第2話

 奴を最初に見たのは、場末のパブだった。俺がなけなしの銅貨を麦酒に変え、汚れたままのグラスを受け取った夜だ。


 煤けた衣服を纏った貧民が集うパブは、この区画の掃き溜めだ。その殆どが炭鉱夫や煙突掃除夫で、重労働の疲労を忘れるために酒を求めてくる。

 斯く言う俺もその一人だ。輸送馬車の手綱を握る生業は、失敗時に責任と命の犠牲が付き纏う。近頃は皆貧しく、運ぶ貨物にも余裕が無いのだ。野盗や鴉に襲われるリスクだってある。毎日平穏無事に仕事を終えられているのは、僥倖なのだ。


「浮かない顔だね、大丈夫か?」

「景気が悪いんだよ。羽振りが良かったらこんな店になんて来ないさ、畜生……!」


 カウンター越しに店主は苦笑した。この麦酒も、本来ならもっと高いはずの代物なのだ。銅貨1枚は、破格の対応である。

 皆、疲弊しているのだ。どうしようもない貧しさと、それが原因で生まれた『生きる災害』に。


 霧に潜み、貨物を奪い、人を襲う。鴉は既に人類種の敵であり、生存圏を巡って俺たちと衝突を繰り返している。資産家共は月に銀貨2枚で用心棒を雇っていると聞くが、俺にそんな金があればこんな場所で燻っているわけがない。


「俺も、廃業するかな。このままじゃあ、馬に食わせる飼料さえ用意できねぇ。他の食い扶持を探すよ。どうせ長くは続かないだろうけどな!」


 グラスをカウンターに置き、管を巻く。その日の気分に限らず、麦酒はいつも苦い。悲観的な将来像も、酒場の喧騒なら掻き消してくれるだろう。


『……生きるために、誇りを捨てたか』


 カウンターの端から聞こえた声が、いやに耳に残る。俺が声のほうを一瞥すると、そこには異質な風体の客が座っていた。

 フード付きのローブを目深に被り、上から漆黒のインバネスコートを羽織った男だ。注文した胡桃クルミの殻を指で弄びながら、何かの詩を誦じるかのように呟く。それが俺に向けての言葉だと理解するのに、僅かな時間を要した。


「俺に言ってんのか……? あァ!? 喧嘩なら買うぞ!? 誇りなんかで腹は膨らませられねぇんだよ。俺ァ、生きるためなら誇りなんて……」

『本心では、どうだ? 外からの力によって無理矢理に境遇を変えられる事に満足しているのか?』

「人間、生きるためなら仕方ない事だってあるんだよ。皆、必死に……」

『……そうか、“人間”はそんなものか』


 そう言ったきり、そいつは黙りこくった。奇妙な男だ。酒には一口も口を付けずに、ただ胡桃を貪っている。

 その態度が妙に苛つき、俺は思わず拳を握る。酔った勢いもあり、気が大きくなっていたのだ。


 その瞬間、そいつは突き動かされるように立ち上がった。俺は腰に携えられた剣を目撃し、急激に血の気が引いていくのを感じる。喧嘩を売る相手を間違えたかもしれない。


「あっ、いや……これは……別に……」

『店主、勘定だ。釣りはいい……』


 そいつはカウンターに銀貨を投げ、足早にパブを抜けた。銀貨など久方ぶりに見たのか、店主は目を白黒させている。

 外は霧が深い。空も煙突が吐く黒煙に隠され、今が朝か夜かさえわからないのだ。なぜ外に出た、と考えた瞬間。喧騒が通り過ぎる!


