渡座《わたまし》の祈り
GB(那識あきら)
1 祈術師と鬼術師
作業場を取り囲む壁に、壁の上に渡された竹の
最年少である十三歳のサヴァも声を合わせながら、傍らの籠から次の
取れたばかりの繊維の束をサヴァが右手の籠に入れた時、「邪魔するよ」と言う男性の声が皆の歌声を遮った。
「サヴァ・ブラフタはいるか」
「はい」
サヴァは慌てて立ち上がった。男のかぶる椰子の葉の帽子に、金の刺繍が施されていたからだ。
「港まで来てくれ。北の帝国から客人が来ているんだ」
役人の言葉に、サヴァは眉間に皺を寄せた。
「まさか通訳を? 私より父に頼んだほうがいい」
お偉方の客人の相手など、まだ小娘のサヴァには荷が克ちすぎるだろう。そんな彼女の懸念を察することなく、役人は早く来いと手を閃かせた。
「一行に鬼術師がいるんだ。祈術について話が聞きたいらしい」
北の大陸を遥かに望む〈晴れの海峡〉の西の端、複雑に入り組んだ岸壁の奥に町がある。茶色い岩山に囲まれた、白い壁の家が海際までひしめき合っている港町だ。このあたりの海は潮の流れが速く、
港にある公館の控えの間でサヴァが引き合わされたのは、砂色の髪をした青年だった。鉄紺色の上着も脚衣も身体の形に沿っていて、風通しが悪くて暑そうだ。頭には帽子や
「さっそくだが、彼の手伝いをしてやってくれないか。
そう言うなり役人はさっさと控えの間を出ていってしまった。
見事なまでの丸投げっぷりに半ば呆然と役人を見送ったサヴァだったが、ほどなく気を取り直し、棒のように突っ立っている青年に訥々と帝国語で語りかけた。
『ええと。私の名前はサヴァといいます。貴方の名前は何ですか?』
サヴァの父は元々北の帝国で船乗りをしていた。嵐で船が難破してクナーンの船に助けられ、そしてサヴァの母と出会ったのだ。彼が「将来きっと役に立つから」と幼い頃からサヴァに帝国語を教えてくれたお蔭で、彼女は紡ぎ工房の仕事とは別に、時々通訳でもお金を稼ぐことができている。
サヴァに名を訊かれた青年はゆっくりと深呼吸をしたのち、「僕の名前はラーノです」と微笑んだ。
「クナーン語が話せるのか!?」
サヴァは、今度はまじまじと青年――ラーノを見上げた。北の帝国からは、一昨年あたりから商人以外の人間もたびたびこの町を訪れるようになっているが、そういったお偉方の客人は皆、通訳に喋らせてふんぞり返るばかりだったからだ。
「座学で詰め込んだだけで、こうやって実際に使うのは初めてですけれど。きちんと話せてます?」
ラーノの黒棗のような瞳が不安そうに揺らぐ。サヴァは慌ててこくこくと頷いた。
「あらためて、僕はラーノ・パシェクといいます。帝都の王城で働いている魔術師です。よろしくお願いします」
その一瞬、サヴァの耳に魔術――神秘のわざ――という言い回しが引っかかった。すぐに鬼術のことだと気がついたが、サヴァは何も言わずにおいた。お客の機嫌をわざわざ逆撫ですることはない、と思ったのだ。
「私はサヴァ・ブラフタ。水の
「水の『掌』とは何ですか?」
即座に質問が飛んできて、サヴァはつい目を丸くした。ラーノが苦笑とともに弁解を口にする。
「僕はクナーンに、貴方がたが使う祈術について学びに来ました。これからもこういう質問を沢山することになると思いますが、協力してもらえると嬉しいです」
サヴァを呼びに来た役人もそのようなことを言っていた。ならばとサヴァは、最適な単語を探し
「ええと、掌とは神様に祈りを捧げるための場所のことで、そこで祈る人の集まりを指すこともあるな」
「つまり、貴方は水の神に仕える祈術師ということですね。クナーンに貴方のような祈術師は何人ぐらいいるのですか?」
これは思った以上に面倒な仕事だぞ、とサヴァはそっと溜め息を吐き出した。
「なるほど、水の他に、炎、土、木、風、魂、魄、といった掌があり、それぞれ十人前後の祈り手が所属していて、それとは別にこちらにも二十人ほどの祈り手がいる」
町を見下ろす〈西の山〉の中腹、塗り替えを終えたばかりの眩い漆喰の壁を見上げてラーノが帳面を閉じた。滝のように流れる汗も厭わず、彼は港から延々と伸びる石段をずっとサヴァの言葉を書きつけながら登ってきたのだ。
「
「なるほど、祈術師には祈り手と祠官の二種類がある」
細密な浮き彫りが施された石の門をくぐった所で、ゆったりとした祠服を着た年配の男性祠官が二人を出迎えた。
ラーノが姿勢を正して、握り締めた右手を自分の胸に当てる。
「ようこそ、北の魔術師殿! 祠長とはもうお会いになられましたか?」
「港の公館で、ご挨拶しました」
「そちらも色々と大変なご様子ですが、我々祈術派――いや、そちらでは神術派と呼ぶのでしたか――としては協力は惜しみません」
ラーノ曰く、北の魔術師達はクナーンへの留学を計画しているとのことだった。今回、先遣としてラーノが一箇月間下調べをして、集めた情報を元にその詳細を決定するらしい。
「魔術師殿は良い時に来られた。月末には
ラーノ(とサヴァ)は、祠官の案内で神祠を見てまわった。神々の像が祀られた本祠、供物を捧げるための幣祠、祭りで使われる御神輿や楽器を納めた祠庫。クナーンの民の守り神である日の神は町なかに掌を持たず、この境内に礼拝堂が
石の門を出てすぐに、ラーノが「
「神様がお引越しすること」
「貴方がたがこの地に移り住んだことを意味するのでしょうか」
ラーノの問いに、サヴァは小さく頷いた。
「無事に安住の地を見つけることができた、そのお祝いをするんだ」
「なるほど」
祈術を使うクナーンの民は、かつては北の大陸に住んでいた。神官と呼ばれ、神々に祈りを捧げ、その恩恵を神術というかたちで人々に分け与えていた。
彼らが仕えていた王もまた神術の使い手だった。だがある時、王は
これに驚き反発したのが神官達だった。神への祝詞を言葉で正確に書き記すことなど不可能だったからだ。祈りとは神との対話であり、神と人とを繋ぐ唯一たるもの。祈らずして神のちからを使おうなど言語道断、傲岸不遜。それとも、王が使うのは神のちからではなく悪鬼のちからだとでもいうつもりなのか!
