


「まったく疲れたよ。あとは任せた。粥でも作ってやんな」


「えっ、俺がですか? お凛さんは?」


「すまないが、楽譜に弓順を書く作業が残ってるんだよ」


「あ、はい......」


 お凛さんが振り返ってニヤリとする。


「寝ている真輝に変な事しようもんなら、スモーキーにひっかかれるぞ」


「しませんよ!」


「ウブだねぇ」


 真っ赤になる俺をケラケラ笑い、お凛さんが出て行った。部屋には横たわる真輝さんと、鍵を手に呆然とする俺が取り残された。

 スモーキーが真輝さんの足元にうずくまりながら、不機嫌そうに尻尾を大きく揺らして床に叩きつけている。その金色の目が、俺を睨んでいるような気がした。


「氷枕がいるなぁ」


 俺は部屋の中を見回した。真輝さんの部屋は俺の部屋と同じ造りの1LDKだ。

 綺麗に整頓されたキッチンでジッパー付きの袋を探し当てると、氷水を入れた。


「タオルは......どこだ?」


 タオルを探そうと思ったが、あんまりあちこち物色するのも気が引けて、自分の部屋に走って戻り、タオルを持ってきた。

 真輝さんの額にタオルを敷いて、氷水入りの袋を当てる。ひんやりした感触が気持ちいいのか、彼女の表情が少し和らいだ。


 冷凍庫の製氷皿に水を張っておいたが、きっとすぐに足りなくなるだろう。そう考えて、コンビニへ走り、氷を買い足すことにした。琥珀亭に行けばいくらでも氷はあるけど、それを使ったらきっと真輝さんは怒るに違いない。


 コンビニで、彼女の目が覚めたときのために経口補水液とヨーグルトとアイスもカゴに入れた。走って戻ると、真輝さんは寝息を立てていた。薬が効いていたのか、さっきよりはマシだが、それでもまだ苦しそうだ。

 恐る恐る頬に触れると、外の空気で冷えた俺の指に熱が伝わった。真輝さんが「ふぅ」と息をついた。俺の指が気持ちいいんだろう。

 俺は座り込み、真輝さんの顔をしげしげと見つめる。


「すみません。気づいてあげられなくて」


 俺の囁きは薄暗い部屋に虚しく響いた。扁桃腺炎のせいで腫れた首筋を触ると、まだ熱がこもっていた。

 誰かの苦しむ姿に、代われるもんなら代わってあげたいなんて、初めて思ったかもしれない。ぼんやりと、そんなことを考えていた。


 その後、俺はキッチンで米と鍋を探し出し、お粥を作った。

 真輝さんの冷蔵庫は綺麗だった。下処理した食材がタッパーに入って保存されている。

 冷凍庫の中も同じように整理整頓が行き届いていて、一食分に分けたご飯や、小口切りの葱もある。思った以上に几帳面な性格らしい。まぁ、その中にラム酒のボトルが入っているのには笑ってしまったけれど。彼女はどうやらダーク・ラムが好きらしい。


 次いで、真輝さんの氷枕を作り直し、額に乗せた。彼女は相変わらず寝入ったままだ。


「まさか、真輝さんの部屋に入るなんてな」


 ひと段落ついた俺は、改めて真輝さんの部屋を見回した。

 一番驚いたのは、テレビがないことだった。リビングにはテーブルとソファ、パソコン、そして本棚くらいしか物がない。

 寝室にはベッドと箪笥があり、ベッドサイドの棚にはお香がある。いつかショッピングモールで買った蓮の形のお香立てだ。


 全体的に見ると、女性の部屋にしては殺伐としていた。無駄なものが一切ないというか、生活感がない。色もモノトーンで統一されているせいかもしれない。


 俺はふと、本棚の前に立ち、どんな本があるのか見た。推理ものやファンタジー、純文学など、いろんなジャンルの本だ。

 ただシェイクスピアだけはけっこうな冊数が揃っていた。作家としてこだわっているのはシェイクスピアだけらしい。あとはバラバラで、大体一人の作家につき一冊ずつだ。


 何を基準に選んだんだろう?

 ちょっと好奇心が湧いて、真輝さんに訊いてみたい気がした。


 真輝さんのところへ戻ると、ベッドサイドに座り込んだ。真輝さんが無防備にうっすら口を開けて寝ている。


「子どもみたい」


 俺はふっと笑い、頬に手の甲を当てた。

 熱い。そして、柔らかい。


 左胸がドクンと脈打った。もっと触りたいという衝動が沸き起こる。


「にゃあ」


 突然、スモーキーの鳴き声が響いて思わずビクリとした。黒猫を見ると、不純な気持ちの俺を責めているような顔をしている。


「大丈夫だよ、スモーキー」


 思わず苦笑してしまった。

 俺は自分の唇をなぞり、自分に言い聞かせるように呟く。


「......大丈夫。大丈夫」


 真輝さんは何も知らずに眠っている。その唇に髪の毛がひっかかっていた。おずおずと手を伸ばし、髪を払う。


 ずっと見ていたかった。でも同時に、すごく触れたかった。


 何かに吸い込まれそうな感覚に襲われる。俺の中に何かが宿った。


 思わず、彼女の乾いた唇を親指でなぞる。熱っぽいけれど、想像以上に柔らかな唇だった。


「......大丈夫じゃないや」


 俺は何をやってるんだ。

 頭の後ろをバリバリかいて、すっと立ち上がる。電気を消し、逃げるように部屋を後にした。これ以上ここにいたら、おかしくなりそうだ。


 自分の部屋に戻ると、携帯電話を取り出した。真輝さんのアドレスを選び、メールを打つ。


『何かあったら呼んでください。すぐ行きますから』


 送信完了を確かめ、ベッドに横になった。まだ心臓が大きく波打って、顔が熱い。指先に彼女の唇の感触が残っている気がして、じっと見つめる。


 その夜は寝付きが悪かった。

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