第二五話 旧友からの電話(3)

「どうしてあなたがミコトのケータイに掛けてくるの」

『どうしてあんたがミコトのケータイに出んのよ……』


 と、おれの部屋はなぜか龍虎相対するような緊張感に空気が張り裂けそうになっていた。

 弟のケータイを我が物顔で耳に当てている姉に恨みがましく三白眼を向けるものの、電話の応対――いや、相手の撃退に意識を向けている当人はそれに気付く様子もない。

 今回は間が悪かった。

 いや、今までが奇跡だったんだと思う。

 学校にいる時間と睡眠時間を除けば八割くらいの時間おれに付きまとっているこのブラコンに、藍沢との電話が露見しなかったのは。

 夕食後、おれはごく当たり前のように金魚の糞の如く私室までついてきた美夜と共にくつろいでいた。

 一日の最後の食事を終えて睡魔が襲い放題の身体を存分にだらけさせていたおれは、それに気付かなかった――おれのケータイの背面ランプが点灯していることに。

 前回のこともあって音もバイブも鳴らないようにしていたというのが裏目に出た。


「ちょ、おま、まっ」


 というおれの制止の声も最後まで続く前に美夜はいち早く弟のケータイに飛び付き、勝手に通話ボタンを押しやがったというわけだ。まさに電光石火だった。秒だった。いや、しゅんだった。

 美夜は藍沢の疑問に淡々と、さも当たり前というように答える。


「わたしとミコトは一心同体。二人で一人。わたしのものはミコトのもの。ミコトのものはわたしのもの」

『あたしの質問に答えてないのよそれ!』


 ちなみに藍沢はその専攻分野のせいか、デフォで声量が並外れている。おれのケータイはあまり受話音量を高く設定されているわけでもないのに、はたで聞き耳を立てているだけのおれにも、よく通るハイトーンボイスをしっかりと届けてきた。もはやスピーカー要らずだ。


「答えてる。あなたはミコトに電話を掛けてきた。それはわたしに電話を掛けてきたことと同義」

『異議に決まってんでしょ! もうちょっと弟のプライバシーに配慮しなさいよ! このブラコン!!』

「え? ……ありがとう。まさか褒めてもらえるとは思わなかった」

『褒めてないのよ! けなしてんのよ!!』


 美夜はなぜかおれを振り返って首を傾げてきた。どういう事? とでも言わんばかりに。

 藍沢も昔、この愚姉とはよく絡んだ仲だ。口角泡を飛ばして罵り合い、取っ組み合って殴り合い、這いつくばって寝技を掛け合い――。

 美夜が皮肉や嫌みの通じるような人間でないことはわかっているだろうし、同じように皮肉や嫌みを口にする人間でないこともわかっているはずだ。

 美夜は自身に向けられた言葉から裏を読み取ろうとしない。

 ブラコンなんて言葉には額面通り以外の意味を持ち得ない。

 電話の向こうで頭を抱えている藍沢のが浮かんだ。……ご愁傷さん。


『相変わらずアタマぶっ飛んでるわねあんた!』


 おー、言ってやれ言ってやれ。この過保護にはもう少し常識というものを身に付けてほしいからな。


「何を言ってるのかわからない。でもあなたのやかましいその声は公害レベル。ミコトの耳に入れるには百害にしかならない」


 公害レベルは言い過ぎだが、こないだ一年ぶりくらいに掛かってきた藍沢からの電話を受けた時、その声量をすっかり忘れていて、その第一声が鼓膜を直撃したのは事実だしな。

 うん、もっと言ってやれ。


『ミコトだってもう健全な男子高校生なのよ! 一人で部屋にこもって××××見ながら××××したり、×××××使って××××したりしたいのよ! もうちょっとそういうことに気を配りなさい!』


