第191話 お見送り

 目が覚めた。今日はペーターさんが帰ってしまう。寂しいけれど、これからも私はリトールの町と行き来をするし、もう会えないわけじゃない。そう言い聞かせて私は立ち上がる。けれど実はまだ夜も明けていないのだ。スイレンにかかっている肌掛けを掛け直し、そっと部屋を出る。


「……お母様、お母様起きて……」


 隣の部屋はお父様とお母様の寝室だが、小声でお母様だけを起こす。


「……カレンおはよう……支度をしましょうか……」


 お母様はかなり眠そうだが、なんとか目を覚ましてくれた。なぜ夜も明けきらぬうちに起きたかというと理由があるのだ。


 昨夜ペーターさんに朝食は何が良いかと聞くと、皆から腐っているだ何だと散々言われた天然酵母で作られたブレッドが良いと言う。一次発酵や二次発酵のことを知らないお父様が「良いぞ」と簡単に返事をしてしまったのだ。けれど今日帰ってしまう人に「無理です」とも言えない。言えるはずがない。そこで皆が宴を楽しんでいる中、お母様だけを呼び出しブレッドの仕込みをしつつ発酵について説明をしたのだ。

 ただ問題があった。仕込みをしたが、終わると同時に寝る時間である。過発酵になってしまわぬよう発酵の確認をしなければないが、横になって寝てしまうときっと朝まで起きれないだろう。それで過発酵になってしまったら苦労が水の泡になってしまう。砂時計はあるが起こしてくれる目覚まし時計はない。そして気温の下がる夜にどれくらい発酵が進むのかも分からない。

 ……私は寝室に椅子を持ち込み座って寝ることにしたのだ。授業中に居眠りをしてしまい、椅子から落ちそうになるとビクッと起きてしまう現象を使うことにした。半分パニックになっていた私にはこの方法しか思い付かなかったのだ。


 皆を起こさないように足音を立てずに移動し、玄関前の元は台所であっただろう物置部屋に到着した。玄関の扉を開けると月の光が差し込んでくる。それを頼りに発酵具合を確かめると、思ったよりも発酵が進んでいた。


「……お母様、急がないとダメになってしまいそう……」


 小声でお母様に囁くと、「作業しやすいように外に出してしまいましょう」と言うので、二人でボウルに入った生地をバケツリレーのように運び出した。

 まだ太陽が顔を出さない世界は冷え込み、壁が有るのと無いのとで気温の差が激しいことに驚く。民たちの簡易の家が完成していて本当に良かったと心から思った。


「火を起こしてしまうわよ」


 外に出たことでお母様の声量は少し上がる。寒さと明かりの確保の為にお母様が火を起こす。私は作業台を持ち出し、膨らんだ生地を八等分程の大きさになるよう小さく分けて丸める。あぁいけない、濡れ布巾を忘れていた。民たちの家の近くにある飲料水用の濾過器である樽に向かい水を出す。思ったよりも水は冷たくなかったが、手が濡れたことにより冷えを感じる。寒さもあって小走りで作業台へと戻った。


「冷えるわね。火の前で作業しましょう」


 お母様も冷えるらしく、まだ温まりきらないオーブン前で手をかざして温もりを感じようとしていた。お母様に生地の丸め方の説明をし、丸めた生地は一度板の上に載せて濡れ布巾をかける。作業に集中しお互いに無言だったので辺りはシンと静まり返っている。音を出すような生き物はオアシスにしかいないはずなのだが、足音が近付いて来るのに気付いた。私とお母様は身構えた。


「何をしているんだ?」


 突如暗闇から声が聞こえたが、その声の持ち主はよく知る人物だ。


「タデ……驚かさないで」


「家の近くで音が聞こえたからな。さっきの小動物のような足音は姫か?」


 音を出さないようにしていたつもりだったが、どうやらタデを起こしてしまったようである。この時間帯に聞きなれない音を聞いたタデは探りに来たようだった。


「で、何を?」


 タデに一部始終を話すと「後でモクレンに文句を言ってやる」と言いながら手伝ってくれたのだ。


────


「ペーターさん……今日は同行出来なくてごめんなさい。また来てね? これ、お土産」


 よほどフワモチのブレッドが気に入ったのか、ペーターさんは「美味い美味い!」と朝からたくさん食べてくれた。早起きして大量に作った甲斐がある。そんなペーターさんにお土産として渡したのはブレッドの詰め合わせだ。実はアポーの実以外でも天然酵母を作っていたので、オーレンジンとベーリのブレッドも作ったのだ。ほんのりと果実の香りと色はついているが、分かりやすいように酵母ごとに形を変えて作った。


「ありがとう皆さん。本当に幸せな時間だった。いつかまた必ず来させてもらう」


 カゴに入ったブレッドの詰め合わせを大事に抱えて、広場に集まる全員の顔を見ながらペーターさんは最後の挨拶をした。今日ペーターさんをリトールの町へと送って行くのはタラとセリさんだ。二人は以前リトールの町へと行っているし、自分で作ったものを売る楽しさを知ったので売り物も荷車にたくさん積んでいる。


「さよなら! ペーターさん! また後でね!」


 遠くなっていく後ろ姿を見ながら、私も大きな声で手を振る。涙涙のお別れになるはずだった。

 なぜ過去形なのかというと、感動や寂しさを超える疲労と眠気のせいで『すぐにまた会える』という思考になっているからだ。それもこれもお父様のせいである。眠気で苛立ち思考が八つ当たり気味になってしまう。

 ペーターさんが森へと入り見えなくなったと同時に私とタデは崩れ落ちる。お母様は「寝顔はモクレン以外に見せない」と珍しく王妃らしい発言をし、気力でフラフラと家へと入って行った。


「姫……限界だ……このままここで寝るぞ……」


「……大いに賛成だわ……」


 タデはそんな状態でも私を気遣い腕枕をしてくれる。目は開かないが、まだ眠りに落ちていない私は近くにいるであろうハコベさんに話しかける。


「ハコベさん……ごめんなさい……」


「気にしなくて大丈夫よ。お疲れ様。うふふ、まるで親子ね」


 タデから事情を聞いていたハコベさんは怒ることなく労ってくれたが、お父様が反応し始めた。


「カレンの父は私だ! 私が腕枕をする!」


 と地面に寝そべる気配がしたが、私とタデに「うるさい!」と叱られ静かになったところで完全に眠りに落ちた。そして昼すぎに目を覚ますと、どういう寝方をしていたのか私の顔はタデとお父様のお腹に挟まれ、お父様がタデを腕枕するという事態に陥っていた。もちろん目を覚ました二人はいろんな喧嘩を始めたのは言うまでもない。

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