第二二話 母親という生き物(7)

「かはは、ごもっとも」


 おれが反論しても、まるでそんなことは想定内だとでもいうように年長者の余裕は揺るがない。


「けどな、それでも何かを成そうと努力することは無駄じゃねー。おまえのその枷は外れることはねーが、幸いなことにそれでも確かに軽くはなっていく。そのとき、枷をつけたままでも何かを成そうとしてきたおまえはすげー人間になってるはずだ。――たぶんな」


 おれはその言葉を全身に染み渡らせるように押し黙って噛み締めていた。……最後の余計な一言でそんな感銘も若干薄れもしたが。

 しかし、それでも。

 ここでつまびらかにされた永久の言葉が嘘偽りのない本音であることをしみじみと痛感させられ――――おれの意識は嗚咽おえつこらえるのに全力を注ぐハメになる。

 

「でも、もう少しくらい手ぇ抜いたっていーんだぞ」

「それは無理だな。だっておまえ、可愛いんだもん」


 その横顔に、おれは思わず目を見開いた。

 目元は細められ、口元は薄く開かれ、頬が緩みきったようなそれは。

 息子のおれが未だかつて見たことがないほどに稀有な、永久の屈託のない微笑だった。

 そこに人をからかうような、揶揄するような底意地の悪い向きはない。

 まるで少女かと見紛みまがうほどに純粋無垢な笑み。

 別に無理なんかしてねーよ、と永久は言う。


「演技なんかもしてねー。だって家族にこんなに可愛くておもしれー息子がいるんだぜ? おまえがあたしの目の前にいるだけで頬は緩むし、あたしがボケれば痒いところに手が届くよーなツッコミをくれやがる。あたしが楽しーんだ。あたしが癒されてんだ。あたしは昔から猫を飼いたいと思ってたんだが、そんなもんどーでもよくなるくれーにな」

「……おれは猫か」

「猫以上だな。……いーか、ゼッテーにあたしに気ぃ遣うんじゃねーぞ。おまえはそのままでいろ。内面も外見もな」


 一見。良いセリフ風に聞こえたそれに、おれは遅ればせながら首を傾げる。

 ボケられたら突っ込むのが礼儀だ。


「いや外見は無理だろ! 美夜みてーなこと言ってんじゃねーよ!」

「もしもそのままじゃなくなったらぶっ飛ばすから覚悟しとけ」

「内面の話だよな!? 自分の意思で身体の成長は止められねーからな!?」


 ったく、なんつー無理難題を吹っ掛けやがる……まぁ、それもおれに気を遣った冗句なんだろーけど。

 ガシッと、永久の細腕がおれの肩に回された。


「男子三日会わざれば、っつーけど、おまえも成長してんだなぁ」


 しみじみとそう漏らした永久の横顔を見上げると、無垢な中にも一抹の寂しさのようなものが見えたような気がして、おれはいかんともしがたい後ろめたさを自覚する。

 そう、こういう感情なんだ。永久がおれから遠ざけてきたのは。

 こいつとしてもこんなことに気づかれたくなかったかもしれないが気付いちまったもんはしょうがない。

 気付いちまったからには、ちゃんと言葉にしなきゃいけないことがある。

 滝川のヤツも言っていた。大事なのは近しい人間の献身に引け目を感じるか否かじゃない。


「……ありがとな。母さん」


 呆気に取られたような永久が無言でおれを見下ろしてくるのが視界の端に映り込んでいたが、おれとしては当然、正面から目を合わせることなんてできるわけがない。

 ……あぁ! 恥ずかしさで全身が熱い!

 下手したらマジで入院延長しそーなんだけど!

 十秒ほど遅れて永久の笑い声がエレベーター前に響き渡った。

 

「はっはっはっは! しおらしいおまえも悪くねーなぁ! きゅんと来ちまったぜ! うりゃ!」


 言うや否や、おれの身体は地面から浮き上がり、かと思えば一瞬の後には永久の腕の中へとすっぽりと収まっていた。


「ちょ! おま!」


 本当に、一体こいつはおれをいくつだと思っているのか。年齢不相応とはいえ、それなりに身体はデカくなったと思っていたのに。

 こんなことできるのも今のうちだけだぞ。


「んー? どーした息子よ。いつもの抵抗らしい抵抗がねーぞ」

「……たまにはされるがままになってやってもいーかと思っただけだよ」

「はっはっは! おまえは本当に猫みてーなヤツだなぁ。こっちが抱き上げようとすると逃げたり、かと思えば無抵抗に受け入れたり」

「どーせ一年後いちねんごには身体も成長して高校生らしい体格になって、こんなことできなくなってるだろーからな。それまでの期間限定で、おれの気が向いたときだけだ」

「……おいおい、そのままでいなきゃぶっ飛ばすっつっただろーがよ。聞いてなかったのか? ちゃんと自分の意志で成長止めろよ?」

「ちょっと待て声が怖ーんだけど! それ本気だったのか!? 親の言うことじゃねーぞ!!」

「はっはっはっは!」


 ――親の心子知らず。

 まったく、中三にもなるまでこんな簡単なことに気付けなかったなんてな。もっと早く気付いたって良かっただろーに。

 本当におれはどこまでも欠陥ばかりで…………幸せ者だ。

 こいつが母親で良かったと、おれは心底そう思った。

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