それを聞いた王は激怒した。そうまでしてお前達は特別な存在でいたいのか、と。民衆は王の言葉を受け、神官達が神のちからを独占しようとしていると決めつけた。地方の
サヴァは、目の前で熱心に帳面をとるラーノを見つめた。
「そうだ、先ほどの挨拶についても教えてください」
「え?」
「祠官殿の出迎えに対して、貴方は、こう、両手を重ねて、それからひっくり返しましたよね」
乞われるがままに、サヴァはいつもの礼をした。身体の前で手のひらを上にして両手を重ね、そのまま胸元に引き起こし、両腕が作る輪の中をくぐらせるようにして、重ねた両の手のひらを下方に向ける。
「日の神の恵みを両手で受け止めて地に満たす、という意味だ。あと、武器を持っていないことを示すためだとか」
「なるほど。それと、サヴァさんは祠官殿のような服は着ないのですか」
サヴァの服装は、腿までの丈の上衣と足首で絞られた脚衣という一般的なクナーンの民のものだ。対して祠服は脛までを隠す長い丈で、その布は染料を使わず生成りのままと定められている。
「祠官は神祠で神様のお世話をする人だからな。そもそもあんな服じゃ動きづらいし」
「なるほど、神祠は神域なのですね。見学を許されて本当に良かったです」
ありがたいありがたいとラーノが繰り返す。
サヴァはチラと背後を、神祠を振り返った。
あの祠官に限らず皆いつもならば魔術のことを鬼術と、場合によっては悪鬼術などと悪しざまに呼んでいる。奴らが使うのは悪鬼のちからを借りた邪な術だ、と。
しかし、父の話を聞いて育ったサヴァには、帝国の民が邪悪にまみれているようには感じられなかった。刃物が人を傷つける武器にも便利な道具にもなるように、悪鬼のちからでも使い方を間違えなければいいということなのかもしれない。サヴァ自身は悪鬼の助けを借りたいとは微塵も思わないけれども。
手のひらを返したようにラーノを歓待する祠官達の姿が脳裏に蘇り、サヴァの口から溜め息が漏れた。今まで悪鬼だのなんだの散々北の悪口を言っていたのは、自分達がかつて故郷を追い出されたことを単に根に持っていただけだった、という気がしてならなかったのだ。
結局のところラーノに関して通訳の必要はなかったわけだが、翌日以降も引き続きサヴァが彼を案内することになった。「彼女の説明はとても解りやすい」とのラーノの賛辞のお蔭か破格の日当を受け取ったサヴァは、その足で紡ぎ工房の親方に数日の休暇を願い出た。
明けて次の日、公館に出向いたサヴァにラーノは水の掌を見学したいと告げた。サヴァは少し考えて、帽子をかぶるよう彼に言った。鉄紺の上着の代わりにゆったりとした薄手の外套を勧めた。
ラーノが着替えてくるのを待って、二人は町に出た。港前の広場から、迷路のような路地へと足を踏み入れる。色とりどりの布があれば豚の内臓も並ぶ雑然とした商店街を、町の中心部に向かって段をのぼっていく。
驢馬に道を譲ること数度、〈水の広場〉へと二人はやってきた。漆喰の壁が立ち並ぶ中、山を背にした一軒だけ石材を積んで造られた建物がある。これが水の神の掌だ。
広い間口を入ってすぐは祈りの部屋で、水色のタイルで壁が彩られていた。三人掛けの木の長椅子が四列五行、入り口に背を向け並んでいる。正面にあるアーチの向こうは中庭になっていて、その奥はサヴァ達祈り手を束ねる
祠長から話が行っているのだろう、司掌はちらりとラーノを見やっただけで特に何も言わず、祈りの部屋の最前列に置かれた説法机で書きものを続けている。
「建物が開放的なのは、気候のせいか、それとも神々との繋がりを重視したせいか……」
「クナーンだって冬は寒いぞ。皆、上着を着こんでここに集まる」
なるほど、と頷くラーノの横顔をサヴァはちらりと盗み見た。掌の造りが何故こうなっているのかなど今まで考えたことがなかったな、と少し悔しく思いながら。
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