第4話朝と父さんのノート

次の日、雨はあがって空には再び晴天が覗いていた。


台所へ行くと、母さんが鍋に水をいっぱい汲んで火にかけていた。汗をだらだらと、それこそ床に水溜まりができそうなくらい流して作業をする母さんに、異常さを感じた。

台所は蒸気で酷く蒸していた。

「母さん、おはよう。その、なんかあったの?」

俺に気づいた母さんは、一度手を止めて振り返った。

「ああ、おはよう。もう、水道の水は使っちゃダメよ。朝御飯食べたらお買い物に行ってもらいたいから、お願いね」

水道?

「手を洗ったりするのはこのお水を使ってね」

そう言って、大きな瓶を指差した。

「絶対に町の水路からの水は飲んじゃダメ」

町の水路。ふと昨日行った工場を思い出した。

「触ったりしてもダメよ?何があるかわかんないから」

何があるか?昨日までそんなこと一言も言っていなかったのに?

「お友だちにも伝えてあげてちょうだい。体調が悪かったら家から出ちゃいけないとも」

体調?夏風邪のことか?

今年の夏風邪ってそんなにヤバイのか?

「それとね


お父さん、今朝死んじゃったって」


は、え?誰が

死んだ、って…


時間が止まったかと思った。

部屋の蒸し暑さも、外のセミの鳴き声も、全て消え失せてしまったかのようだった。

俺の心臓の音がだくだくと響いていた。

汗が流れ落ちる。

嫌な、汗だ。

「だ、って、昨日でんわが」

うまく声が出せない。

誰が、しんだって?


「きっとこれから大変なことになるわ。だから」

母さんの声は淡々としていた。

母さん?悲しくはないのか?父さんが

「だからね。しっかりして。

お父さんの意思を大事にしてあげて」

母さんは、泣いていた。泣き声もあげずに。

「わかった。わかったよ、母さん。

俺、ちゃんとする。父さんの分もちゃんとするから」

母さんは頷いて作業を再開した。





机の上に置かれていた朝食を自分の部屋に持っていって食べた。何も考えないようにした。

布団はまだ敷かれたままだった。

このまま横になり、眠りにつき、悪い夢だったらと思う。


枕元には、昨日眠りにつく前に置いたノートがそのままになっていた。父さんの字が、父さんが何か書いていた、何を。


俺は、やっとそのノートを手にとった。


一ページ目。日付は大体一年位前。書き出しは

『これより○○工場へ派遣されることとなった。工場の雰囲気は良い。ただ、スポンサーである△△企業に悪い噂を聞く。何もなければいいが。』

○○工場は、父さんが前にいた工場だ。

父さんの仕事は単純に体を使って労働しているものではない。どちらかといえば、技術面でアシスト・アドバイスをするというものらしい。

だから、工場内の人たちとはよく話をするらしい。

しばらくよくわからない記号や文(英語?ミミズが這ったような文字も時々入っている)がページを埋めていた。

多分仕事の技術的なことなんだろう。


俺は今まで、父さんの仕事について詳しく聞いたことはなかった。一度だけ、聞いたことがある。でも、全くわかんなくて。お父さんのお仕事は本当に難しいからねー。私も全くわからないわー。そんな風に笑いながら母さんも聞いていた。父さんは苦笑して、じゃあもうこの話はお仕舞いにしよう。そう言って俺の学校の友人について聞いてきた。


父さん、頭が本当によかったんだよな。

そう思いながらページを捲り続けた。


日付は半年前。丁度この町に異動になった頃だ。

そういう技術的なことが書かれたページが減った。時々焦ったような字で短い文がたくさん書かれている。箇条書きのところも多い。

俺は見つけた。

ノートの始めに書かれていた、父さんが心配していたスポンサーの企業。△△企業。

その名前が増えていた。

この企業、俺聞いたことがないな。まあ、興味ないから当然だけど。

それにしても、何をこんなに父さんは焦ってるんだ?


俺はページを捲り続けた。


日付は今年の春。ページの様子が一変した。

あんなに几帳面にびっしりと書かれていた文字が、半分以下に減っていたんだ。


何があったんだ?


ペラペラとページを捲る。すると、気になる言葉が書かれていた。

『ウィルス』『出血』『咳』『伝染』『水』

ウィルス?病気?

俺の頭に浮かぶ心当たり。

そして、次々と結び付き浮かび上がるひとつの可能性。


まさか


俺はページをとばし、日付を一番新しい、つまり父さんが書いた最後のページに進んだ。

最後のページには『ワクチンの製造方法』と書かれた難しい文。

そして、そして


「どうか生きて幸せに」


父さんが俺に向けて書いた最後のメッセージが、彼本来の丁寧で几帳面な字でしっかりと遺されていた。


父さん、父さん!


昨日最期に電話口で聞いた声と、工場で見た顔がよみがえる。

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