第6話 高田馬場

 雨の中をひたすら歩く。気がつけば持っていたはずの傘はすでに手になく、体を伝った雨水は、長靴の中でぐちゃぐちゃと音をたてている。


 高田馬場の駅前を通り過ぎると、虎の着ぐるみが雨に濡れたまま風船を配っていた。渡されないものと思い横を通り抜けようとすると、スッと手が差し出された。風船を受け取る。黄色い風船だ。

 風船には、パチンコ店の名が印刷されていた。パチンコ店の宣伝に風船? と一瞬不思議に思ったが、パチンコ店に通う何割かは夢を求めており、何割かは遊びを楽しんでおり、何割かは現実に追いたてられている。そう考えれば夢と遊び心がつまった風船は、パチンコの夢と遊びを想起させるのに最も適している気がしてくる。現実に追いたてられている客は、なにもせずとも店に足を運ぶのだろう。

 私はどこにあるのかもわからないパチンコ店の広告塔として、そのまま雨の中を歩き続けた。


 雨粒を弾く風船の振動が、糸を通じて手のひらに伝わる。風はそれほど強くない。

 集合住宅を囲う花壇に咲く紫陽花の前に、モスグリーンの雨具を着た少年がしゃがんでいた。

「何を見ているの」

 少年は、雨に濡れ美しく装飾花を揺らす花ではなく、その根本辺りをじっと見つめていた。曲げた膝を伸ばしながらこちらを振り向く少年は、荒涼とした草原を思わせる薄緑色の瞳をしていた。

 少しの時間私の顔を見つめた後、少年は言葉を発さずに花壇の土の上を指差す。そこには一匹の蛙がいた。

「カエル」と私が呟くと、うなずいた少年は指差す手を少し上に動かす。指先が新たに示した紫陽花の根本付近を見ると、一匹の蝸牛がいる。

「カタツムリ」と私が呟くと少年はうなずき、「昨日からずっと同じ場所にいる」と応えた。


 少年と肩を並べ、動きを止めた二匹の様子を覗き込む。

「二匹は驚いているように見える」

 少年の呟きに、「何に」と返す。

「二匹は同じ命の持ち主で」

 同じ命、と声には出さずに繰り返してみる。

「それぞれが自分の生まれ変わり、もしくはいつかの自分の姿だと気がついて」

 生まれ変わり、と口の中でなぞる。

「喜びか不安か、何かはわからないけど大きな情動が起こり、そのまま動きを止めてしまったのかもしれない」

 黄色い風船に雨粒が当たる音がする。

 なぜか、隣町で起きた事件のニュースを聞くときのような不安な気持ちになった。

「蛙はずっと蛙だよ。いつまでたっても蝸牛にはならない」と、不安の正体がつかめないままの私が言った。

「蛙はいつまでも蛙ではないよ。いつか動きを止めて、形を変えていく」

 こちらを向いた少年の目は、緑色を濃くしていた。花はいずれ枯れると教えられた日を思い出す。

「でも形を変えても、蛙はいずれまた蛙に戻るんでしょ? 種を残す花のように」

 姿がわからぬまま、不安は徐々に大きくなっていく。

「もちろん、蛙もおたまじゃくしを生む。でもそのおたまじゃくしたちは、生んだ蛙と同じ個体じゃない。蛙の命は動かなくなった蛙の体を離れて宙に浮かび、やがて新たに生まれた何かに宿る。それはおたまじゃくしに限らず、蝸牛かもしれないしヤゴかもしれないし、紫陽花かもしれない」

 蛙が蛙ではないものになる。とてつもなく突飛で、どこか恐ろしい考え方に思えた。


 風船が雨粒の勢いに負けて、細かく揺れる。少年の目が風船に移る。

 少年の目と風船を交互に見た後「風船、いる?」と聞いてみた。少年は嬉しそうに手を伸ばしかけてから、ハッとした表情を浮かべて、「今日のラッキーカラーは、白だったんだ」と呟いた。

「ラッキーカラー」。唐突な幼さを感じさせる発言にほっとして、少年の言葉を繰り返す。

「ラッキーカラー、知らないの?」と、少年は少し得意気な表情を見せる。

「ラッキーカラーぐらい知ってるわ」と、私は腕組をした。

「じゃあ、お姉さんの今日のラッキーカラーは?」との問いに「それは知らない」と応える。少年はそっと目をつむって上を向き、雨粒をしばらく顔に受けたあと、雨空を見上げたまま「きっと青だよ」と呟いた。その言葉に、紫陽花の青は深みを増した。


 家に着くころには、風船はずいぶん小さくなっていた。明日の朝にはガスが抜けきり、しぼんで床に落ちていることだろう。ここにきて、風船は追い立てる現実をも表していることに気が付く。

 一階の共有スペースに据えられた郵便受けを開く。中には、空色の封筒が一つ入っていた。

 封を開くと、ほんのりと桜の香りが広がった。

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