前日譚 はじまりの三十年前 


 一体、どれだけの距離を奔ったのだろうか。


 体から吐き出される白い息が煙突から上がる煙の様だった。

 息をするのが苦しい、体が軋みを上げて壊れそうになる、ここで足を止めて楽になりたい、今すぐにでも休みたい、だから誰かに助けてほしい。しかし、どれだけ願っても足を止める事は出来ない。漆黒の闇に包まれた森の中を、僅かな月の光を頼りに走り続けるしかない。


 もし、足を止め様ならば、背後から迫る者達によって体を切り刻まれ、地獄の業火よりも辛く、永遠とも思える激痛に苛まれるだろう。

 

 少女は走り続ける。森の中を、草木を踏み倒して走り、気づけば片足から靴が無くなり、足の裏に泥と血をつけても走り続けるしか選択はない。

 

 今日は特別な日だった。


 本来なら少女が暮らしている教会から外に出る事は禁じられているが、今日だけは禁を破る事に少しの躊躇も感じられなかった。

 今日は少女の愛する人の誕生日。

 その人と会えなくなって数か月の月日が経つが故に、少女は禁を破ってしまった。

 森を抜け、川を越え、多くの人が集う街へと歩を進め、少女は愛する人に会いに行った。


 そして今、生まれて短い生涯の中で、初めて後悔という念に体を蝕まれた。


 知りたくなかった。こんな事なら教会の人々の言いつけを守っていれば良かった。そうすれば窮屈であっても、幸福を感じられる日々を過ごす事が出来たはずだった。だが、結局それは後の祭りに過ぎない。


 街の中央広場に置かれた物。


 皆がそれに目を向け、歓喜の叫びを上げていた。かつての羨望の眼差しを受けていた者に向けて、昔とは違う感情を向けていた。

 少女の知る人物だった。

 少女の知る人物だった物だった。

 少女の知る人物の顔はそのまま、そしてそれだけ。

 民衆は人だった物に向けて歓喜している。尊敬も愛情もない歓喜。まるで悪人が倒され、いい気味だと笑っている様な光景に、少女は心の底から絶望を抱く。

 どうして、皆はそんな顔をするのか理解できない。


 理解できないが故に叫んでしまった。


 愛する者の死を喜び、歓喜する人々に向かって憎悪の言葉を吐き出してしまった。一斉に向けられる民衆の視線は、今まで感じた事がない恐怖を抱かせる。民衆の手が少女に伸び、少女はその手から逃げ出す。背後から迫る恐怖と、内から漏れ出す後悔に呑まれぬように走り、彼女は教会へと足を進めていた。


 背後から感じる無数の殺気。幼い彼女にとっては向けられた事がない恐怖の感情。その感情から逃げ続けてどれだけの時間が経っただろうか。もう少し、もう少しで自分にとって安全な場所に辿り着く。そこまで行けば、きっと自分は助かるだろう。優しい神父と修道女達。自分を本当の家族の様に迎え入れてくれた人々の顔が脳裏に浮かび、それだけを頼りに森の中を走り続ける。


 木々の隙間から、協会のシルエットが視界に入った瞬間、今までため込んで来たものがあふれ出し、嗚咽を漏らしながら彼女は教会のドアを叩く。こんな時間まで何処に行っていたのかと怒られるかもしれない、などという疑念は少しもなく、ドアが開いて見知った顔があればすぐに抱き着き、泣き喚いてしまうだろう。


 ドアを叩く、ドンドンと。


 ドアを叩く、ドンドンと。


 ドアを叩く、トントンと。


 ドアを叩く、トン、トンと。


 ドアを叩く、トン、と。


 返事はなく、生気もない。少女の微かな力だけでドアは簡単に動き、軋んだ音が鳴り響く。少女の視界に写る光景は闇。教会の中に光はない。この時間であれば誰かしら居るはずの礼拝堂に人の気配はない。代わりに感じるのは異臭。数日前、炊き出しの手伝いをする際に、誤って指を切った時に流れた匂い。痛みの匂い。痛みの匂いが充満し、少女の呼吸は止まる。

 

 進んではいけない。見てはいけない。声を出してはいけない。


 少女はその禁を破った。


 悲鳴が木霊する教会には、無数の死。巨大な赤い沼となった場所に、生きる者の気配など一つとしてありはしない。足元から崩れ落ち、言葉を失くした少女に突き付けられた現実。それは街で見た、愛する父親の死と同等。この世の全てが壊れるような衝撃。頑張って走った事に対しての対価は、少女が望むものであるはずがない。


「あぁ、なんて可哀そうな子なんだろうね」

「……そうね、とても可哀そうな子ね」


 背後から聞こえる無邪気な声に、少女は恐る恐る振り返る。


「やぁ、お嬢様。僕達の事を覚えてる?」


 金髪の少年が尋ねる。少女はその問いについて考える。考えなければ、この光景に目を焼かれ、心を喰われそうになる気がしたからだ。そして答えはすんなりと出た。少女はこの二人を知っている。金髪と少年と、少年と同じ髪の色をした少女のことを。


