第五話 実体験の割合は?
どうやら茅野の言うところの不幸系無口少女の夜這いを受けることなく朝を迎えることができたようだった。
翌朝、味気ない朝食と日課の往診を終えると、やはりマキナの襲撃を避けるためにいつもの場所へと移動を始める。
ほんの数日前まで、あいつは絶対安静とまでは言わないまでもそれが推奨されるほどの容態だったので、この病院を隅から隅まで散策する余裕はなかった。
せいぜい自分の医療担当者の目を盗んでおれの病室に来るくらいだったので(本来ならそれもよろしくないのだが)、あの穴場のことは知らないはずだ。
小児科区画の前まで来たおれは、手前の通路を左に折れた。
今日も今日とて足を向けた行き付けの穴場には、案の定、ノートPCを正面に見据えるラヴノベル信者がいた。
「読んだ!?」
朝の挨拶もなしに第一声がこれだった。
おれはその飢えっぷりに心なしか辟易しながら椅子に腰を下ろす。
互いに昨日の初期配置と同じポジショニングだった。
「あぁ、読んだよ、一応な」
「どこまで読んだの?」
「……データで渡された分は全部」
「早っ! 読むの遅いとか言ってなかったっけ!?」
「あれはアレだな、戦略的方便ってヤツだな」
「要するに嘘ってことね……」
茅野は呆れたように額に手を当てたが、しかしそれも些細な問題だったようで、
「で、どうだった? 私の渾身のラヴノベルは」
と期待と自信が入り交じった顔で感想を求めてきた。
いやそこに不安も混ぜろよと思ったおれは忌憚のない感想を言ってやることにした。
「……まだ完結してないのに渾身とか言っちゃう辺りズレてんなって思った」
「小説に対する感想じゃないし! 大丈夫よ最終的には渾身の力作になるんだから! そうじゃなくて内容に対しての感想よ!」
渾身の力作になる自信があるなら感想を求める必要もないと思うんだけどなー。
まぁいい。
こいつのラヴノベルとやらを読んで思ったことはある。
しかしおれはそれを素直に言葉にすることが
「うん……オモシロイトオモウヨ」
「雑っ! 実感こもってないし! そういうのじゃなくてさ! なんかこう、もうちょっと実のあることをね?」
「別にどんな感想でもいいっつってたじゃねーか……」
「それにしてももうちょっと何かあるでしょ、面白いとかつまらないとかじゃなくてさ……何か問題のあるとことか変なとこはなかった? っていうことよ、矛盾とか
「冒頭の書き出しかな」
「あれは洗練された書き出しよ!」
「ほら、せっかく意見口にしても聞かねーじゃん……」
「うっ、それは、そうかもしれないけど……。書き出し以外で! 他に気になったところとかなかった?」
この女、どーしてあの書き出しにそんな自信を持てるんだ……。
主人公の女子高生が幼馴染み君にコクられたあの冒頭の台詞に……。
おれ的にはちょっと正気を疑うレベルだぞ……。
「んじゃあまぁ、感想っていうか質問が一つ」
「なになに? 言ってみて?」
茅野はテーブルに頬杖をついて目を細めた。
口元に浮かぶ微笑も
おれはこいつの書いたラヴノベルとやらを読んで抱いた疑問を作者に投げた。
「これ何パーセントくらい実話なの?」
すると茅野はわかりやすく眼を見開いたかと思うと、直後には動揺を
「ななななななんのことやら。百パーセント空想で書かれた恋愛小説デスヨ」
「ラヴノベルって言うの忘れてるしよ……。いやな、文芸とか純文方向に走るヤツってさ、処女作に実話とか実体験を混ぜてくる割合がやたら高いからそーなんじゃねーかって思ってさ。違うなら別にいーんだ」
byおれ調べ。
いや別に調べたわけじゃねーけど。
でも芥川賞作家とかたまにテレビに出てそんなトークとかしてるのを耳にすることがあるんだよな。タイプライターズで見た。
隣に座る年上の少女を見遣ると、忙しなく泳ぎ回っていた視線は今では轟沈し、テーブルの上に落とされている。
その面差しはまるでロダンの『考える人』のようだった。
沈黙が降りたのを機に、おれも例の小説の内容へと考えを巡らせることにした。
この茅野という入院患者に渡された自作小説のデータ、その作品に登場する主人公のキャラクター設定は、あまりにもこの少女自身の境遇と酷似しているように思えた。
もちろんそれだけで判断するのは早計というものだし、そもそもおれが
それでもこの少女が書いている作品が文芸色の強い小説であるということと、重い病を発症して入院することになったという主人公のその境遇は、そう推測させるには十分過ぎた。
……いや、おれはまだこの女子高生がどういった経緯で入院することになったのかすら知らないのだが。
だからこれはまぁ、おれが中学の文芸部で三年間、何人かのクリエイターたちを見てきた経験から来るただの勘だ。
「で、あんた、付き合ってるヤツとかいるのか?」
沈黙に耐えかねたというわけではないが、確認がてらそんな問いを向けてみた。
すると隣から返ってきたのは、
「……いない」
という、酷く端的な答え。
まるで多くは語りたくないと言わんばかりの素っ気なさと陰のある面持ち。
「そーか、まぁ別れたんだもんな」
「…………」
その視線は未だ伏せられたままだったが、垣間見える横顔には苦悶の色が滲んでいるような気がした。
正直に言えば、そんな顔を目の当たりにしたおれの胸中に罪悪感が湧いてきたというわけでもなかったが、それを放っておくのは躊躇われたので、僅かばかりの誠意を込めて謝罪を向けておく。
「わり、踏み込み過ぎたな」
おれたちは昨日今日初めて顔を会わせたばかりだ。互いのプライベートに踏み込むには時間が足らず、あったとしても軽々しくそんなことをしていい関係ではない。
互いに入院しているという、一段も二段も厄介な事情を抱えた身の上だ。
距離感は適切に保つ必要がある。
やがて、ふう、と深い息を
「キミは本当に、看護師さんたちから聞いてた通りの子だね」
そろそろ勉強でもするかと教科書とノートを開いていたところにそんな声が聞こえて、おれは思わず首を傾げる。
どーせまたろくでもない風評なんだろうと思って身構えていると、返ってきたのは何とも反応に困るものだった。
「本当に、大人なのか子供なのかよくわからない子」
どこか陰のある笑みでぽつりとそんなことを漏らしてきたので、おれは声に出して突っ込むのも憚られ、心中でひっそりと返しておいた。
いや、子供だろ。
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