第12話 田端
田端駅から少し歩くと、池というには小さく、いつでもある水たまりといった感じの水場がある。そこに行けば、いつでもカワさんに会うことができる。
「よお」
水場の横に据えられたベンチに座ったカワさんは、私に気がつくと軽く片手を上げた。
カワさんは、カッパである。しかし河の童と書く河童と呼ぶには威厳があり、見た目も幼くないので、皆敬意を込めて「カワさん」と呼ぶ。
「こんにちは、カワさん」と応え、会釈してから隣に腰を下ろした。
水を掛け合う子供たちの声に交ざり、水の弾ける音が響く。その奥では、リンドウのつぼみが揺れていた。
カワさんは水場の端に手を突っ込むと、サイダーの入った瓶を二本取り出し、「飲むか」と言いながらベンチに戻ってきた。
こくりと頷き受け取ったサイダーは、それほど冷えてはいなかったが、のどで弾ける泡が心地よかった。
サイダーを飲んでいる私たちを見つけて、ずるい、ぼくも、と子供たちが寄ってきた。
「お前たちにサイダーはまだ早い」と言うとカワさんは、先程と同じ辺りに手を突っ込み、アップルジュースの瓶を三本持って来て、甲羅と首の間から子供と同じ数のコップを取り出し、ジュースを均等に注いだ。
子供たちは口々に、サイダーがいい、グレープジュースがいい、などと言いながらも素直にコップを口へと運び、きれいに飲み干してから、また水場へと走って行った。
「最近、色々なことを忘れてしまっている気がする」
私は空になったサイダーの瓶を手で弄びながら、呟いた。
「わしの名前を知っとるか」
カワさんは、指と指の間の水掻きを引っ張りながら言った。
カワさんの名前。カワさんが皆からカワさんと呼ばれていることは知っている。しかし、そういえばカワさんが自分のことをカワさんであると言っているのは、聞いたことがなかった。
「……カワさん」と、自信なさげにも、興味がないようにも聞こえる声で私は答えた。
それを聞いたカワさんは「じゃあ、重要なことは何一つ忘れていないな」と、断じる。
「人は、どうでもいい記憶から消していくもんだ。くだらないことを覚えている容量が脳みそに残っているうちは、重要な記憶も必ずどこかにしまわれている」
カワさんは甲羅の裏からバナナを二本取り出し、一本差し出してくる。
「だからわしは、真っ先に自分の名前を忘れた」と言うとカワさんは、バナナの着いたクチバシを少し歪めて「へっ」と笑う。
私はもらったバナナを頬張ったまま「ふふっ」と笑い返す。
カワさんの冗談は、いつも分かりにくい。
夕空に七つの子が響く。子供たちは揃って家路に着く。しばらく前からイビキをかいていたカワさんも、目を擦り「さて、家に帰る時間だ」と言った。
歩き出したカワさんは二、三歩行ってから振り返り「あんたはまだここにいるんかい。まさか帰る家を忘れた訳でもあるまい」と言ってから、「へっ」と笑った。そしてまっすぐに歩き出し、もう振り返ることはなかった。
私はその背中を見送った後、笑い声にもため息にも聞こえる音で息を吐き、立ち上がった。
私にももちろん、帰るべき家はある。
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