「君の事を探していたんだ。君はかくれんぼが得意なんだね。まさか、こんな所に逃げているとは思ってもみなかったよ」


 嘘だ、と少女は確信した。

 少年は知っていたのだ、自分がこの教会に匿われていた事を。探していると言いながら、ずっと自分の事を放置していたに違いない。幼いなりに少女はそう確信してしまった。ならば、どうして今になって少年は此処に現れたのか。


「兄さん、この遊びは面白くなかったわ」


 少年に似た少女がそう言うと、二人の背後から無数の影が姿を現す。少女は小さな悲鳴を上げ、反射的に教会のドアを閉めた。閉めた所でどうにかなるわけでもないが、あの二人の姿をこれ以上、視界に入れている事に嫌悪していた。薄暗い教会、死が充満した教会の中で、少女は逃げ場を探す。だが、逃げ場などない。きっと外は連中に囲まれ、裏からも逃げる事は出来るはずがないと確信していた。


 少女は最後の望みを神に託す。


 神父と修道女達の死体に囲まれながら、膝をついて天に祈る。


 助けてください、と。


 天は少女の祈りを聞いた。


 神は少女の祈りを聞いた。


 それだけだった。


 教会の中にオレンジ色の光が差し込む。教会の窓から見えるオレンジ色の光は、救いを差し出した神の光ではなく、全ての物を焼き尽くす業火の光。光は外から中へ徐々に侵食し、あっという間に周囲を炎が囲む。炎は死を焼き、生を焼く。死が焼かれた匂いに絶望を抱き、少女は炎から逃げるようとするが、逃げ場など何処にもない。


 どうしてこんな事になったのか、どうしてこんな事をするのか、少女は何も理解する事が出来ない。自分達はただ平和に暮らしていただけ。苦しい時もあれば、悲しい時もあった。だが、それでも皆が手に手を取りって豊かな場所を作ろうとしていた。少なくとも、少女の父はそういう人間だった。だが、実際はどうだろうか。あんな死に方をして喜ばれるような結末が相応しい人間だっただろうか。


 否、断じて否だ。


 すべてはあの二人のせいだ。あの二人が現れたせいで全てが奪われてしまった。そんな奴等が生きて、そうじゃないまっとうな人々が殺される。こんな事を天が、神が許すはずがない。絶対に天罰が下るだろう。


 絶対に、絶対に、絶対に、絶対に――


「残念ながら、それはないんだな、これが」


 突如、少女の耳に、脳内に響く声。


「神様はそんな事はしない。神様ってのはお前等が想っている以上に忙しいんだ。何をして忙しいか知らないが、人間共の願いを聞き入れる余裕なんて、神様にはないんだよ」


 少女は見た。

 業火の中に佇む、闇よりも深い影。

 少女は尋ねる、あなたは誰と。

 影は答える。


「神様がお前の願いを聞き入れないなら、そこに来るのは俺に決まってるだろ?」


 声は男の様にも、女の様にも、子供にも老人にも、人ではない者にも聞こえた。


「なぁ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんは俺が誰か知っているはずだ。お嬢ちゃんの家にいた婆さんから、俺の事を聞いた事があるはずだ」


 少女は答えた。


 あくま、と。


「そういう風には呼ばれているが、実はそうじゃない。でも、お嬢ちゃんにとってそれが分かり易いなら、それでいい。俺は悪魔だ。優しい悪魔。人間が大嫌いな悪魔だ」


 悪魔はそう言うと、少女に向かって手を差し出す。その手には一枚のクッキー。


「お嬢ちゃんの願いを叶えてやろうじゃないか。あぁ、心配しなくても、代わりに魂を寄越せとか、死んだ後は地獄行きとか、そういうペナルティはない。なにせ、俺と出会ったのがペナルティみたいなもんだからな」


 何を言っているのか理解は出来ない。理解は出来ないが、少女の手は自然と悪魔が持っていたクッキーを手に取っていた。


「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんの願いは何だい?」


 悪魔は尋ねる。


 少女は願いを口にする。


 奪われた全てを奪いたい、あの兄妹から―― 


 ■■■


 翌朝、焼け焦げた教会の中からは沢山の死体が発見された。

 

 出火原因は不明だが、不幸にも生存者はいない。死亡者リストと照らし合わせる限り、この教会にいた全ての者達が助からなかったようだ。だが、この話はどうでも良い事で、すぐに人々の中から消えていく。


 彼等にとって必要なのは些細な死ではなく、この街を救ったヘンゼルとグレーテルという兄妹の英雄譚なのだから。


 そう、どうでも良い事だ。


 死亡者リストの中に、少女の名がない事など、どうでも良い事なのだ。


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