「鴉が出たぞ!!」

「隠れろ、襲われるぞ!!」


 黒い風が路地を抜ける。窓をコツコツと叩く音が響き、ドアの隙間から不吉な黒翼が一枚入り込んだ。開け放たれたままなら、パブは大混乱に陥っていたかもしれない。

 看板を薙ぎ倒し、街灯を折らんとする。群れた鴉の猛威の前で、人間はあまりにも無力だ。

 故に、人々は鴉の鳴き声に敏感になった。遠くから聞こえる不快な声を耳にすれば、皆が屋内に避難するのだ。より貧しい者は路地裏に身を潜め、その日の食い扶持を奪われることのないよう必死に身を守る。それが、この街の日常だった。


「行ったか……?」

「いや、まだ残ってる……。今日は多いな!」


 息を潜めた酔客が外の確認をする中、俺は違った事を考えている。先程パブを出た男についてだ。

 剣を携えていた頃から考えるに、あいつは用心棒なのだろう。鴉を退ける事を生業にしているはずだ。それなら、何故この場に居ない? この場で外に躍り出れば、相当な利益を店主から徴収できたはずなのに。まるで事前に分かっていたかのように、騒ぎの渦中から逃げ出した。


 逃げる、と口に出し、俺は気付く。今日の鴉の群れは、一方向に向かっているのだ。どこか目的地があるのかと思ったが、実際は逆なのかもしれない。つまり、鴉こそが何かから逃げ出しているのだ。


『知恵を付けた癖に、誇りを失ったか。くだらないな、下郎共』


 俺は全てを理解した。だからこそ、そいつは異質だったのだ。

 黒霧を切り裂いて石畳に着地するインバネスコートの男は、重い蹴撃を既に見舞っている。黒翼が舞い、奴が踏み付けた鴉が悲鳴を上げた。


 無慈悲な食物連鎖を見ているようだ。そいつは剣を抜くことなく、蹴りだけで鴉に対処しているのである。

 蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人類の敵を憎々しげに見遣り、奴は静かに息を吐いた。その頭を覆うフードは着地の衝撃で脱げ、素顔が露わになる。


 大鴉だった。人の頭が乗るはずの場所には、黒々とした鳥類の頭が鎮座している。太い嘴に、深い闇を内包した瞳。人類の敵であるはずの鴉が、同族を狩っているのだ。


『……見られたか。まぁいい、これが俺の誇りだ』


「化け物だ……」

「出て行けッ、鬼ガラス!」


 鴉頭は衝撃的だったのだろう。俺の周囲の酔客は奴を口汚く罵り、街に現れる鴉との関係を邪推する。


「さっきの戦いだって、示し合わせたに違いない……」

「きっと、油断した俺らを食い殺すつもりなんだ……」


『お前らを襲って、俺に利益があるのか?』


 そう吐き捨てた鴉頭の用心棒は酔客に背を向け、悠々と立ち去ろうとした。その身体には翼がなく、なおさら不気味な鴉の頭部だけが目立つ。

 酔客たちはざわめいているが、俺は違った。インバネスコートの背中を追い、パブを足早に抜ける。黒霧の中でも見失わないように、目を見張りながら。


「待ってくれ。頼む、助けてほしいんだ……!」


 用心棒は立ち止まり、身を翻した。その表情から感情は伺えないが、声色には僅かな余裕があった。


『金貨2枚か、宝石はあるか?』


 俺は目を剥いた。高すぎる。金貨など見たこともないし、宝石があればとっくに売り払っている。足元を見ているのか?


『護衛か? 返り討ちか? それとも、復讐か? 俺は強いぞ……』


 腹を括らなければならない時はある。無謀にも思える事にコインを賭け、勝負に出ねばならない時が。そこを逃して尻尾を巻くのは、ただの腰抜けだ。


「仕事がもう一度軌道に乗れば、旦那が望むだけ払う。女王の首に掛かるエメラルドでも、王の像の眼に埋め込まれたダイヤモンドでも。だから、頼む! 俺に誇りを捨てさせないでくれ!」


 用心棒は鳴いた。それが合意の合図だと気付いたのは、数秒後だ。


『良いだろう。ただし、一つだけ条件がある。護衛の仕事が終わったら、俺の足になれ』

「……はぁ?」

『誇りのために、決着を付けないといけない相手がいるのだよ』

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