 おー、言ってやれ言っ……


「って待てコラ黙って聞いてりゃ言わなくていいこと言いやがって! それ今言う必要あったか!?」

『あらミコト、いたの? 何これどういう状態? スピーカーにしてるの?』


 ケータイを耳に当てているのは飽くまで美夜だが、離れた位置から発されたおれの声もきちんと電話の向こうに届いているようだった。


「何これどういう状態? おれが訊きてーよ。逆におまえの耳が良すぎるんじゃねーの?」


 それも専攻分野が関係してるかもしれねーな。


『まぁ聞こえてんならいいわ。あんた身体大丈夫?』

「……何の話だよ」


 藍沢の疑問に、美夜の矛先しせんがおれに向いた。おれの胸中にひび割れて生じた僅かな隙間をこじ開けようとするかのような鋭い視線が。

 おれは逃げるように電話の向こうに意識を向ける。


『いえ? 相変わらず無理してんじゃないのかなーって、ちょっと疑問に思っただけよ』


 思い当たるのは、つい先日のショッピングモールでの一件だが、美夜の耳があるここでそれを白状するわけにはいかない。

 にしても、そのタイミングでそれを確認してくるなんて、相変わらず間がいいというか悪いというか。タイムリーにも程があんな。

 まぁ、これまでこんなに頻繁に連絡を寄越してくることなんてなかったわけだから、そんな偶然もあるか。

 ただ、こいつがこんな気の回し方をしてくるのには若干の違和感があることも事実だった。


「急にどういう風の吹き回しだよ。別に心配してるわけじゃねーだろ」


 こいつも初めて会ったばかりの頃はそれなりにそんな気の回し方をしてきたものだが、おれの頑固さを知ってからはあまりそういった態度は見せないようになってきた。

 おれを、病弱扱いしないようになってきた。


『別に心配してないわけじゃないけどね。でも限度ってもんはあるでしょ。ぶっ倒れて動けなくなったりとか』


 返答に窮する。

 おれのケータイを手にしたままの美夜の視線は変わらず鋭くおれに刺さっているが、人の言動から額面通り以上のものを読み取ろうとしないこいつには、変な勘繰りを入れるような意図はないはずだ。

 つーか藍沢も、どうしてこんなタイミングでそんなことを訊いてくるんだ。


「もういいでしょ」


 おれが逡巡し始めたせいで間が生まれたタイミングで、美夜が会話の主導権を奪い取っていった。


「遠くにいるあなたが心配するようなことじゃない。これ以上その声をミコトの耳に入れるとミコトの身体に障る」


 皮肉や嫌みではなく、これも本心で言っている。

 こいつは本心からそう思っている。

 

「二度と掛けてこないで、千代ちよ


 と、美夜がこれまで出てこなかったその名を口にした瞬間、藍沢が激昂した。


『あんた今本名で呼んだわね! あたしの事は藍沢蒼あいざわあおいって呼べって昔から言ってんでしょうが!』


 そんなやり取りが生じて、おれもはたと思い出す。


「あぁ、そういや藍沢蒼って偽名だったな。すっかり忘れてたわ」


 遠くにある自分のケータイに向けて言う。

 そしてなんかもう本当に、スピーカーで話しているかのような音量で返ってくる。


『偽名って言うな! 芸名って言いなさい!』

「はいはい。げーめーげーめー」

『雑に同意すんな!』


 藍沢蒼というのは、その昔、歌手を夢見たこいつが先走り過ぎて、そして本名がダサいからという理由で早々に自ら名付けたセカンドネームだ。藍沢はそれを自分の夢と併せて吹聴し、周りにそう呼ぶように求めるようになった。

 本名を呼ぶとこうやって小うるさいし、別にどっちでもいいからおれは藍沢と呼んでいたが、美夜のヤツは断固として本名のほうで呼ぶ。

 確か名字のほうは……。


『あたしのことは藍』


 プツッ、と。

 改めて声を荒げようとした藍沢を早々に電波の彼方に追い遣って、美夜は畳んだケータイをポケットに仕舞った。


「いや、ちゃんと返せよ、おれのケータイ」

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